2話 1日の終わり
照明が落とされた病院内というのは、なんだか心を不安にさせる。僕には全く関係のない彼女だけど、路上で苦しんで倒れている姿を見てしまった。蒼白な顔に、蒼白な唇、苦しい呼吸音、胸元で大事そうに呼吸器を持っている姿が目に焼き付いてはなれない。
ただ、彼女の安否だけを願って、長椅子に座っているしかない。いつも思うけど僕は無力だ。
カツカツカツと足音が聞こえてきた。照明が消えた暗い廊下をコートを着た男性が歩いてくる。段々と彼女が入っている処置室へ向かって歩いてくる。
茶髪のベリーショートヘア、大きな瞳。吊り上がった目尻が印象的だ。小顔で鼻筋がきれに通っていて鼻が小さい。形の良い唇で、色白でキメの細かい肌。どこか路上で倒れていた彼女と顔が似ている。
「君が救急車を呼んでくれたのか」
「はい」
「柚を助けてくれてありがとう。俺は兄の広瀬瑛太という。妹の名前は広瀬柚、柚はストレス性の慢性喘息を患っていてね。今のような季節の変わり目の寒暖の激しい日に発作が起こりやすいんだ。いつも何かあった時には、すぐに俺に連絡するように言ってあったんだが、間に合わなかったようだ。君は柚の命の恩人だ。心から礼をいう」
「・・・・・・」
瑛太さんが僕に深々と頭をさげる。とても恥ずかしい。そんなに大したことをした訳じゃない。ただ救急車を呼んだだけだ。後は救急隊員の人達と、処置室にいる医師と看護婦さん達が処置を施してくれている。僕は何もしていない。ただ長椅子に座っていただけだ。
処置室から看護婦が出てきた。看護婦の話では彼女の容態はかなり快方へ向かっているらしい。数日間は様子を見て、入院ということになるらしい。看護婦が僕のほうを見る。
「彼女さん、助かってよかったわね。命に別状ないから大丈夫よ。お薬も、今の患者に適応した薬を出しておくから心配しないでね。大切にしてあげてね。今日は帰っていいわよ。後日に受付で患者の名前を言えば、病室がわかるようにしておくから」
どうもこの看護婦は僕と彼女が付き合っていると勘違いしているらしい。瑛太さんの眉根が寄る。どこの誰ともわからない僕が妹の彼氏扱いされたのだから、機嫌が良いわけがない。瑛太さんに申し訳ない。
看護婦は自分だけ要点を話すと、さっさと処置室へ戻っていった。瑛太さんがため息を漏らす。
「今日はここに居ても仕方がないようだね。車できているから、車で送っていくよ。一緒に帰ろう」
「ありがとうございます。どうやって帰ろうか、考えていたんです。助かります」
瑛太さんと共に病院の救急搬送用出入口から病院を出て、駐車場まで歩く。バイト先を出た時より、グッと寒くなっている。今日の寒暖の差は特に激しいような気がする。喘息者には大変な時期なんだろうな。
地下駐車場には黒塗りのレクサスが駐車されていた。瑛太さんが運転席に乗り込み、僕は助手席に乗る。レクサスは病院の地下駐車場をゆっくりと走りだす。
「そういえば、君の名前も何も聞いていなかったね。よければ自己紹介してくれるとありがたいんだが」
「はい。柏木圭太と言います。八神進学予備校の予備校生です。喫茶店でバイトをしていて、バイト帰りに妹さんが倒れているのを発見しました。家は駅3つ離れた桜田区に住んでいます」
「そうか、八神進学予備校の予備校生だったのか、妹の柚も同じ学校の予備校生だ。妹は幼少の頃から病弱でね。できれば、予備校でも仲良くしてやってほしい。そしてできれば、柚の体調を気遣ってくれるとありがたい。家は桜田区でいいんだね。俺達も桜田区に住んでいる。ご近所さんだね。柚のことをよろしく頼む」
瑛太さんに頼まれても困る。僕は彼女、柚さんと話したこともなければ、会ったこともない。どんな話をしたらいいのかもわからないし、クラスも違うかもしれない。妹さんの体調を気遣ってほしいと言われても困る。
「僕は妹さんと会ったことも、話したこともありません。違うクラスかもしれません。体調を気遣うといっても、力になれないと思います」
「ああ、そのくらいはわかっている。少しでも柚の体調をわかってくれる者が予備校にいてくれるのは心強いから、思わず頼んだだけだよ。君に押し付けようというわけじゃない。もっと気軽に考えてほしい。気軽にね」
気軽にと言われても対処に困る。しかし瑛太さんの気持ちも少しわかる。だからここは黙っていよう。
レクサスは道路を走り抜け、僕がナビをして瑛太さんが運転していく。住宅街の2階建ての一軒家が僕の家だ。
僕が助手席から降りる時に瑛太さんが僕に声をかけてきた。
「今日は、色々と世話をかけたね。今度、きっちりとお礼をするよ。今日のところは、これで失礼する」
「お礼なんていらないです。僕はただ救急車を呼んだだけですから」
「君は謙虚だね。ありがとう」
瑛太さんはそういうとレクサスをゆっくりと走りだし、道路を曲がって見えなくなった。
家の門を開けて、玄関に鍵を開けようとすると、家の中から玄関が開いた。僕が家の中へ入ると妹の柏木花楓が玄関で立って、心配そうに僕の顔を見ている。
「こんな時間になっても、お兄ちゃんから連絡ないから、花楓、心配しちゃったよ。遅くなるなら連絡ぐらいしてよ」
「ちょっと色んなことに巻き込まれてね。帰りが遅くなっちゃった。心配させて悪かったな」
時計の針がもうすぐ12時を差そうとしている。花楓が心配するのも仕方がない。
花楓は黒髪・エアリーショートカット、小顔な色白で、優し気な二重まぶた、鼻筋の通った小鼻、薄い唇。可愛い眼鏡をかけている眼鏡美少女だ。とても兄想いの可愛い妹だ。
「色々って何があったの?」
花楓が興味津々に聞いてくる。仕方ないので僕はバイト帰りに倒れている女子を助けて、救急車を呼んだことを説明した。
「何にでも無関心のお兄ちゃんが人助けなんて珍しいね。でもその女の子、助かってよかったね。お兄ちゃん、良いことをしたんだよ。もっとにっこりと笑いなよ。いつも無表情なんだから」
無表情とは違うと思う。確かに感情の起伏が顔に出るタイプではないが、きちんと喜怒哀楽の表現は顔に出ていると自分では思っている。表情に乏しいといわれると少し凹む。
花楓は「夕飯まだなんでしょう?」と言って、台所に立って、エプロンをつけて、僕の夕飯の準備をしてくれている。
階段を登って自分の部屋へ入る。今日は何かと忙しい1日だったな。ベッドに横になって天井を見上げて、今日1日の出来事を振り返る。
蒼白な顔に、蒼白な唇で、酸素マスクをつけられている彼女の顔を思い出す。「美少女だったな」と思わず呟いて、自分は何を考えているのだろうと、頭を振る。
明日も予備校だ。今日は予習も復習もできそうにないが、明日の予備校の準備だけでもしておかないと、ぐったりと寝てしまったら、朝に予備校の準備をしている暇はなさそうだ。
机に向かって、椅子に座って、明日の予備校への準備を進める。
「お兄ちゃん、夕飯の用意ができたよ。早く食べてね」
花楓が1階から大声で僕を呼ぶ声が聞こえる。今日は花楓にも心配をかけたな。夕飯を食べ終わったら、少しは花楓の話し相手になってやろう。椅子からたちあがり、部屋の扉を開けて1階へと降りていく。
ダイニングテーブルに座って花楓が満面の笑みで待ってくれている。花楓、いつもありがとう。




