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まるくんの夢物語  作者: まるくん
第16章 夢破れて山河あり
17/70

実家に戻り、離婚を決意した猿投弘美は息子と共に新たな生活を始めます。夫との再会を経て、困難な状況を乗り越えるために家族の協力を得ることになります。

 

 息子の保育園に合わせて、私は実家に帰った。

 東京で就職し、結婚し、子供を産み、幾度となく帰省はしていた。子供を連れての帰省は、私には誇らしかった。「私の子供よ。あなたたちの孫よ」と私はそのとき、凱旋した気分で誇らしげにしていた。だが今はその時の感情とは違っていた。

 見慣れていた山や川や田んぼが見えてきた。春は浅く、青葉には遠かったが、すでに芽生え始めていた。田んぼの畦道には、淡い緑の草が揺れ、遠くの山々はまだ冬の名残を残していた。これから一、二か月もすると、若葉が一斉に輝いて緑の絨毯が広がるだろう。私が都会にゆく最大の要因となった大嫌いな虫も増えてくる。

 温かい陽射しが差し込み、私は車の窓を開けた。微かに草いきれが鼻をくすぐる。私の長くもない髪が顔に纏わりつく。その髪のなかに白髪があった。私は少なからずショックを感じて、白髪を抜き窓の外に捨てようとしたが、風にあおられて戻ってきた。

 白髪は、私の足元に落ちた。

 不思議な気持ちだった。白髪はなぜ足元に落ちるのだろうか。車は走っているのに、なぜ白髪は足元に落ちるのだろうか。時速五十キロで走っているのに、白髪はなぜ空中に漂っていられるのだろうか。時速五十キロの影響を受けないのだろうか。

 白髪を拾いあげ、私はそれを落としてみた。白髪は私の足もとに柔らかく落ちた。白髪と車とは関係ないのに白髪も時速五十キロで走っているのだろうか。私は車の外からその白髪が時速五十キロで走っているのを見たいと思った。

 私は足もとの白髪をつまんで、風にあおられないように腕を伸ばして捨てた。確認できなかったが、白髪はおそらく車から置き去りになったと思った。

 川面がきらきらと輝いて、シラサギが立っていた。

 何世紀が経っても何も変わらない風景が車の窓から過ぎてゆく。ひょっとして百年後にも今の地図が使えるのではないかと思った。私は過去に戻ったのだろうか、それとも未来にたどり着いたのだろうか。

「お母さん、家に海藻ある?」

「カイソウ?」

「ワカメとかコンブ」

「ないよ、そんなの。山のものならあるけど」

 山のもので髪に栄養のあるものはなんだろう、私はネットで検索してみようと考えた。まだ私は二十九歳なのに、もう白髪で悩まされるのかと嫌になった。

 春の風は気持ちがいい。春の日差しも気持ちがいい。私はこんなに落ち込んでいるのに、世界は残酷なまでに穏やかだった。

 なぜ? なぜ世の中はこんなに平和なのだろう。

 私は涙が溢れそうになった。泣いているのを私は母に悟られないように、窓の風景を眺める振りをしていた。母が嫌いというのではなく、年頃の娘が親に嫌悪を表す振り、素っ気ない振りを演じていた。彼女に涙を見られなくなかったのだ。私は結婚に失敗した、都会に負けたと思われたくなかった。

 離婚の原因は、わからなかった。

 高校を卒業して、私は大阪で就職した。そこで旦那と知り合って、割と早くに結婚した。旦那は世界でこれほどやさしい人はいない、と思わせるほどこまめな人だった。結婚するなら、この人だと運命のような気がして、  私は就職して四年で寿退社した。

 息子の紘一が産まれて、幸せな時期を過ごしたが、去年頃から旦那の様子がおかしくなった。

 彼は私に何か隠しているようだった。彼が何かに追い詰められ、夜も寝られない日が続いていたのを知っていた。それにつれて、私の体調も崩れた。育児も出来なくなった私は、一度、実家に帰って、そのことを両親に話した。実家に帰ると、私は落ち着いたのか、よく眠れ、体調も戻ってきた。なによりも両親が紘一の面倒を見てくれたのが助けとなった。

 離婚を決意して、シングルマザーを覚悟した私は、生活がままならなかった。人手不足と言いながら、幼い子供を持っての就職は叶わなかった。両親の世話になるしか方法がなく、何回目かの就職失敗の夜、私は実家に電話した。電話に出た父に、母と代わってもらって、「家に帰ってもいい?」と打ち明けた。私は負けたと思ったが、彼らを利用する方法を選んだ。

「弘美、もうすぐ着くよ」

「わかってる」

 運転しながら言った母に、私は出来るだけ不愛想にこたえた。

「なんだ、起きてたの。寝ているかと思った」

「紘一、もうすぐおばあちゃんちだよ」

 五歳になった息子を、旦那は広い心を持ち、視野を広く持つことを込めて紘一と名付けた。

「おばあちゃんち? おじいちゃんはいる?」

「おじいちゃんは用事があって出かけてるよ。おじいちゃんに会いたいの?」

 母は、ルームミラーを見ながら紘一に言った。

 紘一は答えなかった。

 田舎の家は広い。ここで私と五歳の男の子が紛れたとしても、スペースで両親と争うことはなかった。

 私は家の前に立った。生まれ育った家だ。玄関の開き戸の右側に少し傷がある。私が子供のころに釘で傷つけたものだった。このことは親にも言ってない。私はやっと安心した。なにか重いどよどよしたものが、私の中から消えていった。

「紘一、今日からここで暮らすよ」

「ここで? カナちゃんに会えないの?」

 カナとは、東京の近所の、紘一と仲の良い女の子だった。

「カナちゃんとは、いつか会えるよ。いつか東京に行こうね」

「東京に行こうね」

 紘一は楽しそうに言った。


 手荷物を玄関においたまま、私と紘一はとりあえずキッチン続きの、リビングのソファでくつろいだ。

 だが家の外では、私と息子のことは知られていた。

「弘美ちゃん、帰ってきたんだね。さっき車から降りてくるのを見たよ」

 私がリビングで息子とくつろいでいると、早速、隣の橋田さんの奥さんが訪ねてきた。「帰った」というのはどの範囲の質問なんだろう。帰省なのだろうか、Uターンなのだろうか。私は一時の帰省ではない。ひょっとすると生涯、この田舎にいるかもしれない。橋田さんはそこまで深く考えているのだろうか。その質問に私は「はい」 と答えた。

「いつまで居るの?」

 一瞬、返答に窮した。

「しばらく居るよ」

 母が代わって答えてくれた。

 田舎の人はずけずけと私の中に土足で入ってくる。悪気はないと分かっていても、そっとしておいて、と言いたくなる。

「離婚して帰ってきた」

 気丈に私は強がって見せた。離婚などなんでもない。旦那が嫌いになっただけのことだ。橋田さんは目を丸くしていた。どうせ隠したところですぐに分かることだった。母も驚いた様子を見せていた。二人は私をまじまじと見ていた、はずだった。私は彼女たちを無視して息子の髪を撫でていた。「離婚して帰ってきた」というのは私自身に言った言葉だ。そうだ私は、離婚して帰ってきたのだ。

「そうそう、これを持ってきた。つまらないものだけど受け取ってもらえない?」

 話題を変えるように、橋田さんは小さな包みと赤飯を差し出した。包みには「内祝い」と書かれていた。

「何かいいことあったの?」

 母が聞くと、

「詩織に子供が産まれた」

「えっ、詩織ちゃんに子供が産まれたの?」

 四歳年下の詩織は、私にとっては妹みたいな存在だった。ひとりっ子の私は、母によく、「妹が欲しい」とねだった。その詩織が養子を取って結婚していたのは、去年の帰省で母親に教えてもらっていた。


 実家に戻って間もなく、私は紘一を連れて、詩織が経営しているカフェをたずねた。詩織は、乳児を祖父母に預けて、カフェで働いていた。私はその日、気分を明るくしようと、さわやかなピンクのワンピースを着て、出かけていた。

「お久しぶり」

 カフェに入ると、まず挨拶をした。

「お久!」

 いつも明るい彼女は軽い乗りで応えてくれた。いきなり五年くらい時間が戻ったようだった。

「紘一君、こんにちは」

 彼女は、紘一に挨拶した。私は紘一に挨拶するようにうながした。

「こんにちは」

「子供が産まれたんだって? お母さんが内祝いを持ってきた」

「そうなのよ。女の子が産まれたの」

「詩織ちゃんも母親になったんだ」

「そうだね。信じられないよ」

 私は、ウッドデッキが見えるテーブル席に紘一と座り、コーヒーと子供にはジュースとパンケーキを頼んだ。

「弘美ちゃん、実家に戻ったんだって?」

 私は軽く、「うん」とうなずいた。彼女は、深く聞きたそうにしていたが、紘一の手前、遠慮していたように伺えた。

 ドアが開いて、スーツを着た老人が入って来た。彼のそばにはバーニーズマウンテンの犬がいた。

「いらっしゃい、まるくん。今日は買い物ですか?」

「墓参りの帰りだよ。桃が綺麗だったから少し切って来た」

「もらっていいの?」

 詩織は桃の花を受け取ると、花瓶に挿した。

「あら、凜ちゃん」

 詩織は犬に話しかけた。その犬は凜という名前らしい。凜は尻尾を千切れんばかりに振って、彼女に飛びついた。

「コーヒーとケーキを下さい」

「ホットでいいですか? ケーキはどれにしますか?」

「モンブランでお願いします。いや、ピーチのケーキがあるね。これにしよう」

 その老人は外のウッドデッキのテーブルに座った。ペット同伴の場合は外のテーブルに座ってもらうのが、このカフェのルールだった。

 紘一は、ジュースを飲み、パンケーキを食べ終わると落ち着きがなくなっていた。子供は大人の意思など関係なく、静かにしていなかった。窓の外で、バーニーズマウンテンが紘一に興味を示すと、彼も窓ガラスを叩いて応えた。

「ママ、犬と遊んでいい?」

「いいわよ。でも遠くに行かないでね」

 紘一は、ウッドデッキに出て、老人の犬と遊んだ。

 詩織は、紘一が居なくなると、直接的に聞いてきた。

「離婚したんだって?」

「正式にはまだだけど、離婚するつもりで帰って来た」

「そうなんだ。原因は? 浮気?」

 私は、なんとなくその言葉を待っていたようだ。

「原因は浮気とかじゃない。なにかよく分からないの」

「よく分からない?」

「もう会話がないし、なんか思い詰めているようで、家の中が暗いのよ。病気ではないかと思うときもある」

「どこか悪いの?」

「鬱病かもしれないと思った。食欲もなくなったし、痩せこけて、夜も寝られないみたいで、家庭内別居の状態になった」

「そんなに見えなかったけどな。でも旦那って、子供はお任せ状態でなにもしないしね。一日中、子供の世話をしていると気が狂いそうなときがあるわ」

「そうなのよ。私が子育てや家事で大変なのに、旦那は家でごそごそ大学時代のノートを探したり、メモをずっと見つめていたりして、その頃からおかしくなった」

 詩織は腕を組み、真剣な顔つきで考え込んだ。

「それって、なにか解決したい問題があったのかもね。男の人って、何かに固執しだすと周りが見えなくなることがあるでしょ。言いにくいけど、そこに奥さんのサポートが必要だったのかも」

「毎日、死神と暮らしているみたいなの。それで別居したけど、紘一を抱えて都合のいい仕事がなかったので実家に帰って来た」

 詩織は黙って聞いていたが、つぶやくように、

「そうだね、私も子供を産んだあと、夫婦って何なのか考えさせられた時期があった。なんか単純ではいかないよね」

 私は、今まで誰にも言えなかったことを吐き出すように言えた。詩織には両親に言えない事も軽い気持ちで言えた。ウッドデッキで遊ぶ紘一を見ながら、鬱積していた塊を吐き出すと、すっきりした気分になった。

 詩織は笑顔で私を見つめ、

「弘美ちゃん、よく頑張ったよ。全部抱え込まなくていいんだよ」

 と、そっと手を握ってくれた。私は胸の奥が軽くなったような気がした。


 あまり長居もいけないと思い、私は気分がよくなるとカフェを出ることにした。

「桃の花が綺麗ね。持って帰りたいわ」

「いいわよ。でもまるくんに断って」

 私はウッドデッキに出て、

「桃の花を貰っていいですか?」

 と老人に聞いた。

 許しを得ると、詩織は花瓶の桃の花を新聞紙に包んでくれた。私はそれを手にして、外へ出て、「絋ちゃん、帰るわよ」と言って、「子供と遊んでいただき、ありがとうございました。桃の花もありがとうございます」と老人に礼を言った。凜がワンと吠えると、「ありがとうね」と凜の頭を撫でた。

「桃の花は『再生。復活』を意味します」

 老人が突然言うと、私は驚いて彼を見詰めました。なにかすべてを見透かされたような気がしたからだった。 

「花言葉ですか?」

「いえ違います。むかしから言われています。厄払いや魔除けにも使われる神聖な花です。桃の花は特別な意味があります。この花を飾れば、これからいい事が起こります」

 私は、彼をじっと見つめて、なぜ「再生・復活」と言ったのか聞きただそうとしましたが、結局なにも言わずに軽く会釈をし、紘一君の手を握ってカフェを出た。


 私は保育園に紘一を迎えに行くために、母親の軽自動車に乗ろうとしたとき、隣のお祖母さんが畑で立っていた。

 隣の橋田さんの家のそばに、小さな畑があって、お祖母さんがそこでささやかな野菜を育てていた。よく畑仕事をしているのを見かけたが、彼女は突っ立たまま身じろぎもしないでいた。私は、なにか違和感を感じて、お祖母さんに声をかけた。

「お祖母さん、どうしたの?」

「声が聞こえる」

 私は、耳を澄ませてみた。鳥のさえずり、木々の葉のそよぎ以外、なにも聞こえてこなかった。

「どんな声が聞こえるの?」

「私を呼ぶ声が聞こえる」

「なにも聞こえないわ」

 隣のお祖母さん、みつゑさんの顔に夕焼けが朱く染まっていた。むくむくと真っ赤に焼けた雲の向こうに、今にも落ちそうな太陽が、みつゑさんの皴のひと筋ひと筋を鮮やかに刻んでいた。私はその歴史のような皴が美しいと思った。私も、彼女のように美しく歳を取る事ができるだろうか?

「おや、弘美ちゃんかい? 帰って来たんだってね」

 その言い方は普段のみつゑさんだった。

「どんな声が聞こえたの?」

「黒い森から、私を呼ぶ声がしたんだ」

 私は、彼女が認知症の一歩手前なのではないかと疑った。私は話を合わせようと、

「黒い森から、どんな声が聞こえたの?」

「みつゑちゃん、みつゑちゃん、と呼ぶんだよ」

 彼女は、恥ずかしそうに肩をすくめた。

 車に乗ると、フェンダーミラーに夕焼けが映っていた。その夕焼けが美しかったので、私は振り返って見た。

 その夕焼けは思ったほど美しくはなかった。私は、またフェンダーミラーを見た。夕焼けはやはり美しかった。私は何度も振り返って、実際の夕焼けと、フェンダーミラーの夕焼けを見比べた。フェンダーミラーで切り取られた夕焼けは実際よりも美しかった。

 結婚した頃の事を思い出した。

 旦那との馴れ初め、結婚当初の甘い生活がありありと思い出されてきた。

 彼に車で送ってもらった事があって、パーキングから出るとき、彼が駐車券を口に咥えた。その仕草が可愛いと感じた。たったそれだけの他愛もない仕草で、私はこの人と結婚すると運命的なものを感じた。フェンダーミラーの夕焼けを見ていると、それらの思い出が浄化されて美しく感じた。

 気がつくと、時間が過ぎていて、私は大急ぎで保育園に向かった。

 紘一を連れて帰宅すると、旦那が居て、私は驚いた。だがすぐに我に返って、彼が離婚届けの書類でも持ってきたのだろうと推測した。

 旦那は、床の間のある部屋で、独りでいた。

 私は会いたくはなかったが、無視する事も出来なかったので、意を決して襖を開けた。だが開けると、そこには死神のような男性は居なかった。彼は知り合った頃のように、さわやかな明るい男性だった。

 しばらくして、母親がお茶を淹れてきた。母親が部屋から出ると、彼は正座に座りなおして、私を正面から見た。私はその視線に耐え切れず、お茶が入った湯飲みを見て、それを飲んだ。

「やり直してもらえないか?」

 私はお茶を吹き出しそうになった。上目遣いで彼を見た。プロポーズしたときの真剣な目つきだった。私は死神を愛したのではなかった。生きた彼がそこに居た。

「実は」

 と彼は言った。

 ある自衛隊員から製品の依頼を受けて制作したが、ある部品の制作が難しくて下請けの会社に頼んだ。それは完成して会社に送られてきた。請求書には240万円とあった。会社の常務には部品代の許可を取っていたが、請求書を送ると、許可した覚えはないと言われた。

「自衛隊員に請求すればよかったんじゃない?」

「その自衛隊員はヘリコプターが墜落して死んだんだ」

「ああ、あのときの事故。でも自衛隊に請求書は送れるでしょ」

「機密事項ということで、契約書を取ってなかったんだ。それで常務に制作費をどうするか言質を取ったんだ。でも常務は白を切った」

「そんな事で悩んでいたの」

「そうなんだ。それで思い悩んで、その部品を下請けの会社に黙って送り返した」

「その下請け会社もいい迷惑ね」

「そうなんだ。道義的責任からもこのまま黙っているのも気が引けていた」

「わかったわ。父に相談してみる」

 私は父と母を呼んで、いきさつを話した。

 父はしばらく考えたあと、

「農協で借りてみよう。どうせ俺たちが死ねば、この家も田んぼもおまえのものだ。生前贈与のつもりで何とかしよう」

 と理解してくれた。

 もし父が反対すれば、必死で説得しようと覚悟していたが、あっさり承諾してくれたので肩透かしをくったようだった。

 実家は裕福な農家ではなかったが、父はなんとかなると言ってくれた。

 その代金を建部製作所というところに振り込み、部品が送られてきた。私はその部品を見て、諸悪の原因は「これだ」と睨みつけた。

 その後、旦那は会社を辞め、私たちと実家で暮らし、農業を手伝った。私は、詩織にもその事を話すと、彼女は喜んでくれた。食べるだけなら、農業という職業は便利だった。肉や魚でなければ、食べる物はいくらでもあった。旦那ひとりが増えても困ることはなかった。

 カフェにも、旦那を連れて紹介した。

 私たちは、カフェに行くことが多くなり、子供を連れて行くことはもちろん、両親も連れだって行くほどになっていた。たいていは週に一度くらいで、買い物がてらに行くことが殆どだった。そうしたとき、偶然にあの老人とまた会った。彼はウッドデッキでコーヒーとケーキを楽しんでいた。彼の足もとには、あのバーニーズマウンテンが寝ていた。

「ママ、凜がいるよ。遊んでいい?」

 紘一は嬉しそうに聞いてきた。

「いいわよ」

 旦那も一緒にウッドデッキに出て、犬と遊んだ。そのうち旦那はテーブルに座って、老人とメモを見ながら話し込んでいた。

 私には、その話の内容は知る術はなかったが、その日から、旦那は農業の手伝いを減らしてもらい、週に何日か老人の家を訪ねるようになった。

 私は彼が、また死神になるのではないかと心配になってきた。

「大丈夫? また変な事になるんじゃない」

 彼に問いただすと、

「大丈夫だよ。変な事にならないよ」

 私はその言葉を信用した。彼の顔が明るかったからだった。

「あの部品はどこに行ったかな?」

「建部製作所の部品?」

「そうだ、その部品」

「お祓いでもしようかなと思って、押し入れに入れてある」

 私は、彼に要求されて、その部品を出した。

 その翌日、彼は農業の手伝いをやすんで、その部品を老人のところに持っていった。母は、枯れてすっかり忘れてしまった桃の花を、花瓶から取り出し、「いつまで飾ってるの?」とゴミ箱に捨てた。

 3週間して、とつぜん建部製作所の社員が家に泊まりに来た。旦那から、「一生のお願いだ。頼む」と願い倒された。


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