マリーヌ・ジョアネスは、アメリカの空港で娘と日本に行く飛行機を待っているあいだ、移住する事になった経緯を思い出す。
マリーヌ・ジョアネス(Marine・Joanes)というアメリカ人女性を抜きにして、この物語は語れません。
彼女は、ニューヨークのブルックリンのグリーンポイントで生まれました。
ポーランド系移民が多く住む地域で、周囲の家々にも移民の名残が残っていました。マリーヌの家でもキャベツロールを煮込んだポーランド料理、ゴウォンプキを食べる習慣がありました。近くにはポーランド語でミサを行うカトリックのセント・スタニスラウス・コストカ教会もありました。
約150年前、彼女の曽祖父はフランスのアルザスに住んでいました。
1871年、ドイツとの戦争に負けて、アルザスがドイツ領になり、フランス語の使用が禁止されました。
それに反発した曽祖父は、
「家の中ではドイツ語は禁止だ。フランス語だけだ!」
と家族たちに言いました。
しかし、これは曾祖母に因ると、曽祖父はドイツ語が苦手だっただけだという話でした。やがて役所などの公的機関で差別を受け、しかもプロテスタントだった為、隣近所との付き合いも儘ならない状況に追い込まれました。曽祖父は、フランス国内に引っ越すことを考えましたが、カトリック信仰の街では、
「どうせ同じことだ」
と、ためらっていました。
その頃、アメリカは中国人労働者を排斥して、労働力不足になっていました。アイルランド人を中心に移民が増え、曽祖父はその情報を耳にして新大陸への希望が沸きました。
1875年、曽祖父が26歳の時、ル・アーヴル港から船に乗り、ニューヨークへ向かいました。船内では食べる物も粗末で、船酔いにも襲われました。
14日目に船がニューヨーク湾に入ると、自由の女神の姿が朝日に輝いていました。曽祖父は、ようやく新しい人生の始まりを目の当たりにしたのだと感じ、胸に抱いていた不安や希望が、その像に向けて一瞬にして解き放たれた気がしました。
曾祖母は晩年、孫たちに、
「世界があっという間に変わった。何もかもがキラキラとしていた」
と同じことを繰り返していました。
彼らがニューヨークに渡ってからの日々は、希望よりも困難が上まわっていました。
船旅の疲労が残る中で、彼らが最初に取り組んだのは英語の勉強でした。この国で生き残るには、英語でコミュニケーションを取る事は欠かせません。曽祖父は葉巻工場で働きながら英語を聞き取り、メモして覚えようとしました。曾祖母はリネンの裁縫の内職をしながら、4人の子供たちの世話をしました。
近所にベルギーから来た老夫婦が、小さなパン屋を営んでいました。
彼らは、僧祖父母がフランス人であるのを知ると、癖のあるフランス語で話しかけてきました。子供たちもパン屋で遊ぶほど親しくなると、彼らは移民して間もなくひとり息子を病気で亡くした事を知りました。
曽祖父は、彼らから英語を学ぶうちに、パン屋の手伝いをするようになりました。やがて僧祖父母はパン屋で働く時間が増え、老主人が他界すると、老婦を引き取り、この店を引き継ぐようになりました。
たくさんの移民がやって来る中に、フランスからの移住者も居ました。僧祖父母は、彼らのためにフランス語による英会話教室を無料で開きました。
小さな教室には古びた黒板がひとつ、子どもたちの笑い声が響きました。パン屋では、焼きたてのバゲットとともに、フランスの味を懐かしむ移民たちが集い、話し込む姿がありました。この人たちの多くは、プロテスタントで、故郷では迫害を受けていました。新天地でも祈ることはあっても、聖なる場所、教会がありませんでした。僧祖父母は、フランス系だけでなく、同じ信仰の仲間を集めて小さな教会を作りました。
教会では信仰を通じて、人々をつなぎ、支え合う日々が続きました。ある日、曽祖父は言いました。
「この街では、信仰と希望さえあれば、生きていけるんだ」
彼女には8歳になるアマンディーヌ(Amandine)という女の子がいます。
ジョアソン家では、産まれた子供にはフランス風の名前を付けることが慣例になっていました。マリーヌも娘にアマンディーヌ(アーモンドの意)というフランス風の名前をつけました。
マリーヌはこの日、娘のアマンディーヌとワシントン・ダレス空港にいました。
昨年離婚した彼女は、悩んだ末に日本に移住することを決意し、今日がその出発の日でした。離婚について彼女は、「夫とのすれ違いが続き、互いの人生観が違っていた」という以外は話しません。この離婚が彼女を決意させた事は間違いありません。さらに父と母親も他界した事も大きな要因でした。
大学の専門課程で優秀な成績をおさめたマリーヌは、DARPA(国防高等研究計画局)の知的財産法務部門に勤めていました。
DARPAで法律関連の仕事をしていたマリーヌは、その経歴と学生時代のルームメイトの川本静香から学んだ日本語を活かし、日本の英会話会社から内定をもらいました。
エアポートの雑然とした喧騒の中、マリーヌはひとり別世界にいるような静けさを感じていました。耳に入るのは無関係な雑多な音ばかりで、それがかえって彼女を現実から遠ざけていました。ニューヨークでも、鳴り響く車のクラクションが、ビルやアスファルトに吸い込まれていくとき、彼女は同じように無関心な自分を感じることがありました。
これから日本でやっていけるのだろうか。不安がないわけではありません。この飛行機に乗れば、もはや引き返せません。ホームレスになってでも、日本で暮らさなければなりません。そんな暮らしに耐えられるだろうか? いまならまだ引き返せる事が出来ました。
「マム? まだ飛行機に乗れないの?」
アマンディーヌは椅子の上に上がったり、飛び降りたりして、時には飛行機のように両手をひろげて走り回っていました。アマンディーヌの声で我に返ったマリーヌは、
「座りなさい。もう少しよ。もう少しだけ辛抱できるでしょ」
と言って、自分と同じ金髪の彼女の髪を撫でて言いました。
アマンディーヌは、座っていたかと思うと、5分もしないうちに椅子に上がって、「マム、日本は楽しいよね。きっと楽しいよね」と何度も言い、マリーヌの思いを娘が代弁しているのかのようでした。マリーヌも「日本には楽しいことがきっとあるはず。きっとあるはず」と何度も自分自身に言い聞かせていました。
彼女は学生のときに2度日本を訪れました。川本静香が日本に里帰りする際に同行しました。
川本静香の実家は兵庫県丹波市の市島町竹田字一万坂というところです。彼女に依ると、かつての自治体の名前は「竹田村」という事だったので、「Takeda Village(竹田村)」と自虐的な言い方をしました。
「来年の3月に竹田村に里帰りするわ」
「素敵なところみたいね」
マリーヌは「Takeda Village」という語感、字面からアメリカのカントリーサイドを想像しました。
「素敵かな? いいところだけど、田舎だよ。私は都会に憧れて出たくて、出たくて仕方なくて、大学は大阪にしたの」
「私も行ってみたいわ」
「お! いい考えね。私の実家に泊まればいい」
静香は、大学を出てアメリカに留学したので、マリーヌより4歳年上でした。1m80くらいのマリーヌは静香よりもかなり大きかったのですが、精神的には彼女に依存することが多くありました。この年頃の4年の年齢差がそうさせていたのです。
なにげなくマリーヌが言ったことで、日本に行くことになりました。
出発にまだ日にちがあったので、さっそく日本のガイドブックを買って、興味をそそられるところをチェックしました。
「ハイ、マリーヌ。またガイドブックを見てるのね」
「行きたいところがたくさんあって決められない」
「どこをチェックしてるの?」
マリーヌは、ガイドブックとメモを見せました。
「ワォ! 東京、札幌、大阪、京都、福岡、富士山まであるんだ」
「無理なの?」
「何日の予定?」
「10日くらい」
「まわれない事はないけど、強行軍よ。ねぇ聞いて、提案なんだけど、私の実家は関西エリアなの。東京まで600㎞はあるわ。今回は関西エリアだけにしたほうがいい。東京とか行く機会は何度もあるかもしれない」
「関西エリア。大阪中心ってこと?」
「そうよ。スピリチュアルな物に興味があるなら、奈良もお勧めよ。京都よりも古い街で、野生のシカが町中にいるわ」
「野生のシカが?」
「そうよ、とても人間に馴れている。京都よりも小さい街だけど、神社仏閣の数は引けをとらないわ」
静香は、ひまなときは、私の旅行計画に参加しました。驚いた事は、静香は歴史に詳しくて、とくに伝説マニアでした。いろいろな伝説を知っていて、お勧めの場所を教えてくれました。
「私も歴史は好きよ。とくに宗教的な建築やエピソードに興味があるわ」
旅行プランは、初日に近くを周り、2日目から大阪、京都、奈良と周辺を観光することにしました。
関西空港がマリーヌの初めての日本でした。
驚いたのは、空港のトイレがとても清潔で、便座が暖かかったことでした。ボタンもいろいろとあって、英語の説明を何度も読んで試してみました。
空港で礼儀よく列に並んで電車に乗って大阪まで行きました。どのお客も携帯などを見て静かにしていました。マリーヌは窓から見える街並みに、西洋的だけど日本のスパイスがあるのを感じました。不思議に思ったのは、空港も駅もゴミ箱がないのにゴミがひとつも落ちていないことでした。
大阪駅で特急に乗り換えて福知山市に向かいました。
福知山に着く少し前、
「ここが竹田村。ここが私のふるさと」
静香に言われて、マリーヌが窓の外見ると、小高い山に挟まれた谷に水田が広がっていました。よく見る間もなしに特急列車は、あっという間に通り過ぎて行きました。
「最寄りの駅は、『丹波竹田』という駅だけど、普通電車は1時間に1本しかないし、キャリーバッグを歩いて運ぶのはたいへんだから、母に電話して迎えに来てもらったわ」
駅を降りると、静香の母親が車で迎えに来ていて、そこから竹田に20~30分くらいで着きました。
竹田村は、水田に囲まれた古い農家が散在していました。静香の家も古く、いつ建てられたのか分からないと言っていました。
アメリカのカントリーサイドは、広い農場や牧場にポツンと1軒の家が建っていますが、日本では田舎でも近くに数件の家が建てられていました。
静香の実家に入るなり、低い長押に頭を強くぶつけてしまいました。
「マリーヌは背が高いから、頭がぶつかってしまうのよね」
と静香や家族に笑われました。この古民家には、静香の両親、3つ歳下の弟が住んでいました。
遅いランチに軽い食事、焼きそばを食べて、ひと息ついていると、
「マリーヌ、すこし散歩しない?」
と静香に誘われました。
「いいわね。行くわ」
青々とした水田の中の道を歩き、
「この辺りには伝説がある。1400年以上も前に聖徳太子という立派な皇太子がいた」
「ずいぶん昔ね」
「その時の天皇は女帝で、聖徳太子が代わりに政治を行って、混乱していた日本を収めたの」
「有名な皇太子だったの?」
「そうね。むかしのお札の肖像画になっていたから、日本人はみんな知ってる。その弟の麻呂子親王が、大江山の鬼退治をするのに、この辺りで兵を集めたら一万人になったので、『一万坂』と言うようになった」
「伝説が地名になったのね」
「大江山には時代ごとに3つの鬼退治の伝説がある。最初は彦坐王で紀元前2世紀の頃よ。次がさっき言った麻呂子親王で6世紀頃、最後が源頼光で10世紀頃。有名なのは酒呑童子という鬼を征伐した源頼光だわ」
「ほかの2つは有名じゃないの?」
「知っている人はほとんど居ないわ。知っているのは古代史が好きな人だけよ。麻呂子親王だけが竹田を通って大江山に行った。そのころは奈良県の斑鳩が都だったから、こっちを通ったほうが近いと思ったんでしょうね。ほかのふたりは京都から大江山に向かったみたい」
歩いていると、お寺の山門が見えてきました。
「このお寺は清薗寺といって、麻呂子親王の伝説があるわ。7つの薬師如来を作って鬼退治を祈願し、戦いのあとそれを7つのお寺に祀った。このお寺がそのうちの一つと言われてるわ」
マリーヌは総門から仁王門へと歩きながら、木造の建物の柱や梁が風雨に晒されて、ほどよいダメージを受けているのを感じました。長い時が、さびれた美しさを生み出しているのです。この美しさは今までにない感覚でした。
その夜は鍋や刺身の日本料理で歓待され、畳に布団を敷いて、静香と隣りに並んで寝ました。
2日目に大阪を観光し、3日目の朝早くにマリーヌは、その家族たちに感謝を述べて別れ、静香とふたりで京都へ行きました。
朱色の楼門の階段下でタクシーを降りると、「ここが八坂神社よ」と静香に言われて、観光客で賑わう中、マリーヌはガイドブックを広げて見ました。
「ヤサカ? 漢字だと八つの坂と書くのね。八つの坂があるの? それとも七坂神社とか六坂神社とかあって八番目の神社なの?」
「八坂はたぶん当て字で、『ヤサカ』は『弥栄』から来ていると思う。それで『い』が欠落して、『やさか』と読むようになった」
「そっか。『い』が母音なので、次の『や』と合体してそのうち欠落したのね」
「昔の言葉で、ますます栄えるという意味よ。『○○家の弥栄を祈り奉り』のように繁栄を祝福したり、『国の弥栄を祈る』という形で国家繁栄を願ったり、天皇の即位や大嘗祭、神社の例大祭、結婚式など、晴れの場で用いられることが多い。ボーイスカウトには『いやさか三唱』というのがあるわ。でも私は別の意味もあると思っているわ」
「別の意味?」
「もともと『いや』は神聖な物、場所とかの頭につける接頭語だと思うの。このエリアの『坂』が神聖な場所で、それで『いや』という接頭語をつけた。それで『いやさか神社』から『やさか神社』になったと思うの」
「このエリアは神聖な場所なの?」
「この八坂神社から東山にかけて、坂が多くなる。ここはその入り口に当たるから大事なエリアだと言えなくない」
そう言われて、マリーヌは朱塗りの境内で、「弥栄」とその言葉を何度も繰り返していると、不思議と落ち着いていくのを感じ、日本語の音が祈りそのもののように響くのが面白いと思いました。八坂神社の背後には東山の山並みが寝床のように横たわっていました。ガイドブックには北は比叡山から南は稲荷山までを東山36峰と言うと書かれていました。その地図を見ると確かにお寺や神社が多くありました。
「坂が神聖な場所というより、東山自体が神聖な場所で、そこへ行くのに坂を通るから、『やさか』になったと思う。『や』というのは色々なところで使われているわ。『八幡』は『やはた』「ではなく、『やわた』で、『わた』は古代韓国語で『海』という意味。『わたつみ(海神)』のことを表しているわ。三種の神器も『八尺瓊勾玉 (やさかにのまがたま)』、『八咫鏡 (やたのかがみ)』というのがあるわ。サッカーで有名になった八咫烏もあるわ。日本では3月の事を『弥生』というけれど、これは『いやおい』で『いよいよ生い茂る』って意味だよ」
夕食も済ませて、ホテルへの帰り道、彼女たちが偶然乗ったタクシーは「弥栄タクシー」でした。その看板を見て、彼女は思わず笑って、「きっと、これも神聖な意味があるのよね。言葉の一つひとつが物語みたいだわ」と呟いて、日本語の奥深さに驚きながら、京都の文化にますます興味を持ちました。
マリーヌとシズカは京都のホテルで過ごし、あくる日は彼女と別れて、ひとりで京都を散策しました。翌日から奈良と周辺を観光し、最後は高野山で一泊して、関西空港からアメリカに帰りました。
2度目の日本は単独旅行で、マリーヌはネットで探しているうちに、観光地ではあるものの外国人があまり行かないところに興味を惹かれました。いくつかの候補地のうち、彼女が選んだところは大分県の六郷満山と呼ばれる国東半島でした。
彼女は仏像などの仏教文化に興味があったのではありませんでした。奇岩が立ち並んだところを、人ひとりがやっとの痩せ尾根をロングトレイルしてみたいと思いました。
この道は行者たちが修行のために行き来したらしく、途中では鎖をつかんで登る危なっかしいところもありましたが、それはマリーヌにとっては、「面白そう」と、意欲をそそられるものでしかありませんでした。
大分空港につくと、そこはもう国東でした。
電車はなく、バスも1時間に1本でしたので、マリーヌはレンタカーで回ることにしました。最初に目指したのは千燈寺跡ちかくにある、イギリスの彫刻家、アントニー・ゴームリーの「Another Time(もうひとつの時間)」という像でした。
トレッキングは紅葉の美しい杣道を進みました。その真っ赤な紅葉は、とてもこの世の物とは思えなくて、今のこの瞬間、この場にいてこの美しさを感じられるのは、神の恵みに違いないと思いました。「オ!マイゴット」と、マリーヌは十字を切って神に感謝しました。
マリーヌが山深く歩いていると、人の気配がしたので振り向いたのですが、だれもいませんでした。風のせいかと思って気にしないでいると、また人の気配がしたので振り向きましたが、狭い道がずっと続いているだけでした。「こんなところ隠れようたって隠れようがない」と自分に言い聞かせて、「なるようになれ」と開き直りました。「せっかく日本に来たのだから、たのしまなくては」とこの旅行の目的を最優先にしました。
五辻不動尊の手前まで来ると、狭い痩せた尾根の道の脇に、「彼」は立っていました。作者のアントニー・ゴームリー自身の型をとって鉄で作った像で、遠くの海のほうを見つめていました。マリーヌは、「彼」が海を見ているのではなく、「時間」を見ているのだと思いました。「彼」の周囲を「時間」が過ぎていき、ここに立っているだけで時間旅行をしているのだと感じました。それと共に「彼」も錆びて朽ちていき、形は無くなるのですが、「彼」の記憶は立ち続けて「時間」を見ている気がしました。マリーヌもしばらくそこに立って、「彼」と共に海を見ました。私の名前、マリーヌの意味はフランス語で「海」でした。マリーヌは「彼」のことを「時の鉄人」と名づけました。
その後、駐車場にもどって温泉宿に泊まり、初日は終わりました。
翌日から数日をかけて並石耶馬から両子寺、岩戸耶馬、天念寺耶馬へと歩きまわりました。中山仙境、夷耶馬では鎖をつかんで登るところが何カ所もあり、中には垂直に近い絶壁を登りました。尖った岩峰が高く低く、万里の長城のように連なっていました。
その道の最後のほうに「無明橋」という石橋がありました。5mくらいの距離の石橋ですが、肩幅よりも狭くて、左側は断崖絶壁の谷底でした。落ちれば必ず死ぬだろうと、さすがのマリーヌも足がすくんで、這って渡るしかないと四つん這いになったら、「立て!」と頭の中にキーンと声が入ってきて「這っては修行にならぬ! 立て!」とさらに声がして、前を見ると鬼のような形相の男性が仁王立ちしていました。
「立って? そんなの無理よ! 出来ない!」
「立て!」
「冗談じゃないわ。落ちたらどうするのよ」
マリーヌは谷底を覗き込みました。90度の断崖が落ち込んでいて、吸い込まれそうになり、思わず後ずさりました。トレッキングは中止にしてこのまま帰ろうかとも思いましたが、ここまで来て戻るのも癪だと感じて、男性のいう事は気にせずに這ってでも渡ろうと決意しました。マリーヌは再び四つん這いになり、石橋に差し掛かりました。
「立て!」
マリーヌはむっとして男性を見ました。
「我を見よ! 我だけを見て進め!」
と、その男性は言いました。
その言葉には妥協をゆるさない強さがあって、マリーヌは立ち上がり、言われた通りに、男性を見て恐る恐る1歩2歩と進んでいきました。心臓がバクバク、膝がガクガクして3歩目の足が出ませんでした。しかしその男性を見ていると、マリーヌから恐怖心が消えていき、1歩ずつ前に進むことが出来ました。やっとの思いで渡り終えると、マリーヌはその場にへたり込み、ハアハアと息が荒くなりました。気持ちが落ち着いて来て見上げるとその男性の姿は見当たりませんでした。いま渡って来た石橋を振り返ってみて、「渡り切ったんだ」、「やり遂げたんだ」という感情が込みあがって来て、涙が出て止まりませんでした。立ち上がっても急に疲れが出てきて歩けませんでしたが、陽が沈むだけなので、頑張って前に進みました。1歩ずつ足を出していれば、そのうち必ず目的地にたどり着けるはずだと自分に言い聞かせました。そうやって旅館に着くと、マリーヌはまた込み上げてきて涙を流しました。
帰国後、日本という国に興味を持ち、調べていくうちに、国東半島には鬼が修行をする、あるいは修行をして悟ると仏になるという伝説があり、無明橋でマリーヌを助けたのは、鬼だったかもしれないと疑念を持ちました。しかしなぜ、その男性あるいは鬼のいう事に素直に従ったのだろうか、そうせざるを得ない何かがあったとしか思えませんでした。
ある説では、「やば」の「や」は接頭語で、もともとは「いや」だったというのがあり、「い」が欠落して「や」だけになった。耶馬の「ば」は、「場」であり、神聖な場所を意味し、神聖なものに用いる接頭語の「いや」がつけられ「いやば」であったが、そのうち「い」が欠落して、「やば」と言うようになった、「耶馬」という感じを当てたのは「頼山陽」が漢詩をここで読んだ時に「耶馬」という字をあてたというものだった。
マリーヌは静香と行った八坂神社のことを思い出しました。
現代の祝詞でも、古代の形式を踏襲している部分が多いから、「弥栄」はそのままの形で残っていました。たとえば、「弥栄」の力強さが、日本の神道における言霊とも深く結びついて、現代でもその力を失わずに使われているんだと感じました。
それにしても彼は英語を喋ったのか、日本語だったのか、今も謎でした。私はその謎や鬼、日本の事を調べてみたいと思いました。その他にもさまざまな事を調べるうちに、「日本に住めたら」と、かすかで淡い希望を持ち始めました。その興味から、マリーヌは「ひら仮名」から勉強し、母国語以外の言語の面白さ気づいて、マリーヌは大学を卒業後も日本語の勉強をしていました。
飛行機の時間が来て、
「アマンディーヌ! 時間になったわよ」
いつの間にか寝ていた娘を起こして、マリーヌとアマンディーヌはゲートを通って飛行機に乗りました。マリーヌは、「さようならアメリカ」と言って、もう振り返りませんでした。これから成田空港まで14~15時間の飛行機の旅をすることになります。




