閑話 水泡
「あれー!ヴィクトル先生じゃないか!」
「え?」
往診の帰り。雨でもよく通る声にふと顔をあげると、そこにいたのは赤い巻き毛の女性。恰幅がよく、この陰鬱なネブロンの町には似合わない明るい様子の彼女は、店のレジから私に手を振っていた。
「ディナさん?」
「あはは、久しぶりだねぇ!」
オルディーヌ・バナリー。通称ディナさん。店主の奥様で、体調を崩すときが多い。他にも町に医者はいるのにも関わらず、私を頼ってくれている常連の人でもある。
(医者に常連なんて、歓迎できたものではないけれど)
顔を会わせれば声をかけてくれる、優しい人柄の彼女。初めてこの町にきた時でさえ、変わらずこのままだったような記憶がある。
最近は調子が良いのか呼ばれる機会も少なく、会ったのは数ヵ月ぶりだ。
「ちょっとこっちおいでよ先生!」
「へ、いや私は」
「いいから、いいから!ちょっとお喋りに付き合ってよ!いいもんあげるからさ」
明るいのはいいが、気が強いのか強引だ。満面の笑みに手招きをされると、善意を断るのも野暮に感じる。流れるがまま店先へ近づき、庇の下で傘を閉じた。
(いつ見ても洒落たお店だ。彼女の趣味だろうか)
猫が好きなのだろう。店前のショーウィンドーには大小様々な猫のステッカーが何匹も張られ、窓枠から棚へ飛び移るように並んでいる。正式な名称など目もくれず、「ねこや」なんて言われる所以はこれだろう。
今は丁度、空き時間のようだ。
「……ディナさんは、今日は体調が良いみたいですね。よかった」
「ええそりゃもう!前先生のアドバイスで食生活を見直せって言われたろ?あれで随分よくなったんだよ。前もらった痛み止めの薬もよく効いてくれるし」
「それは、本当によかった」
肩に入っていた力が少しずつ抜けていく。にか、っと擬音がつきそうなほどに明るい雰囲気は天性のものだろう。彼女の人柄が好まれているのか、この店には時々人がたむろしている。
緊張が漂うネブロンの休憩所。彼女はあっさり人の毒気を抜いてしまう。そういう人だ。
「先生も顔色がよくなったんじゃない?前は医者なのに死にそうな顔してたからねぇ、隈もひどかったし。それで私らの心配をするんだから、全くお人好しなのはいいけど、自分のことも大事にしておくれよ!」
「うっ……ご心配をお掛けしました」
顔色の件は、リベールの食事のお陰だろう。家事もこなしてくれている為、その分睡眠時間も取れている。医者の不摂生は付き物であるが、死にそうとまで言われる顔をしていただろうか。
「ははは、いいんだよ。あんたには元気でいてもらわなくちゃ。だからこれあげるよ」
「……キャンディ、ですか?」
「そうだよ!甘いものは疲れが取れるからねぇ。私も良く食べるし!」
彼女が棚から取り出してきたのはストロベリーの棒付きキャンディ。包み紙が被ったそれは、この店にも置いてあるものだ。
往診の帰りには、代金と一緒に良く彼女からこういうものを持たされていた。
「甘いものは控えるようにと、言ったはずですが」
「あっやだやだ、聞かなかったことにしておくれ。旦那にもバレたらきっと叱られちまう」
悪戯っぽく笑う彼女に、悪びれた様子は無さそうだ。
少量であれば問題ないが、根っからのお菓子好きな彼女だ。控えてはいるのだろうが、完全に絶つのは難しいだろう。
「ほんっと、あの人に怒られると口煩くてねぇ!」
「聞こえてるぞ、ディナ」
店の奥からぬっと顔を出したのは、眉間に皺がある厳つい顔つきの男性。バネル・バナリーさん。この店の正式な店主であり、彼女の夫である。
外見から感じる威圧感とは裏腹に、愛妻家であることはよく知っている。
「あらやだ、鬼が顔を出しちゃったわ!」
「軽口もいい加減にしろ、先生からも何か言ってくれ。また体を壊したら次は呼ばんぞ」
彼女が不調になったとき、毎回泣きそうな声で電話してくる人がなにを言っているのだろう。彼が近づくと、表情と見上げる程の大きな体格のせいで圧倒される。本能的に後退りをしたくなるが、人柄はわかっている。
無闇に怖がる必要もない。
「こんばんは、バネルさん」
「ああ……なんだ、先生。顔色が少しましになったか?」
「おかげさまで」
ディナさんはレジに肘をついたまま、うんうんと頷いている。酷い顔をしていたとはいえ、彼にも心配されていたとは思わなかった。少し居心地の悪さを覚え、曖昧に笑う。
まさか、怪異の妻が出来てその作用の一つです。なんて言えたことではない。
「そうか、ならいい」
「全く、この人に心配されるんだからよっぽどだよ、先生。ちゃんと食べて、寝て、ついでにお菓子でも摘まんでゆっくりしなきゃ!」
「ディナ」
バネルさんが腕を組みながら、視線だけ彼女に流す。鋭い目付きだが彼女はケラケラ笑いながら、「怖い怖い」と受け流した。
これがここの日常だ。
娘も、彼らに良く懐いていた。
「ああ、そうそう先生。あのね、最近ちょっとした運動も始めたのよ!そうしたらこの人ったら腰をいわすぞーって、もう煩いったらないわ」
「前もしただろう、夜中に先生へ迷惑をかけて」
「あらやだ、たかだかぎっくり腰でしょう!別に放っておけばなおったのよ!あんたはすぐ先生を呼ぼうとするんだからっ」
「診察が必要なら、いつでも呼んでください」
「先生もプライベートがあるんだから、あんまり無理しないで頂戴よ!」
バネルさんの膨れた腹をつつきながら、オルディーヌさんは呆れが混ざった顔で笑っている。エプロンに留めてある可愛らしい猫の布製ブローチが、動きに合わせて揺れていた。
彼女を手で制止しながら、バネルさんは嫌そうな顔もしない。
「そうだ!」
急に彼女が動きを留めて私をみた。
「先生、結婚したんだって?!」
ビクッと体が震えた。ヴィレナさんの容姿は目立つから、町の人間がそれを知っているのは予想できたが、流石にいきなり過ぎる。なにか発言をする前に、彼女の目はキラキラと輝く。
「聞いたよ~!あのフラン家のお嬢様と歩いてたらしいじゃないか!しかも朝イチに高台へ行ったんだろ?あそこは晴れてりゃ一番日が綺麗に見えるからねぇ~!あんたも隅に置けないね!」
息継ぎも無しに、彼女は喋る。
手振り身振りも加えて、表情もころころ変わる。
「肉屋に行って仲良く買い物してたらしいじゃない。なんだい、作ってもらったのかい?」
「へっいや、あれは」
「なんだい先生が作ってあげたのかい!流石だねぇ、先生は手先が器用だから何でも出来ちゃうのねぇ!しかもおねだりされたら追加で買ってあげたんだって?あんた優しいんだからほーんと──」
まずい。止まらない。
肉屋の彼は一体どこまで喋ったのだろう。彼女は悪い人ではないのだが、この噂好きのおしゃべり好きな癖は得意になれない。彼女にバレないようチラリとバネルさんを見ようとしたが、遠目に店の奥に引っ込んでいく背中が見えただけだった。
「気を付けなさいね!あのお嬢さんは、それでもここじゃ珍しいぐらい美人なんだから。ご実家に噂はあれど、華奢な女の子でしょう。先生が守ってあげないと!」
トルバランの姿が脳裏に浮かぶ。
彼は私が守るほど、弱いだろうか。
「それにね、ここ最近物騒じゃない?4ヶ月ぐらい前にも来たばっかりの子供が消えちゃったでしょう?ヴィクトル先生知ってるかしら、そこの角を曲がったところのフローラさんとこの……」
壁に目をやると、掛けられた宣伝ボードには広告のチラシが無数に張ってある。その中でも、肩身が狭そうにひっそりと行方不明のポスターが一枚。
──ウィリアム・フローラを探しています。特徴はオリーブ色の瞳に金髪、17歳です。見かけましたらこちらの住所まで──
「……行方不明、ですか」
「ああ、この町じゃ全く無いとも言いきれないからね。あんたも奥さん守ってやるんだよ、あんな美人さん気付いたら悪い虫が四方から寄ってくるんだからね!危なっかしいよきっと」
人の首根っこを掴んでコンクリートの床に叩きつけるやつですよ。と出掛かった言葉はなんとか飲み込んだ。
「ポスターの彼の件について、進展はありましたか」
「え?ああ、ウィリアム君かい?それが全然。奥さんも参っちゃってるみたいだね、全く見なくなっちまったよ」
「 そう、ですか。早く見つかることを祈ります」
これだけ長い間見つからないのであれば希望は薄い。彼の両親もそれを理解しているだろう。彼らとは面識はない。
ただ、残された希望に縋りたくなる気持ちは、分かる。
「そういや、同じぐらいの年だったかしら?前に先生を訪ねたいって子もいたけど。そっちにきちんと行けたかい?」
「え?」
「知らない顔だったからねぇ、迷ってる様子だったから声かけたんだよ。したら、家族の調子が悪いから医者を探してるって言うからさ。男の子なのに偉いわよねぇ。だから、先生のこと紹介しておいたんだよ、随分礼儀正しい子で──」
そういえばそんな子もいた。
数ヵ月前に訪ねてきた、不思議な雰囲気の子供。
「黒い髪の、緑の目の……」
「そうだったかしら?きっとそうね、緑の目が珍しいなと思った記憶はあるもの」
「彼なら来ましたが、暫く連絡も無いですね。彼を見かけたら、ご家族の調子だけでも気に掛けてあげてくれませんか」
「いいよ!まかせな先生!」
ちらりと腕の時計を見ると、すでに20分ほど話し込んでしまっていた。そろそろ帰らねば次の患者が来る時間になる。きりもいいだろう。
「ディナさん、私はそろそろ失礼します」
「ああ、分かったよ先生!悪かったね忙しい中。あんたー!先生が帰るよー!」
流石に手持ち無沙汰で帰るのは忍びない。手頃なソーダを1本購入する。トルバランが飲めなければ、キャンディとソーダはリベールにもあげたらいい。好きだろう、女の子はこういうの。
「これ、なんですか?」
ふと目に入ったのは、数本で麻紐で束ねられた木の枝。シナモンだろうか。それにしては、管理方法が違う気がする。
「またたびだよ、少ないけどこの町にも猫はいるだろう?見かけたらあげようと思ってね」
ふとトルバランの顔が浮かぶ。
実際、猫がまたたびで酔うという話は聞いたことがある。猫の怪異でも効果はあるのだろうか。
「どうしたんだい?」
「……これ、1本頂けますか?」
「お?猫でも見かけたのかい!いいわねぇ~どんな子かしら?」
どんな子。自分より大きくて、人の言葉を喋って、常識がぶっとんでる猫かどうかも怪しい怪異。
「黒くて大きい、ですね」
「まぁ~!黒猫ちゃんかい!いいねぇ私も見てみたいねぇ、猫は大好きなんだよー!でもやっぱり湿気かねぇ、中々居着いてくれなくて、そうそう3丁目の家にいる三毛のねこちゃんがね──」
□□□
「ただいま」
家の扉を空けると、パーテーションの奥からトルバランが顔を出した。もっとも、その姿はヴィレナさんではあるが。
「随分遅いな」
「ええ、まあ」
壁掛けの時計を見ると、ギリギリ次の診察には間に合う時間だ。折り畳んだ傘を外にひっかけ、コートを脱ごうとすると彼がハンガーを持ってきていた。随分、手際がいい。
「リベールが乾かしてくれるだろう、貸したまえ」
「……なんだか、慣れませんね」
「なにがだ」
ハンガーを通しながら、トルバランは不思議そうに目線だけ私に寄越した。癖のある黒髪がふわりと揺れる。
「あなたに、出迎えられるのがです」
「もう数ヵ月していることだろう」
「わかってはいるんですけどね」
「ふむ、人間は慣行に生きる生物だと理解しているが、いつになったら慣れるのかね」
「人に寄ります、私は状況が特殊なので」
ふうん、と変わらず不思議そうなトルバラン。彼は変化を受け入れるのが得意なのだろうか。そもそも変化を起こす側だから、あまり気に留めていないのだろうか。
それとも、この献身的な様子がどうにも彼を人と錯覚させるから、私が無意識に拒んでいるのか。
「まあいい。そのうち慣れるだろう」
本当に気にも留めていない様子だ。彼にとって、重要なのは私が娘を生き返らせること。そしてそこまでの道のりだ。いつかは解決する些細な問題は、興味すら引かないのだろう。
「そういえばトルバラン、町で買ってきたのですが、いりますか」
「なんだね」
鞄の中から、ソーダを取り出す。
外部の人間からミネラルウォーターとよく間違えられる装飾のデザインだが、想像よりもずっと甘い飲み物だ。親にねだって子供が喜んで買っていく。
あの子もこれが好きだった。
「……………………」
「え、どうしたんです」
「ヴィレナさん」の顔が酷くしかめられている。今まで笑顔以外はちょっとした変化しか感じられない筈だっのに、初めてここまであからさまな顔を見た。
「それは、ソーダか」
「え、ええ。まあ」
「……同族が好んでいる」
飲むのか、ブギーマンも、ソーダ。
その割に、トルバラン本人は実に嫌そうに離れ始めた。猫避けの効果などあっただろうか。
「苦手なんですか?」
「わざわざ飲み物にしゅわしゅわとした感覚を付けるなど、人間は実に不思議な生き物だと思わんか。ミネラルウォーターのようなのに」
「飲んだことあるんですか」
「以前に、一度町で買った。ソーダというものを知らずにな」
炭酸が苦手らしい。たしか、人間の体に入っている時は味覚と嗅覚機能しないと言っていた覚えがある。甘さがないまま強炭酸を急に、それも知らずに飲んだら、そりゃあ驚くか。
「試してみます?もう一度」
「断る、もうたくさんだ」
再度試す前に拒否するなど、彼にしては珍しい気もする。よっぽどいやだったのだろう。これはリベールに上げよう。彼女が甘いものが得意であればいいが。
「じゃあ、こっちは?」
「またたびか」
「ああ、やっぱりわかりますか」
「当然だろう、それよりも何故これを買ってきたのか、のほうが気になるがね」
いつのまにかまたたびはトルバランの手の中にあった。奥の目はすっと細められ、私を探るように見つめてくる。
「私にこういった獣を酩酊させる類いのものは効かん。まさか、私がそこいらの獣と同等だとでも思ったのか、ヴィクトル」
指は小枝をいじり、くるくるとその身を回して遊んでいる。彼は表情が乏しいため、視線、声色、雰囲気や仕草でいつも機嫌を判断をしているが、これはどういう感情だ。
「まさか、他のメス猫でも釣ろうと思ったのか?愛嬌を振り撒くのもいいが、些か過ぎた行為だと思うがね」
たぶん、恐らく。怒ってはいないとは思う。目の奥はからかいの色を含んでいるが、声に抑揚がないのはどう受け取ったらいいだろう。
こうして尋ねられると、一体何の尋問かと思ってしまう。
「あなたが、喜ぶかと思って」
「ん?」
「猫じゃないですか、あなた。だからこういうのが好きかと思って。知らなかったんですよ、その、作用がないっていうのは」
「……全く、私の旦那様は少し安直すぎるようだ」
あきれたような、軽いため息が聞こえた。最近の彼は妙に人間臭い仕草をするようになったと、場違いなことを考える。
「ところで、これを購入する際、おまえは私の事を考えていたのか?」
「え?ええ、まあ」
「私が喜ぶかどうか、そう考えていたと?」
「え、っと。まずかったですか」
嘘は付いていない。深い意味などないが、彼の事を考えて買ったのは間違いない。しばらく、トルバランはじっと私の目を覗き込む。
「実に、不思議なものだな。お前はよっぽど、私を警戒していたと記憶しているが……」
なにが面白いのか、彼は軽く笑う。空いた手がそっと私の頬を撫で、やたら顔を近づけてくる。やはり生きている人間とは違い、底冷えするほど冷たい。
以前にコンクリートに打ち付けられたことを思い出し、自然と体に力が入る。
「人間の心は移ろいやすい。愛しい旦那様のプレゼントだ、受け取っておこう」
すり、と一つ撫でると流れるように私の帽子をひったくり、キッチンへと歩いて行ってしまった。足取りは軽いようだ。
彼が離れると緊張は解けるが、触られた頬が冷たさを残し気味悪く感じてしまう。
(完全に受け入れる、というのはやっぱり難しいな)
頬を一度、軽く拭う。
さて、次の患者が来るまでに準備をしなければいけない。
…………
リベールにはキャンディとソーダを渡したところ、とても喜んでいた。彼女も甘いものが好きらしい。
私は苦手だから、本当によかった。




