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第39話③、残された異変

午後になり、私の部屋を訪れたのはノアだった。

「イリス、入ってもいい?」

「うん、どうぞ!」

 扉が開き、ノアが顔を覗かせる。

 その手には、小さな包みがあった。

「これ、食べられそうならと思って」

「お菓子?」

「うん。食事とは別に、少し甘いものがあったほうがいいかなって」

「わぁ……ありがとう!」

 私は、思わず目を輝かせた。

 包みの中には、小さな焼き菓子がいくつか入っていた。

「でも、ノアも疲れてるんじゃない?」

「僕は大丈夫。イリスよりは、ずっと元気だよ」

「……それ、ちょっとずるくない?」

「何が?」

「私だって、もう元気だもん!」

 そう言って胸を張ろうとしたところで、身体に痛みが走った。

「……いたた」

 ノアは呆れたように笑った。

「ほら。まだ無理はできないでしょ」

「うぅ……」

「だから、ちゃんと休んで」

 優しい声だった。

 私は、少しだけ視線を落とした。

「……ノア」

「ん?」

「私、ちゃんと守れたのかな」

 ノアはすぐには答えなかった。

 私は、指先で毛布の端をつまんだ。

「みんなを守りたいって思ってた。でも、怪我をした人もいるし、私がもっと早く……」

「イリス」

 ノアは、私の言葉を遮った。

「僕たちは、誰も怪我をしないまま戦いを終えられたわけじゃない。君ひとりのせいじゃないよ」

「でも……」

「君が助けた人たちもいる。君が動いてくれたから助かった人もいる。そこまで、なかったことにしないで」

 私は顔を上げた。

 ノアは、まっすぐに私を見ていた。

「それに、僕も君を助けられたし、君にも助けてもらった。どちらかひとりが全部を背負うような戦いじゃなかったんだ」

「……うん」

「だから、今は休んで。元気になったら、また一緒に訓練しよう」

「……うん!」

 私は笑った。

 まだ少しぎこちない笑顔だったけれど、ノアはそれ以上何も言わず、隣の椅子に腰を下ろした。

 二人の間に、穏やかな時間が流れる。

 私は、ノアが持ってきてくれた焼き菓子をひとつ手に取った。

 口に入れると、優しい甘さが広がる。

「……おいしい」

「よかった」

 ノアが嬉しそうに笑う。

 私も、つられて笑った。

 こんなふうに、何でもない時間を過ごせることが、今はとても嬉しかった。

 けれど、ふと窓の外へ目を向けたとき。

 私は、思わず手を止めた。

 森が見える。

 遠く、建物の向こう側。

 木々の梢が風に揺れていた。

 その奥で――。

 ほんの一瞬、何かが光った気がした。

「……イリス?」

「え?」

「どうしたの?」

「ううん……」

 私は、少しだけ迷った。

 気のせいかもしれない。

 疲れているだけかもしれない。

 でも、今朝、精霊が言っていたことを思い出す。

 ――まだ、こわいの。

「……ねえ、ノア」

「何?」

「今朝ね、精霊たちが教えてくれたことがあるの」

 ノアの表情が、少しだけ真剣になった。

「精霊たちが?」

「うん。森が、まだ怖いって」

「……森が?」

「何がいるのかは、わからないみたい。でも、嫌な感じがするって言ってた」

 ノアは、しばらく考え込んだ。

「それ、団長たちには話した?」

「まだ。話そうと思ってたんだけど、また眠っちゃって……」

「そっか」

 ノアは、静かに頷いた。

「じゃあ、僕から団長に伝えておくよ」

「……いいの?」

「もちろん。イリスはまだ休んでなきゃいけないでしょ?」

「……ありがとう、ノア」

「どういたしまして」

 ノアは、優しく笑った。

 私は、胸元のペンダントにそっと触れた。

 精霊たちとの約束。

 ひとりで、行かないこと。

 ちゃんと、みんなを頼ること。

 今度こそ、守れそうな気がした。



ーーーーーーーーーーーーーーーーー



 夕暮れ。

 騎士たちの見張りが交代する頃、森の入口には冷たい風が吹き抜けていた。

 最初に現れた黒い角の魔物は、依然として地面に横たわっている。

 周囲には結界が張られ、複数の騎士が警戒を続けていた。

 森の奥では、もう一体の巨大な魔物が、今も淡い光に拘束されている。

 その光は、戦闘直後よりもわずかに薄くなっていた。

 しかし、まだ完全には消えていない。

「……交代の時間だ」

「ああ。今日は何事もなかったな」

 騎士のひとりが、安堵したように息を吐いた。

「このまま何も起きなければいいが」

「まったくだ」

 二人が持ち場を離れようとした、そのときだった。

 地面に横たわる黒い角の魔物の前脚が――。

 ほんのわずかに、動いた。

「……今、動かなかったか?」

「何が?」

「いや、あの魔物が……」

 二人は同時に振り返った。

 魔物は、先ほどと同じ姿勢で横たわっている。

 目も閉じられたまま。

 呼吸の音すら聞こえない。

「……気のせいか?」

「分からない。念のため、報告しておこう」

「ああ」

 二人は互いに顔を見合わせたあと、もう一度、魔物へ視線を向けた。

 そのとき。

 魔物の角の根元に、黒い筋のようなものが浮かび上がった。

 細く。

 短く。

 まるで、ひび割れのように。

 それは一瞬だけ淡く光り、次の瞬間には跡形もなく消えていた。

 誰も、その変化には気づかなかった。

 森の奥から吹いてきた風が、木々を大きく揺らす。

 その風に混じって、かすかな声が響いた。

『……まだ』

 誰にも聞こえない、小さな声。

『まだ、おわってない』

 森は、何事もなかったかのように静まり返っていた。


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