Ⅲ
「身体は辛くありませんか?」
クレスツェンツの涙が収まったころを見計らって身体を離し、アヒムは問うてきた。
「ああ、もう苦しくない。お前が現れたとたん楽になったよ」
「よかった。長い間、痛みを我慢なさって仕事をこなしていらしたでしょう。ずっと気がかりでした」
安堵の溜め息とともに彼が呟くのを見て、クレスツェンツは苦笑する。
「やっぱり見ていたのか」
アヒムの言う通り、特にこの一年は激痛との戦いだった。何度も血を吐いて昏倒したことがあったし、ひと月ほど前から痛みを誤魔化すための薬の量が急激に増え、ほとんど酩酊したように過ごす日も多くなり、そうでなければ、痛みを堪え寝台の上でのたうち回っている状態だったのだ。
それでも生きていなければと思った。わたしは旗印だからと。夫や仲間を支えねばとこれまで通りに努力したし、また彼らも、クレスツェンツの体調を慮りながら彼女を支えてくれた。
身体は辛かった。でも、悪くはない一年だった。あとは、この親友がそれを認めてくれればいい。
「すごく頑張っただろう、わたくしは。もっと褒めてくれてもいいぞ」
「ええ、よく頑張りましたね」
アヒムは別れる前となんら変わりない率直さで頷く。こっちが照れてしまうほどの無垢な笑い方で、しかしクレスツェンツはただ嬉しくて、目尻に残っていた涙をぬぐいながらアヒムに微笑み返した。
そしてふと思い出すことがあった。アヒムに返さねばならないものがあったのだった。
まさか直截手渡せる日が来ようとは思ってもいなかったのだが。
クレスツェンツは襟元をゆるめ、僧侶の証のペンダントを取り出した。七年前、アヒムの骸から形見としてもらってきてしまったもの、彼の代わりにはなり得なかった、けれど少しだけ勇気をくれるお守り。
それを見たとたんアヒムは目を瞠り、差し出すクレスツェンツの手からペンダントを受け取って苦笑する。
「危険を顧みずユニカを迎えに来て下さったこと、本当に感謝しています。ありがとうございました」
「申し訳なさそうな顔をするな。わたくしが行きたかったのだ。お前にも、ユニカにも会いたかった。けれど間に合わなかった。すまない」
「いいえ、間に合いましたよ。あなたのおかげで、ユニカはひとりきりにならずに済みました」
* * *
クレスツェンツはアヒムとともに王城へ戻り、ユニカが暮らす西の宮へ立ち寄った。
ユニカはこのごろ自室に籠もり、鬼気迫る様子で刺繍を縫い上げていた。
刺繍の図柄は皮肉にも女神ユーニキアだ。ユニカの名の由来であり、病の人を救うという。
ユニカは癒しの力がある己の血を、病床のクレスツェンツに飲ませた。クレスツェンツが快癒し、再び施療院の主導者として多くの命を救っていくことを願って。
しかしそれは叶わず、クレスツェンツは死の淵に足をかけている。ユニカ自身が一番混乱していることだろう。なぜ、クレスツェンツを救うことが出来ないのかと。
そして彼女は、女神の力にすがることにしたようだった。女神の姿を描き上げ、大教会堂へ奉納するつもりなのだろう。
「ユニカは絵を描くのが上手いな。毎年、新年の祝いに大教会堂へ刺繍を奉納していたんだ。自分で下絵から描いていた。縫うのもとても上手だ」
「それはそうでしょう。腕のよい職人に師事していました。なにごともなければ、ユニカも村の女性たちと同じように様々な針仕事をこなせる職人になっていたはずですから」
「そうなれるように守ってやりたかった」
目にも留まらぬ早さで布に色糸を縫い付けていくユニカの肩に、クレスツェンツはそっと手を置いた。
「だけどお前もわたくしも、真の意味でユニカを受け入れることは出来ていなかったのかも知れないな」
その言葉に、アヒムは少しだけ眉根を寄せる。
「わたくしなりに思ったことだ。気にしないでくれ。お前がどんなにユニカを愛していたかはちゃんと知っているよ。しかしお前もわたくしも、ユニカに宿る力は特異なもので、隠し、使ってはいけないものだと思っていなかったか? お前は普通の可愛い女の子だよと言い聞かせることが、かえってこの子に普通ではないと思わせることになったのではないだろうか。ユニカを守るということは、この子が授かった力を隠すことなく生きていけるように、剣になり楯になり、ともに戦ってやることだったのではないかと、今更思っているよ」
私の血を飲んで、なんとしても生き延びて欲しい。ユニカにそう懇願され、クレスツェンツは思ったのだった。
それがユニカの願い。彼女が心と身体の痛みを引き換えにしても叶えたかったのは、クレスツェンツの命がながらえること。
どうして否定する必要があったのだろう。ともに受け入れてあげればよかった。もっと早くに。彼女と夫の約束も含めて。
けれど気づくには遅かった。クレスツェンツの命運がこの先へ延びることはなかったから。
もうしてやれることは何もない。
むしろ悲しませてしまう。寂しい思いをさせることになる。
仲間たちに、ユニカを後継者にしたいという思いは伝えてある。けれどユニカの心が開くまでの時間をともに待ってやることが出来なかった。扉を開いて城の外へ出れば、お前は独りではないのよと、伝えきれなかった。
それでもおいて逝かねばならない。
クレスツェンツは涙を堪えて、ユニカの頬に口づける。
やはりなんの感触もなかった。それだけ、クレスツェンツがこの世から遠いところへ行こうとしているのだろう。
クレスツェンツはもう一度東の宮を訪れ、作文の授業を受けている息子の様子をアヒムとふたりで眺めた。
「大きくなられましたね。生まれたばかりの王子さまを抱かせていただいたのを覚えています」
「ふふ。おかげで勉強が好きな子になったよ。よく考え、よく話すと教師たちが言っている。賢い王になってくれればよいが……。陛下の跡目を継ぐのは、きっと大変だ」
「そうですね」
王子は文法の教科書と辞書を睨みながら、真剣にペンを動かしている。
彼は母を喜ばせる方法を知っている。好きな色の花や、音楽を贈ることを。そして己が良い王になるよう努力することを。
語る言葉は少なかったが、ユニカのところにいたときよりずっと長い時間、クレスツェンツは息子を見つめていた。アヒムも彼女の気が済むのを一緒に待っていた。
最後に夫のもとを訪れるころには、初秋の日射しは傾いていた。
茜色の西陽が差し込み、王の執務室はほんのりと赤く染まっている。
侍従長をどこか使いへ出しているのか、夫は秘書官とふたり、互いに言葉を交わすこともなく書き物に集中していた。
クレスツェンツは机の前に立ち、ペンを走らせる夫を見下ろす。
「陛下」
呼びかけても、返事はない。身体から抜け出したクレスツェンツの声など聞こえないのだ。
「陛下」
もう一度夫を呼ぶクレスツェンツの声には、溢れ出るほどの愛しさがこめられていた。
彼女は顔を上げてくれない夫の顔を窺うために屈みこむ。
「至らぬわたくしをいつも導いて下さって、ありがとうございました」
沈黙。かりかりとペンが紙を引っ掻く音だけが響き渡る。
寂しい。
「施療院の組織作りは、陛下のご理解無しには推し進めることが出来ませんでした。たくさん我が儘も無茶も申し上げた覚えがあります。陛下はわたくしの思いを頭ごなしに否定するのではなく、理屈を丁寧に話し、もっとよい方法がないかと一緒に考えて下さった。本当ならばわたくしが陛下をお支えせねばならなかったのに、佐けられていたことが多いのはわたくしのほうです。ずっとお傍にいて、これから先こそは陛下のお役に立とうと思っておりましたが、それも叶わないことを、どうかお許し下さい」
本当は人恋しい性分で、妻のことも息子のことも誰より愛していて、けれど立場ゆえにそんな感情におぼれるわけにはいかず、いつも顰め面をしているしかなかった孤独な人。
でも、愛情に溢れた王。
「陛下。どうか、クヴェンのことをよろしくお願いいたします。わたくしにそうして下さったように、わたくしたちの息子のことも導いてやって下さい。そしてユニカのことも――ユニカの、陛下に対する憎しみを取り払えなかったことは本当に心残りです。しかしあの子の優しさも、陛下の優しさも、わたくしはよく存じております。陛下とユニカの間にあるわだかまりもいつか解けると、わたくしは信じておりますから……。陛下の御代が、乱れのない織物のようにいつまでも美しく、平らかに続くよう見守っております。お傍にいられず、お傍に……」
言葉を詰まらせたクレスツェンツは、唇を噛みながら身体を起こした。
もう、この人の傍にはいられないのだ。
一番悲しいのは、そのことかも知れない。
親友のほかにもうひとり、最もクレスツェンツを理解してくれていた人だから。
傍にいて、もっとたくさんのものを返してあげたいのに。
目尻に滲んできた涙を指先でぬぐうと、彼女は仕事に没頭する夫の頸を掻き抱いた。
「愛しい方」
それ以上に言葉は浮かんでこなかった。
伝えたいことは山ほどあり、胸にははち切れそうなほど様々な思いがこみ上げている。
けれどそのどれひとつとして、言葉にはならない。
夫の髪にしばらく顔を埋め、やがてクレスツェンツはゆっくりと彼から離れた。
「もう、よろしいのですか?」
「……うん。焼き餅を焼いたか?」
「……」
何とも形容しがたい顔になって、アヒムは眉を顰めた。しかし彼は咳払いをしただけで答えず、親友に向けて手を差し伸べる。
「お前の手を取れるというのに、こんなに寂しいのはどうしてだろうな」
「名残惜しくて当たり前です」
「そうか」
クレスツェンツはゆっくりと手を持ち上げ、アヒムに預ける前に、少しだけ躊躇った。
夫を振り返りかけて、やめる。
振り返っても、名残惜しさが消えるはずなどない。
だったら、少し離れたところでもいい、ずっと彼を見守れる場所にいようと思う。
ユグフェルトは、何かに髪を撫でられた気がしてふと顔を上げた。
「いかがなさいましたか?」
それに気づいた書記官が、不思議そうに訊ねてくる。
「いや……」
やけに赤い西陽の窓を振り返り、何かの予感に駆られたユグフェルトは席を立った。
翌日、王城には王家の旗と共に黒い喪章旗が掲げられ、王妃の崩御を国中に伝えた。
<完>




