Ⅴ
黙って、歩調をそろえゆっくり歩く。
アヒムはこのまま答えてくれないつもりかな、と思ったころ。
「オーラフ様ほど高尚な理由じゃないんですよ。ただ本当に医学の知識が欲しいだけなんです。クレスツェンツ様はアマリアで育った方だから想像出来ないかも知れませんが、オーラフ様の故郷や、もっと辺境の僕の故郷では、病に罹ると人はあっけなく死にます。具合が悪くなっても、安静にしていることしか出来ない。体力のある者は快復しますが、そうでない者はね……治す方法を知らなさすぎるんです」
とはいえ医師がまったくいないわけではないんですよ、と付け足すアヒムに、クレスツェンツは返す言葉が見つからなかった。それが彼の〝当たり前〟なのかと驚いた。
クレスツェンツの知る限り、病になれば人は医師や薬を求める。貧乏な者でも、施療院にたどり着くことさえ出来れば最高の治療が受けられる。
そうして頼れる場所があることがクレスツェンツにとっての〝当たり前〟だった。
「施療院での治療を見て、大学院での講義を聞いて、ああそれは治せる症状だったんだなと気づくことがたくさんありました。ここは薬も、知識も、人もものも豊かです。王家の学院を選ばせてくれた父や師に感謝しています。分かったことがたくさんある。知っていれば治せるんだ、助けられるんだと」
アヒムがいつも熱心に薬の処方を調べて、治療の様子を観察して、必死で学ぶ姿をクレスツェンツは思い出した。
「助けたい者が故郷にいるのか……?」
その必死さの、その意欲のもとはなんなのだろう。
誰か、大切な人がいるのか? 救いたい人がいるのか? わたしの知らないところに。
クレスツェンツのわずかな動揺には気づくことなく、アヒムは溜息とともに答えた。
「もう死んでしまいました。僕がずっと幼いころに」
「……そうか」
誰とは言わなかったが、母親のことだろうか。先ほどちらりと話題にのぼったときにも感じたが、アヒムはあまり詳しい話をしたくないようだ。
「お前が医師として村に戻れば、これから助けられる命も増えるよ」
安堵してしまった自分やアヒムの思いにいたたまれなくなりながら、クレスツェンツはどうにか笑みを作る。笑いながらも感傷的な気分にさせてしまっただろうかと心配したが、アヒムはもう前を向いていた。
「そうですね。でも、特別裕福な村でもないので、僕にいくら知識や意欲があっても薬や道具をそろえるには限界があるし……だから、オーラフ様の構想にはすごく期待してるんです」
「アマリアの僧医を、地方へ派遣する仕組みのことか」
「ええ。教会は王国全土に広がる組織です。街の教会は大なり小なり施療院の機能を備えているし、基盤はあるでしょう? あながち夢物語ではないと思うので、アマリアのような、もしくはそれに準じるくらいの医療を地方でも用意出来るようになればありがたいなと。実現すれば知識や技術と一緒に物資も普及するはずだから、辺境の村は教会を通してものを調達出来ればいいなとか考えてみるんですが」
「うん、確かに。それこそグラウン家の強い連帯感が活きそうじゃないか。なるほど、アマリアと同じ水準の医療を王国全土にね……」
住む場所が王都であれ、地方であれ、人々が健やかに働き、生きていけるのは素晴らしいことだ。けれどあらゆる面で格差があるのもまた実情であり、それを埋める方法は考えなくてはならない。
いや、しかし。逆に王都には処方の知識があっても、原料は地方の限られた地域からしか入手出来ない薬だってある。
格差ではなく違いであると思えばいいのではないだろうか。施療院と大学院の交流を目指しているのと同じ、知らないことは教え合い、持っていないものがあるなら与え合えばいい。
「なんですか、その顔」
「え? うん、ふふふ……」
いつの間にか口許が弛んでいたらしい。こちらに向けられたアヒムの表情が若干気味悪そうなのにはむっとしたが、それ以上に楽しい、可能性に満ちた青年たちの夢に乗っかり、クレスツェンツはスキップでもしたい気分だった。
「お前もオーラフ様も、いろんなことを考えつくなぁと思って。大学院との話も進めたいが今の話も動かしてみたいな。きっと人々に大きな幸福をもたらす話だろう」
あとでオーラフに詳しい話を聞いてみようと思うとますます顔が弛む。そんなクレスツェンツの耳に、思いもかけない言葉が入り込んできた。
「あなたが動かすと言ったら、本当に動きそうで心強いです」
「そうかな……」
そんなことを言われたのは初めてだった。
きょとんとしながら歩くクレスツェンツを見下ろし、アヒムはにっこりと笑う。
「施療院にナタリエ先生を連れてきたのは僕じゃなくてあなたですし、陛下さえ施療院に誘うし」
「う、思い出したくないことを……」
「相手が気難しい患者でも、聞きわけのない子供でも、僧侶でも貴族でも商人でも、誰とでも対等な繋がりを持てるのは、すごいことだと思いますよ」
アヒムは人を褒めるとき、こっちが恥ずかしくなるほど直截にものを言う。
クレスツェンツはきゅっと眉根を寄せてうつむいた。照れ隠しだった。
アヒムもそうと分かっているようで、もうひとつくすっと笑った。
「お前だって初めは近づきがたい雰囲気だったが、今では誰とでも仲よしじゃないか」
笑われるだけでは悔しかったので、クレスツェンツもアヒムが言われて恥ずかしいであろうことを突きつけてみた。
「ま、まあ……都に来たばかりのころはね……」
初めて話した日、冷たくされたことをクレスツェンツは忘れていない。許していないわけではないが。
これを引き合いに出すとアヒムは未だに狼狽えた。クレスツェンツが許していようとも本人は気にしているらしい。面白いので時々この話をしてからかってやる。
しかし実際、アヒムの雰囲気は変わったと思う。丸くなったとか、壁がなくなったとか、そんな曖昧な表現しか出来ないけれど、笑顔が増えて親しみやすくなったのは確かだ。
「ふふん、さてはわたくしを見倣っていろいろ改めたというところか」
「そうですよ」
「あー、いいのだ無理に否定しなくても。それだけわたくしのことを買ってくれているのだから参考にするところがあるのも当たり前――うん?」
「否定していませんけど」
「え、そ、そうなのか……?」
「いけませんか」
「いや、ううん……」
当人に自覚はないようだが、アヒムはこれで結構負けず嫌いだ。だからこうもあっさり『クレスツェンツを見倣って』いることなど認めはしないだろうと思っていたのに。
いや、あっさりといえるほど簡単に認めたわけではないらしい。その証拠に、アヒムは頬を赤くしてクレスツェンツから視線をそらした。西日のせいで肌が赤く見えたわけではなさそうだ。
放心したまま足を止めた友人をおいて、アヒムはさっさと教会の門を目指し行ってしまう。
雪が跳ねるのも気にせず、クレスツェンツは彼のあとを走って追いかけた。まだ歓声をあげて遊んでいる子どもたちと同じように。
心が弾んでいるのも、子どもたちと同じ。
どうでもいいとは思われていなかったんだなあ。
嬉しかった。自分は彼を追いかけてばかりだと、励まされてばかりだと思っていたから。
アヒムに渡せているものがひとつでもあるのだ。
そのことはどうしようもなく彼女の胸を高鳴らせた。
* * *
施療院へ戻ると、門前には豪奢な馬車が停まっていた。
クレスツェンツはうっと息を呑む。その馬車にはエルツェ公爵家を示す蘭の紋章が描かれていたからだ。
「兄上か……?」
「迎えにいらっしゃったのでは?」
「なんで。わたくしは別の馬車で来たのだぞ。オーラフ様とナタリエ様をそれぞれ送り届けてから帰ると言ってあったのに」
正確には、王に許しもなく言葉をかけた上に施療院へ来てくれなどと勝手な頼みごとをしたクレスツェンツに説教しようと、肩を怒らせて追いかけてきた兄の鼻先で馬車の扉を閉め、窓からそう言い捨てて王城を出てきたのであった。
怒られる心当たりは充分にある。それにしたってここまで来なくても、とクレスツェンツは顔を顰めた。
「帰りたくない……」
「泊まるなら宿坊の方へどうぞ」
「うるさいっ。帰るわ! 帰るが……」
施療院の中には兄がいるのではなかろうか。そう思うと足が前へ出ない。しかしオーラフと一緒にいるであろうナタリエを呼びに行かねばならないし……。
クレスツェンツが躊躇している間に施療院の玄関が開き、オーラフとナタリエを伴った兄が現れた。
やっぱりいた! 天敵を見つけたクレスツェンツはせんないことと知りながら素早くアヒムの背中に隠れる。
兄は導師と女子爵に愛想良く微笑んで挨拶をしていたが、無駄な抵抗をしている妹の姿をほどなく発見する。その瞬間、クレスツェンツと同じ鈍い緑色の瞳が雷光を発したように光った。
「そこにいたのか。帰るよツェン」
声音こそは穏やかだが、兄の目はまったく笑っていない。
「わたくしは、ナタリエ様をお送りしてから……」
「女子爵はお前の馬車で送らせる。私と一緒に来なさい」
「…………はい」
あまりの威圧感にクレスツェンツは次の言い訳が思いつかなかった。
露骨に不服な表情を浮かべながらも、不承不承、まったくもって不承不承、兄が乗ってきた馬車へ乗り込む。
オーラフとナタリエに挨拶をしたかったが、彼らの前に立ちはだかる兄はそれすら許してくれなかった。
そうだ、アヒムにも別れの挨拶をしていない。彼のほうを振り返ろうとしたが、その姿が見える寸前で扉は閉められてしまう。とどめといわんばかりに、反対の扉から乗り込んできた兄が氷の仮面を被ったような無表情で向かいの席に座る。
ああ、もう……終わった。いろいろと。
クレスツェンツが魂ごと吐き出すような溜息をつくと同時に、馬車はエルツェ家の屋敷を目指して動き始めた。
兄妹はしばらく無言だった。テオバルトは薄暮の街並みを眺めるばかりで、クレスツェンツも自分の足許を見るばかり。
「やってくれたね、ツェン」
何をきっかけに口を開こうと思ったのか知らないが、テオバルトは唐突にそう言った。
「何がでしょう」
クレスツェンツはあくまでしらばっくれる。
確かに、許しもなく王に言葉をかけたのはいけない。頼みごとをしたのもいけない。王は公人であって、ひとりの貴族の娘の話を聞くためにあの場にいたのではないのだから。
しかし、クレスツェンツは伝えに行ったのだ。自分たちの思いを。
アヒムがそれでいいのだと言ってくれたおかげで少しは自信が出た。兄の冷ややかな態度にはつい気圧されそうになっているが。
「来月、陛下がグレディ大教会堂へ行幸なさる」
「はい?」
「という名目で施療院へいらっしゃる」
「はい?」
どうして? と首を傾げかけたクレスツェンツだが、兄が答えを叫ぶのと同時に気がついた。
「わたくしがお願いしたからですか!?」
「お前がお願いしたからだよ!」
「嘘です!!」
「私も嘘であって欲しいさ!!」
車輪の音にも負けない叫び声は馭者の耳にも届いてしまったらしい。何ごとかと問う声が聞こえてきた。兄妹は優美な口調でなんでもないと口をそろえる。
「本当に、陛下はそうおっしゃっているのですか?」
「期待するんじゃない。見に行くとおっしゃっているだけだ」
「でもいらして下さると?」
「行くだけだ」
「ではその際のもてなしはぜひわたくしが」
「馬鹿を言うんじゃない、それは坊主たちの仕事だよ」
肩を突き放されあえなく身体を起こしたクレスツェンツだったが、その瞳は満足げに輝いている。
てっきりご不興を買ったと思っていたのに。やはりあの方は目に見える愛想を振りまくのが苦手なだけで、温かい情の持ち主なのだ。
そしてアヒムの言う通りである。本音を隠さず伝えるのは大事だ。
「にやにやしない」
テオバルトは心底面白くないようだった。うっとりする妹の膝を叩いてくるほどだ。クレスツェンツが調子に乗ると思っているのだろう。
実際、乗る。乗ってやろうと思っている。王が大教会堂へ行幸なさる日には、なんとしても屋敷を抜け出して施療院へ駆けつけねば。
そこでまた、王とお話しする機会があるかも知れないのだから。
「もうひとつ大事な話がある」
「よいお話ですか?」
「とてもよい話だ」
クレスツェンツの機嫌は急降下した。
兄にとってのよい話。それはクレスツェンツにとってあまりよい話ではないことが多いからだ。
「近々、正式に婚約の話をしようと」
が、当然のように主語が省かれた内容は、瞬時には彼女の頭に入ってこなかった。
「誰と誰のです?」
兄はすでに婚約者のある身。彼の話ではあるまい。そういえば、そのおめでたい話もそろそろ実を結ぶころ――と脇にそれかけたクレスツェンツの思考は、そこで停止した。
答え合わせは必要なかったのに。
テオバルトは胸を反らし、凍りついた妹に誇らしげに告げた。
「もちろん、かねてからお話をいただいていた、陛下とお前の婚約だよ」




