2006年4月
けいが帰国すると日本では春になっていた。けいは残りのお金で一人暮らしを始める事にした。地元の川崎では無く学生時代と同様に東京に出る事にした。東京都中野区に月8万円の賃貸マンションを借りた。築15年の1Kのシングル用マンション小さな部屋だったが物が何も無く広く感じた。業者に全てお願いし引越しが終わったその日、近くの美容室で肩まで伸びた髪を切った。耳に少し掛かる程度のショートヘアになった。明るい茶色に染められた髪を黒に近いこげ茶色へと染め変えた。
その帰り道、自宅近くで立ち寄ったコンビニでアルバイト情報誌と履歴書を買った。けいはマンションの部屋に戻ると引越しのダンボールのひとつから男物のビジネススーツを取り出した。
水野啓志の趣味であるインターネットのチャットルールでは"けい"と名乗っていた。現実の彼は身長168cm体重は53kgで筋肉は余り無く痩せていた。顔は決してイケメンでは無いがさっぱりとした小顔であった。男臭さがなく女性に敬遠される事は無いがモテる事も余り無かった。
東京での一人暮らしも学生時代に経験していて抵抗はなかった。一人暮らしを始めると直ぐにバイト探しを始めた。コンビニで購入したアルバイト情報誌で見つけた高収入が提示されたアパレル関係の人材派遣センターへ登録したのだ。
けいは会社勤め時代の黒いビジネススーツを着て、派遣会社に履歴書を持って向かうと簡単な面接での職歴の確認のみで軽く採用された。と言うか登録は完了した。けいは大学生時代の就活の困難さとの落差に驚いた。
直ぐにアパレル関係の派遣会社で百貨店やデパートの洋服の販売員の仕事を紹介して貰える事になった。「女子向けのヤングカジュアルよりも靴やバックの販売先を探してみますね」と面接を担当してくれた女性社員がけいに薦めてくれた。
けいは販売の仕事自体が始めての経験だったが、その数日後1日程度の研修を派遣会社の事務所で受けた。そこで空きの出る売り場があると言うので、クライアント企業のアドバイザースタッフの女性社員と面接に向かった。
あるアパレル会社の受付を通され面接室で待っていると30代位の男性社員が現れ丁寧に頭を下げて挨拶をされた後、丁度一人欠員が出て直ぐに人が必要なので「もし良ければ翌日からでも入って頂きたい」と言われた。ここでも安易過ぎる程に仕事が決まってしまい驚きが隠せなかったが二つ返事で喜んで仕事を受ける事にした。
翌日の朝9時に昨日面接に来てくれたアパレル会社の営業の男性社員と新宿の有名な百貨店の前で待ち合わせた。そしてその百貨店のビル裏に廻ると通用口で受付を済まし店長室へと向かった。
店長室は8階にあり部屋の中に通されると隣にある小さな面談室に案内された。50代位であろう店長と遅れて入ってきた30代半ばのフロア長がけい達に丁寧に挨拶をした。ここでも相手の対応がバイトに対してまで低姿勢な事にまた驚いた。
店長からがんばって欲しいと激励を貰うと、直ぐに売り場に案内して貰う事になった。普通の会社で言うと店長は部長、フロア長は課長に当たるのだろうか。そんな事を思いながらフロア長と営業と一緒に1階の売り場まで降りました。開店前の店内は薄暗かった。ハンドモップで商品棚を拭く一人の若い男性に声を掛けました。
「伊東くん、今日から入ってもらう水野さんです。」
「あ、はい。分かりました。」
と言いました。アパレル会社の営業も彼に頭を下げた。するとフロア長と営業は話しながら奥のレジの方に歩いて行った。けいは慌てて改めて若い男性に挨拶をした。
「水野です。よろしくお願いします。」
「良かった~。男で」
伊東と呼ばれた男は笑顔で答えた。後々どうして男で良かったのかと尋ねると、彼は「派遣さんは若い女性が多いので扱いに困る」と言った。そして同世代の男性が来た事が心強く非常に嬉しかった。
派遣販売員のバイトを始めて2週間が経った。けいの派遣先は新宿の有名百貨店の一つの1階にある鞄、財布売場であった。他のアパレルブランドの派遣社員が2人いた。フロア全体には派遣社員や百貨店の正社員が居るが正社員はホンの少数だった。また土日にはスポットで大学生のアルバイトが入る事が多かった。
鞄、財布売場の派遣販売員の内の一人は"ミキちゃん"と呼ばれている22歳の女性でした。もう一人は32歳の主婦で販売は大ベテランでした。けいは仕事のやり方をほとんど彼女から教えられた。百貨店社員の伊東はレジ周りの雑用や配送処理、在庫管理、そしてお客様のクレーム対応と仕事が多く忙しそうだ。
最初の頃は女性客が多いのでけい以外の2人が接客していた。けいは主にお年寄りと外国人観光客を担当した。けいの得意とする日常英会話が大いに役立った。それを見込んで採用した訳では無かっただけに回りを驚かせた。
そうして回りに受け入れ始めていたある日、歓迎会を兼ねた飲み会が開かれた。けいはこれまで会社の飲み会が大の苦手で嫌いだった。しかし今回は断れそうに無い思っていた。そこでミキにその事を打ち明けた。
「ボク、飲み会が苦手なんですけど」
「別に平気」
とミキが軽く言うのでけいもそんなモノなのかと参加してみる事にした様だった。その平気という理由は酒が飲めなくても平気という事だ。ここは若い女性が多くそのほとんどが派遣社員なので気楽で堅苦しさが一切無かった。近くの居酒屋で飲み会開かれた。客席は座敷だった。けいが同じ売り場の2人の隣に座ると、伊東もその隣にやってきた。
けいは伊東と年が余り変らないだろうと思っていたが実は年上で28歳という事に驚いた。高校を卒業後、直ぐに就職した伊東はそれから10年勤め売り場主任になって3年だった。女性の派遣社員やアルバイトへの気遣い、お客様への対応どれを見ても大人で魅力のある男性でした。さっぱりとした性格と清楚な容姿に後輩の女子社員に人気がある事を聞いて頷いた。
逆にけいは他の売り場の女性の派遣社員からは大人しく頼り無い噂されていると言った。ミキが『ちゃんとフォローして置いたから』と言っているのを聞いて、けいは余計に心配になった。ただこんな3人となら仕事が続けて行けそうだとけいは思った。




