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雨霧の回遊魚  作者: お麩
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第二章 四話

──1965年11月25日 15時半 診療所


 必ずヴィクトル・ラヴェニの家に侵入し、受肉組成録を取り返す。これは決定事項だ。

 そしてあわよくば、あの男のことを知りたい。


「……」

 

 診療所の近くにある林の中。木々に背をもたれていた。

 珍しく雨が上がり、晴れ気味のネブロン。雲も薄い。しかし、私にとってこれは良い状況ではない。

 傘を差す手間が無いのは良いが、太陽は常に我々の敵である。反射する水たまりの光すら不愉快だ。


(ん、あれは何だ)


 見れば、石畳の音を立て黒塗りの車がやって来る。それはどう見ても高級な車だ。陰鬱な空気が漂うネブロンの町には到底似合わない。

 ふと町の主人の言葉を思い出す。


──黒い車が止まってる時は訪ねるな。


(もしかしてあれのことか)


 ヴィクトルの家の壁まで近づき、バレないようにそっと玄関を覗き見る。使用人が車を空け、出てきたのは黒い長髪を高く結い上げた女。

 白いスーツドレスを着て、胸にはエメラルドブローチ。手には高級品の土産物袋。


 コンコン、と彼女がノックをすれば扉が開き、ヴィクトル・ラヴェニが出迎える。


「ごきげんよう、ヴィクトル先生」


 凛とした透き通る声。

 黒の瞳を目を細め、彼を愛おしそうに見つめる。

 

「今月のパーティーも楽しみにしていましたわ。ご招待感謝致します」


「……フランさん。どうぞ中へ」


 彼の声は、怯えが混ざっていた。

 おそらく町人たちが言っていたフラン家とは、彼女の家の事なのだろう。名前も風の噂で知っている。

 

 ヴィレナ・フラン。高利貸しの娘。所作一つ一つが優雅で、高い教養を感じられる。これは町人たちの目に付くわけだ。

 しかし、彼女のひと言が気になる。


(今月のパーティー、も?)


 定期開催されていなければ出てこない言葉だ。あの男に、彼女のような人間を招くような人脈があるとも思えない。

 加え、彼はフラン家に借金をしており、怯えた声色を隠して彼女を家に招き入れた。


(この家の中で行われているのは借金の徴収だろうな)


 しかし普通の取り立てならば、周囲に隠す意味はない。むしろ手荒な真似をしたほうが、手段としては手っ取り早い。


(それに、ヴィレナも高級な手土産を持っていく必要はない。普通、債務者に贈り物など渡すか?)


 家の裏手に周り、何とか窓から会話を盗み聞くことが出来ないかと探してみる。しかし、どこも全て締め切られていた。思わず、雨粒の残る窓を指でなぞる。


 (ああ、この中に入れたなら、全部知れるのに)


 ヴィレナ・フランは、あの男の債権者だ。つまり、この家に入っても何の違和感もない。素晴らしいじゃないか。唇をなぞると、自分の口角が僅かに上がっていた。


(これなら彼を調べられ……)


──待て。彼女は今何歳だ?


 昂ぶった気持ちが、冷水が掛かったように冷めていく。

 ヴィレナ・フラン。彼女は既に徴収の仕事を行っている。見た目上は20代前半のように見えるのだ。


 ブギーマンの獲物は未成年のみ。

 この掟が常に私の足を引っ張る。


「……ああ、クソ」


 町の人間に尋ねてもいいが、新参者が聞き回れば不審がられることは間違いない。目の前に大きな餌があるというのに、あと一歩足らないことに苛立ちを感じる。

 

(ああ、もういっそのこと年齢など無視して身体を奪ってしまえば──)


 ドクン、と背筋に嫌な感覚が走る。

 

 しまった、と理解するより早く、背筋に冷たいものが這う。脳裏に浮かぶのは、無数の瞳。理解をする前に、全身から血の気が引いていく。

 我々ブギーマンにとって、神の如き瞳が私を見ている。胸の肝を直接掴まれたような死の恐怖。


 魂に刻まれた、王の、支配。


「……ッ゛」


 喉を絞められているような圧迫感。身体が震え、立っているのもやっと。壁に背中をつけ、ずるずると座り込んでしまう。

 喉が引きつり、上手く呼吸ができない。


「規則は、理解しております。出、過ぎた考え、でした」


 必死に声を絞り出す。

 ブギーマンにとって王の存在は絶対だ。ただ一つの法を犯そうと考えれば、こうなる事は予想出来たろうに。


 暫く、吟味するように時間が経った。反省を認められたのか、毒針に刺されたように甘い痺れがじわり、じわりと身体中を駆け巡っていく。


「あ、ぐ……!」


 一滴の絵の具を、透明な水に垂らした時のような、そんな緩慢で耐え難い広がり方。身体中をむしり掻きたくなるような熱なのに、出す方法が、ない。

 

(褒美の、つもりか……くそっ)


 体に力が入らない。自分で自分を抱き締めるが、体内を駆け巡る幻の熱は酷く辛い。自我を手放すようなこの『褒美』が、私は一番大嫌いだというのを分かって、あの王はやっているのだ。性悪なことだ。


 しかし我慢していれば、そのうちゆっくりと王の気配が遠ざかっていくのが救いだろう。


「はぁ、はぁ……」


 掟を破ると一番リスクが大きいのは私自身。

 仕方ない、年齢を無視して加害をするのは止めておこう。

 私の身が持たない。


「……はぁ、難儀なものだ」


 キィ。


(ん?)

 

 扉が開く音がした。

 重い体を必死に動かして覗けば、玄関から彼女が帰っていく足音が聞こえる。姿は、家の壁が邪魔して見えない。


「それでは、また来月」


 彼女の凛とした声がはっきりと聞こえた。

 ヴィクトルの声も聞こえた気がしたが、車の騒音が邪魔をして聞き取る事が難しい。車の扉を閉じる音が響き、フラン家の令嬢は去っていった。


「……はぁ」


 聞こえた声はそれだけ。

 彼の瞳がどんな色を携えているのか見てみたかったが、動く前に扉が閉まってしまった。


(今、何時だ)


 日が少し傾いている。シュヴァルツのように時計さえ持っていればいいのだが、あいにく時間管理は苦手だ。


(令嬢の年齢を聞き出さねば。しかし正確に知っているものなど、あまりいないだろう)


 町の者たちはそもそも、フラン家の名前すら口に出すのも嫌煙しているような態度だった。

 私はまだ来て半月。あまりにフラン家のことについて嗅ぎ回りすぎれば、悪目立ちしてしまう。

 それは不本意だ。


「どうしたものか、せっかく糸口が目の前にあるというのに」


 座り込み、黒く硬い地面を撫でる。王の余韻が残る体はぐったりと重く、壁にもたれ掛かるのが一番楽だった。

 しかし、ヴィクトル・ラヴェニへの興味が心を焦がす。溢れ出る好奇心が、休息を許さない。


「やぁ、トル」


 不意に右の視界が黒く染まる。

 見上げれば、生気のない黒スーツの壮年の男。帽子で目は見えないが、面白がるようにニヤついた口元には大きな牙が見えていた。

 手には狼印の銀の懐中時計。


「ヴァル?」


「王の気配を感じて覗いてみれば。ずいぶん楽しそうじゃん」


 一気に身体の緊張が抜けていく。知らぬ間に肩に力が入っていたらしい。


「はは、黄昏れてたの?珍し〜!」

 

 シュヴァルツの抑え気味の笑い声が漏れる。ここは他人の家の裏だからな。ゲラの彼の声は煩いし正解か。

 顔を上げるのも面倒で、視線が地面に落ちる。

 

(ああそうか。元々ヴァルは確か、あの医者から薬物を購入していて、私に本の場所を教えたのも……)


 脳裏に何かが引っかかる。人間界に馴染んだ怪異。裏事情に詳しい、報酬さえ渡せば正確な情報を提供する情報屋。


 そうだ、彼は情報屋だ。

 縋る思いで彼を見上げる。


「ヴァル」


「ん?」


 彼なら、きっともっている。

 私が欲しい情報を。


「情報が欲しい」


「何を出せる?」


「私の調べた事全て」


 帽子の隙間から見える、狼特有の黄金の瞳がにぃ、と細められた。ああ、こいつは本当に、昔から悪い顔をする。


「何が欲しい」


「ヴィレナ・フランの情報」


「わかった。十分で戻る」


 それだけ言うと、彼はちらりと懐中時計を確認する。

 直ぐに踵を返し、ヴィクトル・ラヴェニの家へ向かった。そもそもシュヴァルツは仕事中だろう。あの男と取引をしているのなら、買い付けに足を運んでいたとしても不思議ではない。


(さて、彼が戻るまでに体を動けるようにしておかなくては)


 彼は時間に正確だ。

 きっかり十分で戻ってくる。それまでに、質問内容も整理しておかねばならない。あと、この重い身体もどうにかしておこう。

 

──1965年11月25日 16時半 ネブロン シュヴァルツの家


「だっはっはっ!!!それで王に怒られてた訳か!!!」


「……人の醜態を笑うなヴァル」


 打ちっぱなしのコンクリートの狭い部屋。

 そして腹を抱えてゲラゲラと笑う不愉快な怪異が一匹。

 

 死体の「ブレンダン」はベッドに横たえ、今は怪異の身体で彼と向き合って座っている。死体に取り憑いていないと腐敗が進行するが、ヴァルと喋る間は怪異の体で話しておきたい。


(受肉を防ぐためでもあるが、どうせあの体は長く使わん)


 道中で買った果実の飲料はまだ空けていない。

 後でクロックミティーヌにでも渡そう。


「だって!君!あははは!!!赤ん坊も守れるルールだぞ!!王の祝福が起動するの、君ぐらいだって!」


「うるさい、少し魔が差しただけだ」


 王の祝福。我々ブギーマンが種族の枠を逸脱しないよう、王が本能に埋め込んだ保険だ。発動条件はかなり緩いが、起動すると王に通知が行く。

 帰ったらまた呼び出しを食らう筈だ。そして首を縦にふれば、またあの『ご褒美』が始まる。


(何が祝福だ。呪いの間違いだろう)

 

 腕を組んだまま舌打ちを一つ落とせば、ヴァルがひーひー言いながら咳込んでいた。


「あー、笑った笑った。やっぱネジがトン出るよ」


「自分の心に従っているだけだ、王が枷を嵌めているだけだろう」


「よくいうよ!」


 生理的な涙を拭いながらも、笑いの余韻が抜けきっていない声。苛立ちがつのり、自分の尻尾で彼の足を叩いてみても効果はない。


「しかし、トル。ヴィクトル先生のことだいぶ気に入ってるね!」


「自分が書いた本を利用しているのだ。気になるだろう」


「だからって、墓までストーカーする?」

 

 脳裏に浮かぶのは、ヴィクトルが見せた墓場の様子。あれだけは、私だけが知っていれば良い記憶だった。


「……お前に話したく無かったよ」


「ははっ駄目だよ。君は執着に生きる怪異だからね、源流を渡してもらわなきゃ意味がない」


「満足か?」


「ああ!これ以上ないほどね!」

 

 彼の尋問でもうぐったりだ。

 さっさと本題に移ろう。


「ヴァル、分かっているだろうな」


「当然。フラン家の御令嬢について、だろ?」


 楽しげな雰囲気の中に鋭さが交じる。

 切り替えが早いのは彼の強みだろう。彼のこういう所も気に入っている。


「ただその前に一つ聞かせてくれよ、彼女の体を奪ってどうするつもり?」


「あの医者の家に侵入し、場所を聞き出して本を取り返す。それ以外ないだろう」


「ヴィクトル先生がそんな簡単に吐くかなぁ、町一番の堅物だよ彼は」


「理解している。借金を盾にすれば強引な捜索も可能だろう」


「君らしくないねぇ」


「……本の回収は王命だ、必ず達成しなければいけない」


 しかし、強引な手段ではあの医者について知る機会は失われる。私の好奇心を満たすには、まず彼の警戒を解く必要があるのだ。

 

「ふうん、でも、それだけじゃないだろ?」


「当然。ヴィクトル・ラヴェニが何故あの本を入手し、何をしようとしているのかも調べるつもりだ」


「友人として、なら何ヶ月掛かるか分かんないねぇ。いっそヴィクトルの女にでもなっちまえよ」


「は?」


 はっは、とシュヴァルツが笑う。彼の軽口は今に始まった事ではないが、時々突拍子もないことを言い出すのは困り物だ。


「何を言っている、冗談が過ぎる。長期間の接触は違和感を覚えやすい。バレて警戒されたら身も蓋もないだろう」


「はははっ!真に受けるなよ、からかっただけさ」

 

 ぐい、と彼はビンの酒を一気にあおる。

 波打つ液体を、喉仏が上下して飲み込んでいく。


(妻、妻か……)

 

 シュヴァルツにはああ言ったが、彼の妻になってしまえば確かに接近はできる。


「……いや、いい考えかもしれない」


「何が?」


「彼の妻になる、という案だよ」


「え?」


 シュヴァルツがぎょっと目を丸くしてこちらを見るが、良い案を蔑ろにはできない。最短で行くなら、ヴィクトルの弱みに漬け込むのが一番いい。


(借金を盾にして、結婚を申し込む。そうすれば、あの男は私を拒めない。絶対に)

 

 少なくとも、友人として接触するより何倍も早く距離が縮まる。素晴らしいじゃないか。


「トル、マジで言ってる?本気で?」


「なんだヴァル、急に騒いで。お前の案だぞ」


「騒ぐさ、友人が素っ頓狂な案を採用しようってんだからさ!」


「ああ。奇天烈な考えに感謝する」


 思いっきり顔をゆがませたシュヴァルツは珍しい。

 ただ、彼の趣向を聞き続けていたら何時まで経っても話が進まない。


「ヴァル、情報を教えろ。ヴィレナ・フランの情報だ」


「おいおい、全く。ボトムの君なんか見たくないぞ」


「だからなんだというのだ、言え、ヴァル」


 嫌がる彼の脚を、二股の尾でつつく。

 この苦虫を噛み潰したような顔をする木偶の坊に、さっさと吐いてもらわねば。


「私はお前に対価を払った」


「このじゃじゃ馬めが、後悔しても知らないよ?」


「吐け」


 数秒経って、残りの酒を一気に煽り、盛大なため息を吐いてからようやくシュヴァルツは口を開いた。酒の匂いは嫌いだが、紡がれる情報は私にとって非常に都合がいいものばかりであった。


──1965年11月25日 19時 廃墟


「というわけで人間の妻になろうと思う」


「気でも狂ったのかしら」


 廃墟の二階の部屋。いつものクローゼットを蹴破った部屋で、ベッドに座りながらクロックミティーヌに宣言する。隣に座る彼女は一瞬驚いた様子から、訝しげに赤い目で睨見つけてきた。

 彼女にあげたビンの果実の飲料水は、大事に手に握られたままだ。もう半分ほどしかない。


「私は正気だクロックミティーヌ。私は暫くヴィクトル・ラヴェニという男の側で生きるつもりだ」


「誰かしら、ご友人?」


「いや。月初に一度会ったきりだ」


「気が触れてるのかしら」


「安心したまえ、彼の行動パターンは観察によって理解している」


「ストーカーかしら!!!」


 クロックミティーヌは心底嫌そうな顔をしている。だが軽蔑されようと、私には何よりも優先すべき事がある。

 

「クロックミティーヌ。私は君に謝罪した時にこの町に用があるといったね」


「それは覚えてるわ、結局何か教えてくれないじゃない」


「ああ、いま教える。理由は本だ。だから彼の妻になる」


「端折りすぎなのよ!!!ちゃんと説明なさい!!!」


 怒ったように彼女が動けば、蜘蛛たちが踏まれないように宙に舞う。

 彼女にゆっくり説明すると、徐々に落ち着いてベッドにぽすん、と軽い音を立てて座り直した。


「──つまり、その医者があなたの本を持ってるから、回収する為にお嫁さんになって、お家に侵入するのね?」


「そうだ。理解したなクロックミティーヌ」


「理解はしたけど、色々と飛躍してるわ。そんな無理するべきなのかしら?」


「ああ。私は一刻も早く彼の行動を見たい」


「ただのわがままじゃないの!」


 そうだ。これは私のわがままだ。

 人間の寿命は短い。ヴィクトルはあと何年生きられる。何年あの張り詰めた矛盾を保てるのだ。

 それを見逃すなど、言語道断である。


「そもそも、その、ヴィレナ?の年齢は幾つなの?ブギーマンなのに成人を襲うなんて大罪よ!」


「ああ。勿論。彼女は19だ、問題はない」


 シュヴァルツから語られた情報だ。

 来年の五月に彼女は二十になる。この国の成人は特殊で二十一。かなりギリギリだが、問題ない。


「彼女の住んでる場所は?わかるのかしら!」


「ああ、ギリギリ転移の範囲内だ」


「まあ、また転移の話。そんなに便利なの?」


「座標さえ間違えなければな」


 実体のあるシュヴァルツは闇を介した転移がかなり苦手だが、彼女はどうだろう。だが彼女に転移を教えるのはまだ先だ。シンプルに時間がない。


「ともかく、君にも協力してもらいたい。クロックミティーヌ」


「な、何かしら。おかしなことはしないわよ?」


「理解している、私には一つ問題があるのだよ」


「貴方ってなんでも出来そうだけれど?私に頼ることなんてあるのかしら」


 一拍。情けない事だとは思いながら、彼女に伝えなくてはならない。心の内に湧く気恥ずかしさを押さえつけ、言葉を紡ぐ。


「私は、女に化けたことがない」


 一大決心をして言葉を紡いだ。

 しかし、彼女は鳩が豆鉄砲を食らった時のようにぽかんと目を丸くするばかりだった。

 

「……あら、そうなの、うん?」


「君に女性としての振る舞いを教わりたい」


「お、驚いた、貴方ってとっても凄い怪異なのでしょう?」


 奇妙なものを見るような、しかし興味深そうに彼女は私を覗き込む。赤い目が爛々と輝いて、子供特有の好奇心を抑えきれていない様子だった。


「人間の男に嫁ぐために女の振る舞いをするなんて、怪異としてプライドがないのかしら?」


「プライドについてはよく分からないが、妻として完璧な振る舞いをする責務はあると思っている」


「正しいプライドの使い方してるんじゃないわよ、分からないくせにっ」

 

 脇腹を袖余りの服で軽く突かれるが、全く痛くはない。彼女も本気じゃないのだろう。口調には呆れが混ざっているが、目は口ほどに物を言う。


「君の振る舞いは常々、優雅だと思っているよ」


「何よ、取ってつけたように言って」


「本当さ。でなければ君に頼まない」


 彼女に動きが、ピタリと止まった。

 実際、彼女は子供らしさは残るが、充分淑女としての嗜みは心得ていると言っていい。


(元々廃墟に住んでいた、貴族の子供が作り出したブギーマンなのだろう)

 

 ブギーマンは子供の妄想から生まれる。そして、姿形や性質は彼らの価値基準によって決定する事を考えれば、なんら不自然ではない。

 

「クロックミティーヌ」


「な、何よ。そんな声で言われたって」


「先生」


「うっ」


 彼女がピクリと反応した。

 よし、いける。


「先生、私に教えておくれ。淑女の振る舞いとやらを」


「う、ううっ」


「クロックミティーヌ先生。頼むよ」


「も、もう!都合がいいのだわ!!!」


 ぐいっと彼女がビンの果実飲料を飲み下し、ベッドから飛び降りる。今まで溜めていたソーダのビンの隣に大事に置いて、ビシっと私を指さした。

 袖が余って垂れているせいで、手は見えないが。


「そ、そんなこといって。ちゃんと報酬は用意出来るのよね!」


「勿論だとも。君の部下たちは毒の濃度は弄れるのか?」


「へ?や、やったことないわ」


「では、私からは戦力の強化案を提案しよう。あの金髪の子供の時のように、毎回総力戦では被害が大きい」


 いきなり話題が突拍子もない方向へ行ったので、彼女はまた不思議そうに首を傾げる。思い出すのは、ウィリアムが潰した数十匹の蜘蛛たち。


(今後無駄な被害が出る前に、対策をとっておいたほうがいい)

 

 全ては陣形と、毒の周りの遅さにある。

 ここさえ改善できれば彼女は化けるだろう。なにせ、圧倒的な量は質を押し切るのだから。


「た、確かに、あの子に潰された仲間は多いけど」


「私は狩りの成功率を上げる方法を提供する。君は私に淑女の振る舞いを教える。どうかな?お互いフェアな取引だとは思うが」


 彼女は少しの間、腕を組んで考えていた。

 周囲の蜘蛛たちは彼女に甘えるように衣類の端々に糸でぶら下がり遊んでいる。彼女にとって、蜘蛛は家族。

 失いたくはないはずだ。

 

「……そうね。それはいい案なのだわ。ソーダよりも、ずっとね」


 子供の側面を持つとはいえ、彼女は蜘蛛の女王だ。

 この取引が彼女にどれだけの利益をもたらすか、すぐに理解できたのだろう。

 先ほどの緩やかな雰囲気とは違い、女王たる風格で私に手を伸ばす。


「握手よ、トルバラン」


「握手?」


「ええ。ここに居たひらひらした服を着てた人間達は、みんなそうやってたわ。これはケーヤクの印なのよ」


 なるほど。彼女なりに契約に誠意を示したいのだろう。

 理解すれば、迷わずその手を握る。


「約束よトルバラン。私、もうこの子たちを死なせたくはないのよ」


「ああ。できる限りの努力はしよう」


 最悪、彼女の蜘蛛が私の期待通りに仕上がらなくても構わない。これは一つの保険なのだから。

 

 万が一のときは、ヴィレナの命を迅速に処理すればいい。それだけの話だ。

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