つま先で立って
音楽とわたしは接点が余りなかった。人気の動画を見たり、年の瀬に紅白を見るぐらいだった。見たら見たで感動するのだが、好きな歌手やバンドはなかった。今、強く音楽を知りたいと思う。たくさん聴きたいけどお小遣いは限られている。わたしはスポティファイに入る。ちょうど出たての頃だった。一夜にして膨大な数の音楽がわたしの前に広がる。一曲を一回だけ再生したとしても一生をかけてもすべてを聴くことはできないのだった。わたしは途方に暮れる。五十嵐くんの聴いた曲というプレイリストがあればいいのにとわたしは思う。
「この海に儚き小舟を浮かべる嵐のない航海はないと」とわたしは詠う。
彼はわたしのこと、どう思っているのだろうか。理性の声が今のところ何とも思ってないんじゃないかなと醒めた感じでわたしにいう。だがそれは抑えの利かない情に流されていく。彼はわたしの声を褒めてくれた。わたしの声が好き。ライブに来てくれといった。実は脈があるのかもしれない。状況証拠を掻き集めて情がいう。告白すれば付き合えるかもしれないという。でも告白で失敗したら、それで全てが終わっちゃうんじゃないのと理性がいう。均衡を失ったわたしには理性と情はそれぞれが天使のようにも悪魔のようにも思えるのだった。一体どちらがわたしの味方なのだろうか。
だけど、わたしと同じようなこの気持ちを彼が持っているとは思えなかった。それだけは確かだった。もしそうならば、わたしたちは一日中何度も何度も目を合わせるはずだから。好きの量は私の方がずっとずっと重いだろう。溺れてしまいそうなほどなのだ。つま先で立って、かろうじて呼吸ができるぐらいなのだ。わたしにこんな気持ちがあるなんて今まで知らなかった。人生でこんな時があるなんて誰も教えてくれなかった。彼はどんな女の子が好きなのだろうか。彼の理想に近づきたかった。
彼にも好きな人がいるのかもしれないよと理性がいう。その言葉にわたしは深く傷つく。血が頬を流れ顎を伝いぽたりと落ちる。その時はどうしたらいいのか。彼の幸せがわたしの不幸で彼の不幸がわたしの幸せになってしまう。そんなことは苦しい。どこまでも彼の気持ちに寄り添っていたかった。その時は彼の味方をしようと思った。彼の恋を手伝うのだ。彼の幸せがわたしの幸せ。それがわたしなりの好きの在り方なのだった。告白する前に聞いてみようと思う。告白する時にわかるのかもしれない。でも今じゃない。もっとずっと後で、知りたいと思う。ただ今だけは、しばらくこの恋という不安定で熱い気持ちのままでいたかった。それまではそのことは箱の中の箱のその箱の中の箱のずっと底にしまっておきたかった。




