主人公が子供の頃、母親にミニカー買ってくれとねだるが、「お金持ちになったらね」とはぐらかされる。主人公と母親との思い出。
雪がまぶしい朝だった。
昭和38年(1963)、私が小学校2年の正月だった。
夜半に降り続いた雪は、よく晴れた日に輝いて、寒さを忘れるくらい美しかった。家々の屋根を覆い、庭先の木々に白い帽子をかぶせていて、何もかも吸い込んで静かだった。
「おめでとう」
父と母が私にそう言った。
なぜそう言うのか理解できなくて、母を見ていると、
「今日はお正月だから、『おめでとう』と言うのよ。人に会ったら、『おめでとう』と挨拶するの」
「おめでとう」
とよく分からないままに私は挨拶した。
お節と雑煮を食べ、しばらくゆっくりとしていると、洗い物を済ませた母親が来て、羽織と袴を着せられた。防虫剤の匂いがした。父親も1着しかないスーツを着てネクタイをしていた。その父からも防虫剤の匂いがした。
「ネクタイも1年振りだな」
父親は姿見で着こなしを確かめながら言った。
私は新しい靴下を履いていた。下着も新しかった。父の靴下も新しかった。
炬燵に入った父と私は、母が着物に着替えるのを待った。父は煙草盆を手繰り寄せ、タバコに火を点けた。部屋はタバコと防虫剤の匂いで充ちた。
父と母が昼間、家にいる事が珍しく、それだけで私は幸せだった。いつも私は学校から帰ると独りだった。私は何が始まるのだろうかと漠然と背中を丸くして炬燵に入っていた。
父母と私は、2㎞先の神社に行った。
いつもは閑散とした神社に幟が立てられ、屋台が並び、そこかしこに人で溢れていた。
私は、今日は特別な日だと感じた。
屋台を見るのが珍しく、並べられた今川焼、鶏卵焼き、りんご飴が私の目を惹いた。ほかにもお面、ヨーヨー風船、射撃場なども興味を惹くものばかりだった。数人の子供が、親にねだっているのを見て羨ましくなった。それらは私には縁のないものだった。私はそれらの世界に住んでいなかった。
本殿の前で、母親は「きっと願い事は叶うから、お願いしなさい」と私に5円玉を渡してくれた。
「ほんと? ほんとにもらえるの? ミニカーでもいいの? いつもらえるの?」
「お願いしていたら、本当にもらえる。お願いし続けたら、きっともらえる」
賽銭の5円玉を投げ、教えられた作法通りに鈴を鳴らして、2礼2拍手し、「ミニカーを下さい」と願い事をした。
帰宅して着替えると、母親は擦り切れた布財布の中から50円玉を取り出して、私の小さな手のひらにそっと置き、両手で握らせた。洗い物を終えたばかりの母の手は冷たかった。私は手のひらを開いて、磨き上げられたようなピカピカの50円玉に目を見開いた。
「今日は50円だけ。あしたになったら、また50円を上げる。あさっても50円を上げる。全部で150円よ」
「150円も貰えるんだ」
母親は微笑んで軽くうなずいた。
その当時の米の価格は10㎏で1,000~1,200円、180mlのガラス瓶に入った牛乳が10円、同じく瓶入りのヨーグルトが5円、菓子パンが5円か10円、ガソリンは1リットル51円だった。
私にとって50円はたいへんな額だった。それも正月3日間、毎日もらえるのである。私は一度も使ったこのない黒い小銭入れに50円玉を入れて、雪道を駄菓子屋に急いだ。
いつもは買えない駄菓子をたくさん持って帰宅の途中、近所の子供たちに出会った。みんな何かを食べたり、口を動かしたりしていた。私は彼らに優越感を感じて、近寄って行った。
みんなにこやかな顔をしていた。
「やあ、まるくん」
私は、自分の小銭入れに何が入っているかを自慢したい衝動に駆られていた。駄菓子をたくさん買っても、まだ20円くらい残っていた。
「まるくん、いくら貰った?」
私は驚いた。なぜ私がお金を貰っている事を知っているのか不思議だった。私はその日、特別だと思っていた優越感がしだいに薄れていった。
「50円もらった」
みんなが大笑いした。
「俺は500円もらった」
「俺は1,000円だ」
「俺は500円だけど、おじいちゃんから1,000円もらえる」
私は彼らに、
「だけどあした、また50円もらえる。あさってもまた50円もらえる」
みんなは前よりも大笑いした。
私は、このときまで正月に子供たちがお年玉を貰える習慣があるのを知らなかったのだ。記憶が定かではないのだが、お年玉を貰ったのはこの年が初めてだったような気がした。
帰宅して私は、母に駄菓子を広げて見せた。
「たくさん買ったね」
父親は、その駄菓子から、
「ひとつくれ」
と手を伸ばして取った。キャラメルか何かだったような気がする。父親はよく、そうやって私のおやつを取ったが、それがたまらなく嫌だった。しかしその日は気にならなかった。
私は父と母に、近所の子供たちのお年玉の額を言わなかった。私は家庭の事情を薄々感じていたので、言ってはならない、無駄だと知っていた。
その頃の日本はみんなが貧乏で、取り分け私の家は平均よりも下回っていた。原因は商売に失敗したときの借金だった。父と歩いているとき、果物屋のりんごが美味しそうに見えて、「買って」とせがんだら、「借金がなくなったら」と言った事があった。「ジュースが欲しい」と言ったら、父は「水道の水を飲んでろ」と言われた事もあった。
この町に小さな玩具店が2つあった。ひとつは駅前にあり、もうひとつは歩いていけるくらいのちょっとした繁華街にあった。
私は、たまに玩具店に行くのが好きだった。
たくさんの玩具が時間を忘れさせ、殊にそのころ流行していたミニカーに魅せられていた。ただのミニカーでなく、裏に銅線が垂れていて、専用のサーキット場で走らせる事が出来た。ミニカーの銅線とサーキット場に設えられた銅線が接触して電気が流れ、ミニカーのモーターがまわる仕組みだった。その玩具店には奥に専用のサーキット場があり、使用料を払えば利用できた。
そこではいつも子供たちで溢れていた。
コーナリングにはテクニックがあるみたいで、ミニカーが曲がれずにサーキット場からよく飛び出していた。スピードを落とさずに曲がると、子供たちから声援を受けていた。
サーキット場を見学するのも楽しかったが、ミニカーがずらりと並んでいるのを見るのは壮観だった。うしろに羽根を着けているレースタイプが殆どで、赤や黄色、青と色々なミニカーがあった。私はそのミニカーの名前を覚えるまでになっていた。その格好良さは私を惹きつけて放さなかった。未来を見ているようだった。街を走っている車も、こんなデザインにすればいいのにと思っていた。
実際に買えなくても、自分ならどれを買うか、と想像するのは楽しかった。夜、布団に入って目を閉じると、真っ赤なミニカーを手にしている自分がいた。
父と母は、朝6時に起きていた。
前夜、寝る前に、目覚まし時計のネジを巻き、時間をセットするのが私の役目だった。それが済むと、信心深い母親は、仏壇に手を合わせて就寝の言葉をかけた。
母は、「おばあちゃんに願い事をすれば叶う」
と言って、私も強制させられた。
私は、「ミニカーがもらえますように」と、そんな事が起こるはずがない、と思いながら願い事をした。父が仏壇に手を合わせるのは見たことがなかった。
それが終わって、みんな寝床に入り、電気を消した。
父は仕事に出、母は洗濯をしていたようだ。私は寝ていたので、父が出かけたのも、母が洗濯をしているのも見たことはなかった。まだ洗濯機がなかったので、最近気がついたのだが、母親は手洗いをしていたはずだった。近所に共同水道があって、長い時間そこで洗濯をしている女性を見たことがあった。大量の洗濯物だったことを覚えている。
私は7時ごろに起こされて、眠い目を擦りながら服に着替えていた。着替えていないと、母親は私を強く叱責した。私は着替えながら、期待もせずにミニカーを探してみた。着替えているあいだに、母は布団を畳んで押し入れに仕舞った。
彼女の朝は忙しかった。すぐに外に出て洗濯物を干していた。私は窓からその仕事を見るのが日課だった。安アパートの掃き出し窓を開け放しにして、洗濯物を入れた籠をそこに置いて干していたから、冬は寒くて、母が終わるのが待ち遠しくて仕方がなかった。それが済んでから、昨夜の残り物と簡単なみそ汁だけの朝食を母親と2人で食べた。
庭と言えるほどのものではなかったが、母はそこに何かしらの花を植えていた。春になると色々な花が咲き、そのひとつひとつの名前を、洗濯物を干しながら教えてくれた。だが私はそれらの花の記憶がない。興味がなかったからだ。
5月になると、押し入れの奥のほうの箱から、小さな紙製の鯉のぼりを出して立てた。母親はどこからその竿を手に入れたのか、今更ながら気になっている。
夏になると、小さな七夕が飾られた。
母親は、短冊を私に渡しながら、「願い事を書いて」と言った。
私は、筆箱を持って来て、鉛筆で「ミニカーがほしい」と書いた。母親はそれを読むと、すこし笑って笹に括りつけた。
季節の行事を大事にする母親だった。
ある夕方に、男の人が訪れた。
ひとりでいた私が玄関に出ると、
「電気工事です」
と男の人は言った。
「お父さんか、お母さんはいる?」
私は首を横に振った。
「電気工事なんだけど、みてもいい?」
私は首を縦にうなずいた。
彼は上がり込んで、家の中を見ると、
「踏み台はあるかな?」
踏み台を持ってくると、彼はそれに上がって、配電盤を開けて工事をした。
彼が出て行って、暗くなり、私は電灯を点けようと紐を引っ張ったが、反応はなかった。なんどやっても電灯は点かなかった。
母親が仕事から帰って来て、
「どうして電気を点けないの?」
と聞いてきた。
「紐を引っ張っても電気が点かない」
母親は、紐を引っ張って試してみた。電灯は点かなかった。
その夜、仏壇のロウソクで夕食の準備をし、父親が帰宅して、みんなで夕食を食べた。私は楽しくて、いつもよりはしゃいでいた。この夜も、私はなにか特別の日だと思った。
私の家では、月に1、2度、芋粥を食べる日があった。
甘いものが好きだった私は、この芋粥が好きだった。水っぽいご飯の中に、甘い芋が所々に浮き沈みして、私はそれを探し当てて食べるのが魅惑的だった。
「芋粥でごめんね」
そう言うと、母親は悲しそうにほほ笑んだ。
成人するまで、なぜ母親がその時そういう顔をしたのか分からなかった。
「お芋がたくさんあるよ」
母が芋の在処を言うと、私は嬉しくなった。
芋粥は、私にとっては、カレーライスと同じくらいのご馳走だった。
ある日の夕食のとき、窓から近所の子供が通るのが見えた。その日は、芋粥だった。
私は、その子に、
「いま芋粥を食べてるんだ」
と、自慢げに言った。
「だめ!」
母親が怒った。
私は、なぜ怒られるのか分からなかった。
「そんな事、言いふらしたらだめだ!」
父親も怒って言った。
芋粥は他人に言ってはいけない事なんだと初めて知った。
秋になって庭に真っ赤な彼岸花が咲くと、
「死ぬまでに黄色の彼岸花を見てみたい」
と母親は必ず言った。
私が花の名前を覚えているのは彼岸花だけだった。母の「死ぬまでに」と言った事が妙に胸に刺さっていたからだった。私にとって彼岸花は母親の死と結びついていた。
いつのことだったか、無理だと知っていたけれど、「ミニカーが欲しい」と言ってみた。
母親は、洗濯物を干しながら、一瞬、ため息をついた。次の洗濯物を取りに、掃き出し窓まで来て、私の顔を見ていた。私は怒られるかもしれないと思った。だが母はすこし笑って、洗濯物を干していた。
しばらくしてから、
「お金持ちになったらね」
と母親は私を見ずに笑って言った。
私は朝になると、マッチ箱をミニカーに見立てて走らせた。
「なんでもおもちゃにするね」
母親の言葉に、得意になった私は、長方形の物なら何でも、小さな本や手帳、箱などを持って来てミニカーの替わりにした。それらの長方形は、私にとって格好よい赤や青、黄色の美しいミニカーに変貌していた。音まで口真似で作り出していた。
それを母親がどういう風に見ていたかは覚えてない。それほど私はその遊びに夢中になっていた。何度か母親が洗濯物を取りに掃き出し窓にやって来ても、気がつかないくらいだった。
何度目かのとき、私は母に気がついて、
「お金持ちになったら、ミニカーを買ってね」
と空想のミニカーを走らせながら言った。
「お金持ちになったらね」
母親は笑って言った。
私は、いつになったら金持ちになるのか、本当に金持ちになれるのか、いやなれないだろうと思いながら、朝になると、「お金持ちになったら、ミニカーを買ってね」と言い続けた。
母はその度に笑って、
「お金持ちになったらね」
と答えた。
毎朝の儀式のように、「お金持ち」という言葉を交わして、私は小学校3年生になっていた。そのころには、私のミニカーへの興味は薄れていた。それでも思い出したように、「お金持ちになったら」と言う事があった。
ときどき私は、空想の中で金持ちになった。
金持ちになって、ヨーロッパの城のような家に住んでいた。私は、その城をノートに描いて、間取りなども調べて楽しんでいた。自分では分からない箇所は、図書館で写真を見て埋めていた。
私が家に固執するのには訳があった。
安アパートの床はいつもふかふかだった。ときおり父親が床下に潜り込んで、柱を交換していたが、湿地に建てられたアパートは1か月もすると、すぐにふかふかの床になった。
ノートに描かれた城は、床下を頑丈なコンクリートにして、その箇所だけの絵もあった。なぜ木で家を建てるのだろうかと疑問もあった。コンクリートだと建築費用が高くなるのだと、そのころはそこまで思い至らなかった。
西洋の城に関しては、私はいっぱしの知識があった。山に建てられた城よりも、ベルサイユ宮殿のようなものが好きだった。私はその中で、ミニカーや玩具に囲まれていた。
その春、小さな庭に花々が咲くころ、
「もうミニカーは要らないの?」
と母親は洗濯物を手にして言った。
「欲しいけど、まだお金持ちじゃないから」
と私は答えた。
数日後、いつものように目覚まし時計をセットして、仏壇に手を合わせると、電気を消して布団に入った。朝、母親に起こされて、着替えようとしたとき、畳んである洋服の上にミニカーがあった。
「おかあさん、ミニカーがある」
布団を畳んでいる母親に叫んだ。
「よかったね。貰い物だけど」
確かに古いミニカーだった。私の想像していた物と違って裏側には銅線はなく、自走出来ないミニカーだった。それでも私は、大げさに喜んで見せた。母親を裏切りたくないという思いが強かった。母親が洗濯物を干しているあいだ、私はミニカーが気に入っているように、必要以上に走らせて遊んだ。しだいにそれも興味を失って、「お金持ちになったら」と言う事もなくなった。
それから50年くらい経って、私も初老になったころ、父はすでに他界していて、母は70をいくつか超えていた。五穀祭りの花火大会が行われる日、母親を車に乗せて、早めにそのイベントに向かった。ネットで検索して、あるお寺に黄色の彼岸花が咲いているのを見つけたので、花火大会の前にそれを母親に見せたかったからだ。すこし強行軍になったけれど、私は母親をその寺に連れて行った。
途中、ファミレスで休憩がてら、軽い食事をして、高齢の母親に気遣った。
その寺は、小高い山の中腹にあり、長い階段を登った。休み休み辿り着いて、その寺の庭に立つと一面に黄色い彼岸花が西日に照らされ、金色に咲いていた。
あちこちで金色に輝く彼岸花は、この世のものとは思えなかった。母親はそこに座り込んで涙を流した。バッグから祖母と父の写真を取り出して、彼岸花を見せていた。母親の花をすする音が古い木造の本堂にひびいた。あまりの美しさもあって、私はもらい泣きをしてしまった。
母は、立ち上がろうとしなかった。
「花火に行こうか」
私が促すと、母は立ち上がった。
日が暮れて、花火が上がると、母はバッグから祖母と父の写真を出して見せた。
帰宅して母は、強行軍で疲れたのか、いびきを掻いてすぐに寝入った。私が母の異変に気がついたのは、母が眠りながら吐いている音だった。救急車を呼んで入院したが、母の意識は戻らず、そのまま他界した。




