歌とか歌ったらいいんじゃない
おびただしい雪解けの水が春の柔らかな光を反射している。期せずしてわたしたちは光の舞台に立っているのだ。新しい教室、新しいクラスで自己紹介をする。やはりスムーズにはいかなかった。でも、前のように落ち込むことはなかった。サカダチ君も同じクラスだった。彼はさっそく逆立ちを決めている。芸を磨いたのか片手で逆立ちできるようになっている。
委員を決める時、わたしは図書委員に立候補する。晴れて正式に委員になれたのが何より嬉しかった。昼休み、わたしは図書準備室に向かう。橋子も永遠もそれぞれのクラスで図書委員になっている。
お弁当を食べ終わると、クッキーを焼いてきたと永遠がいう。みんなで食べる。美味しい。これ、売れるよと橋子がいう。そうだねとわたしもいう。恵美ちゃん先生どうかな? うーんと彼女はうなる。確かにみんなに食べてもらいたいねえ。なんでこんなに上手なの? とわたしたちは聞く。「わたしのお父さんコックだから」と永遠はいう。小学生の頃から料理を習っていたという。
「わたしも将来、喫茶店の調理の仕事をやりたいと思っている」と彼女はいう。
「調理の学校に行くの?」
「いや、そのお金で食べ歩きをして研究したい。まずは卒業したら喫茶店で調理のバイトをするつもり」
もう永遠は自分の進む道を決めているのだった。それがわたしには稀なクッキーよりもこころに残った。
ある日、カウンターに男の子が来る。どこか見たことがあるなとわたしは思う。俺さと彼はいう。
「同じクラスの五十嵐なんだけど」
「み、見たこと、あるって、お、思ってた」どうしてなのか、男子と話すのは恥ずかしい。
「藤原さんだよね」
「うん」わたしは彼から本を受け取る。
「藤原さんさ、どもってるけど声はきれいだよね。歌とか歌ったらいいんじゃない」
「う、歌を歌う時は、ど、どもらないよ」
「いいね。今度聞かせてよ」彼は西洋音楽の歴史の本を借りていく。じゃ、と彼は去っていく。本を借りる間のちょっとした1分にも満たない話。たったそれだけのことでわたしは恋に落ちてしまったのだった。




