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Ⅲ

「兄上!! 素性を調べたい者がいる! ソロンを貸して欲しい!」

「嫌だよツェン。『兄上』ではなく昔のように『お兄様』と呼んでくれなければ僕は返事をしない」

 クレスツェンツはふやけた声で甘えてきた兄を鮮やかに無視した。

 そして目当ての使用人が部屋の隅にいることに気づくと、両手を広げてその使用人に駆け寄る。

「おお、ソロン、ちょうどよいところに! お前、ちょっとひとっ走りして大学院の入学者名簿を見てくるのだ! アヒム・グラウンという小僧の名前を見つけたら書いてある情報を全部写してこい! 出身地と、親の名前と、あと入学にあたっての後見人の名前は必須だぞ! 行け、今すぐに!」

「元気だなぁ。葬儀がよほど楽しかったと見える」

 杯を傾けていたテオバルトの顔面に黒玉(ジェット)の髪飾りを縫い付けたヴェールが投げつけられる。彼は難なくそれを受け止めテーブルの上に置くと、肩で息をする妹を横目に見遣った。

「楽しいものですか……!」

 喪服を着たクレスツェンツは、その赤毛も褪せて見えるほど顔を真っ赤にして怒っていた。

 彼女はずかずかと兄に歩み寄り、その手から杯を引ったくって中身を呷る。てっきり葡萄酒だと思って飲んだのはまるで別物の麦酒(ビール)で、その苦みにびっくりし盛大に噎(む)せた。

「ソロンを使わなくても学院の入学者の情報なんて簡単に手に入るけど、どうしたんだい?」

 エルツェ家の使用人であり、エスピオナという素顔を持つソロンが黙って手巾を差し出し、クレスツェンツに椅子を勧めてくれる。彼女はそれに甘え兄の隣に腰を落ち着けた。

「非常に不愉快な思いをしました」

「ああ、なるほど。分かるよツェン。あんなに大騒ぎしたんだもの。それで、そのアベルくんとやらの入学資格を取り消せばいいわけだね? いいだろう、一両日中には必ず」

「そこまでは言っておりませんし、アベルではなくアヒムです。別に腹が立ったからどうこうしようというわけではありません。ちょっと親の顔が見てみたいというか、そういう感じのアレです」

「なるほど、アレね、アレ。分かる分かる」

「何が分かったのか、説明していただけますか兄上」

「アヒムくんの王立大学院への入学停止処置を」

「もう! 余計なことはしなくてよろしい!」

 だいぶ酔っているのか、テオバルトは人相が崩れそうなほどでれでれしている。

 昼間のことよりもまるで話を聞いていない兄に腹が立ってきて、クレスツェンツは彼の頬をつねり上げた。

「よろしいですか、余計な真似はしないで下さい。身許を抑えておいていざというときにはわたくし自身の手で仕返ししてやりたいだけです。彼の経歴を! それだけで結構です」

「わ、わひゃっひゃょ」

 頷くこともままならない兄の頬を解放すると、とたんにクレスツェンツは項垂れた。

 夕食の時間に間に合うよう帰って来たのだが、一つも腹が減らない。喪服を脱ぐため自室に戻るのも億劫である。両親が地方領へ戻っているのをよいことに王都の邸宅を我が楽園にしている兄を見倣って、一緒に酔いつぶれてしまいたい気分だ。

 これだけ顔に出していれば鈍いのか鋭いのか分からないテオバルトもさすがに気遣ってくれた。

 金細工の美しい杯を落ち込むクレスツェンツの前に差し出し、ソロンが用意してきた彼女の好きな葡萄酒を手ずからその杯に注ぐ。一緒に飲んだくれよう、ということだ。

「お前を落ち込ませるなんて罪深い〝小僧〟だね? なんと言われたのかお兄様に話してごらん」

「言いたくありません」

 葡萄酒は遠慮なくいただくが、昼間に浴びせられた屈辱的な言葉は兄にも知られたくなかった。

 むしろ兄にこそ知られたくない。テオバルトは彼と同じ考えの持ち主だからである。「なるほど」と言って嗤う姿が目に浮かぶ。

『貴族の姫君は、こんなところまで遊び場になさるのですね』

 昼間。

 そう言われた瞬間、クレスツェンツの頭の中は真っ白になった。胸からさあっと熱が引いてゆく感覚。

 少年の冷たい視線が眼裏に焼きついている。

 そう言ったのは彼が初めてではない。だからこそ余計にクレスツェンツの心に刺さる言葉だった。

「遊んでいるように見えるのだろうか……」

 葡萄酒が唇に触れるまま、クレスツェンツは杯の中に向かって呟いた。

 教会が旧くから行っている慈善事業に、『施療院』という仕組みがある。

 医療の心得のある僧侶たちが無償で傷病者の治療を行う施設だ。

 国教で祀る天の主神は弱き者を扶けることを正義のひとつとしていて、施療院はそれを体現した機能だった。

 シヴィロ王国の都アマリアにおいては、グレディ大教会堂の隣に主院、都の東部、西部にひとつずつの支院があり、医道を修めた僧医たちが街の人々の治療にあたっていた。

 クレスツェンツはその慈善事業に協力的だった祖母に連れられ、幼い頃から施療院に出入りしていた。

 もともと好奇心旺盛で活発だった彼女はすぐに院内の仕事を手伝うようになり、祖母が亡くなった今でも施療院に通い続けている。

 自分の行動が姫君らしからぬことは重々承知していた。

 病人や怪我人が集まる施療院は貴族の目から見ると汚らわしく危険な場所だ。そしてその認識が間違っているともいえない。

 血や汚物で手が汚れることもあれば、病を伝染される可能性だってある。クレスツェンツとて、祖母に連れられて行かなければ一生近寄る機会はなかったと思う。

 そんな場所で王家の血を引く姫君が病人の食事の介助をしたり、汚れた洗濯物を運んだりしているとは誰も想像出来ない。

 しかし実態が分からないからといって「遊んでいる」と評価されるのは不服だった。クレスツェンツは働いているのだ。僧侶たちとともに、真剣に命と向き合っている。

 でも、知らない者たちからすればそんな事実はないも同じ。

 年頃の姫君がふらふらと遊び回っているように見えても仕方がないのかも知れない。

 彼にもそう見えたのだろうか。

 エルナのために祈りに来てくれた彼にも。

 妹は事情を話そうとしないものの、悄れる様子からテオバルトには何があったのか察することが出来た。

 彼女が落ち込む理由はこのところ決まっている。

「まあ、詳しくは聞かないでおくけれど、きっとその〝小僧〟の意見が、世間様のおおよその考えだよ」

 テオバルトは杯の縁を撫でながら妹の横顔を覗き込む。そして予想通りに殺気立った目つきで睨まれた。

 彼女の厭がる言葉を投げつけている自覚はあるので、その素直な反応はむしろ可愛く思うほどだ。

「おお、怖い。でもね、ツェン。人々の視線がお前に集まるのも道理だよ。ちょっとは外聞を気にして自重したらどうだい」

 テオバルトは猫のように目を細める。口許は悪戯っぽい笑みに歪んでいるが、彼のまとう空気は瞬時に冷ややかになった。

 クレスツェンツも杯を下ろし、同じくらいに冷たく視線を凍らせて兄を見つめ返す。

 兄妹の間にあった気安さは一瞬にして掻き消え、二人の間で青白い火花が散った。

「だから、兄上には言いたくなかったのです」

 クレスツェンツが呟くや否や、初夏の夕陽が二人を隔てるように居間へ射し込んだ。

 昼が燃え尽きようとしている。色々なことのあった一日が終わる。

 兄との睨み合いをやめ、今は淡い橙色に染まる窓の外を眺めて、クレスツェンツは長い溜め息をついた。

 やめよう。今日は祈らねばならない日だ。若くして命を散らした友人のために。

 自分へ向けられた批難の声に怒ったり嘆いたりしている場合ではない。

「着替えて参ります」

「ん、そうだね。夕食を食べながら飲み直そう」

「いいえ、今日はやめておきます」

 不満げに唇を尖らせる兄を横目に、クレスツェンツは半分ほど杯の中身を減らして立ち上がった。

 自室に戻り、侍女に囲まれながら喪服を脱ぐ。入浴を催促する彼女たちを下がらせると、クレスツェンツはむしゃくしゃした気分を紛らわそうと愛用のクラヴィアの前に座った。

 しっとりとした艶のある鍵盤に指を並べれば、いくらか心の波が静まった。

 指が自然に動き出すほどに弾き込んだ曲、葬送の旋律を、彼女は奏で始める。

 今日はエルナのために。

 永訣を悲しみ、死者の魂が天上で安らぎを得ることを祈ってクラヴィアを弾く一方、彼女は頭の半分で別のことを考えていた。

 外聞を気にしろ、という兄の言葉だ。

 すでに政の世界に関わる兄にとって、姉妹など政略の駒に過ぎない。のびのび育てられたとはいえ、それが貴族の習いであることはクレスツェンツも理解していた。

 そして彼女はその駒として王家へ送り込まれることが決まっている身だった。

 数年のうちにクレスツェンツは王家へ嫁ぐ。即位の翌年に妃を亡くした国王の後妻に内定しているのだ。

 正式な発表と王家からの婚姻の申し込みがまだではあるが、それは周知の事実。今、クレスツェンツほど注目を集めている姫君はいまい。

 やがて父から公爵位を継ぎ政界で生きていくテオバルトは、妹が手に入れる地位を最大限に利用したい。ゆえに、万が一にでも国王と妹の縁談が破談になっては困る。

 だからこの頃は特に、クレスツェンツが施療院へ通うことに対していい顔をしなかった。姫君らしく大人しくしていろというのだ。

 それで屋敷から出ることをやめる彼女ではなかったが、おかげで仲の良かった兄と衝突することは増えた。今日のように。

 兄のことが嫌いではないから余計に面白くない。でも彼に従うつもりはない。するとまた喧嘩になる。

 こうして溜まっていく鬱憤は、いずれ自分が王妃になったときに晴らしてやる。公爵家の後ろ盾を存分に利用し、自分がやりたいことをやってやるのだ。そう思うことにしていたが――

(やりたいこと……)

 それが何なのかを己に問うと、いつも答えが思い浮かばない。

 この問いに答えが出せない限り、クレスツェンツは施療院を遊び場にしている世間知らずな姫君のままだ。

 兄やあの少年に何も言い返せなかった。

 彼女はいつの間にか鍵盤を叩くのをやめ、樺色とすみれ色が溶け合う夕空をじっと眺めていた。

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