『依り代の人形』
◆
なんと言うこともない片田舎の中学校。
田畑に囲まれ、ぽつんと佇むような立地で遮る物が何もないが故に、夕暮れ時特有の橙色の光が校舎の西面を照らしていた。
北校舎3階の東の端にある図書室すら、文明の灯りが要らないほどに煌々と照らされていた。
本や棚、机や椅子にいたるまで、夕日の光を受けて淡い橙色に染まる図書室。
教室2つ分はあろうかという、読書に勤しむ生徒がめっきり減った現代に至っては不釣り合いな室内には、今は一人の生徒しかいない。
図書室のカウンターに座り、名前だけの司書の立て札を立てたまま、少年……制服的に見れば少年は、至極詰まらなそうに本を読んでいた。
その少年は美形とは言わないまでも、そこそこ整った顔立ちをしていた。
全体的に線が細く、どこか女性的な雰囲気を持った少年で、一見少女のようにも見える。
肩幅や制服から男子生徒だと疑う余地はない。にも関わらず、見るもの全てに、物憂げに読書をする文学少女という印象を与えてしまう光景だった。
少女のような少年、詠村真澄はため息を吐きながら本を閉じる。
栞を挟まなかったところを見るに、読み終わったのだろう。
誰もいない図書室を軽く見回し、差し込む夕日の光にまぶしそうに目を細めてつぶやく。
「微妙」
その声色もどこか中性的、ともすれば少女的とも言える様な、声変わりをしていないだろう澄んだ高音の音が感想を呟く。
その音は聞けば綺麗だという印象を抱かせるに十分なものではあったが、しかし、感情といえる様な物は一切感じられない物だった。
本を表にし、タイトルをもう一度、何もすることがないから眺めるという風な緩やかなしぐさで指でなぞる。
すると、図書室の一つしかない扉がカラカラと音を立てて響き、真澄よりも少しだけ背の高い少年が、図書室を睥睨するような険しい目つきのまま入ってきた。
「あれ。部活終わったんですか?」
真澄が入ってきた男子生徒に対し、見知った風に尋ねた。
先ほどとは違い、澄んだ高音にはしっかりと驚きや嬉しさといった感情が反映されており、その様子をみた人間がいたならば一様に違和感を抱いたことだろう。
そんな真澄の様子などまるで気にせず、男子生徒はそのままカウンター越しに真澄の隣の空いた椅子に鞄を雑に置き、軽く欠伸をしながら椅子に置いた鞄から本を取り出して、鞄を床に置きなおして椅子に座る。
「一応基礎練には付き合ってきた。お前こそ、部活はどうしたんだよ」
と真澄に問いかける声は年の割には低く落ち着いていた。
制服を着ていなかったら高校生や大学生でも通じるほどに大人びた男性的な雰囲気も相まって、まるで兄弟の様な錯覚を抱かせる。
黒縁の眼鏡の奥に覗く眼つきだけが異様に鋭く、まるで常に何かを敵にまわしているかのような部分を除けば、こちらは十分美形だった。
大人びた少年、冥狩享利が問いかけたが、真澄はそのまま席を立ち、享利に背を向けたままに答える。
「図書委員があるので、欠席させてもらいました」
席を立った真澄は元々あった場所に本を差込み、手ぶらになった右手で軽くテーブルの縁をなぞりながらカウンターに戻る。
「お前こそサボってんじゃねぇかよ」
その様子に享利が本に目を向けたまま、隣に座った真澄に言う。
「元々、何をするって言う部活でもないですからね」
真澄はどうでもいいと全身で語る様な調子で、返すというより、自己完結するように呟いて答えた。
そこで会話が途切れ、夕日の差し込む図書室に再び静寂が訪れる。
時折、享利がページを捲る音と、運動部が外で活動している活気溢れる声が遥か遠くに、まるで別世界であるかのように聞こえてくるだけだった。
「ところで、何を読んでいるんですか?」
暇を持て余した真澄が享利の本を指差しながら尋ねる。
「お前こそ、さっきまで何読んでたんだ?」
しかし、享利は本から目を離さないまま、質問に答える事無く問い返す。
わずかな沈黙の後、真澄は自身の質問に答えてくれなかったことなど露ほど気にした風もなく。
「……推理物です」
むしろ先ほど何を読んだだろうか。そんなことを思い出そうとするような間の後に、真澄は呟く。
「また微妙なものを」
明らかに呆れを含んだ調子で享利が言うと、真澄も僅かに表情を綻ばせて頷く。
「僕もそう思った所です」
真澄は至極同感という風に呟く。
「読まないとわからないのか」
「ええ。……それにしても、探偵はなんで態々謎解きなんてするんでしょうね。謎は謎のままだっていいのに」
ただ淡々と、そこだけが不満だという風に言う真澄に、思わず享利は本から目を離して突っ込みを入れる。
「そこかよ」
突っ込まれた事も理解しつつも、それでもただ不満だというように、真澄は呟くような調子のまま言葉を続ける。
「だってそうでしょう。世の中、知らなくていいことなんて、知っていて良い事よりも遥かに多いのに」
真澄は時間が止まったように色褪せた図書室の中、一人だけ浮くように存在する享利を見る。
「そこには全面的に同意するが、知ってなきゃ気持ち悪い人間だってごまんといるんだ」
享利は本を閉じ、立ち上がりながら真澄の頭を雑に撫でる。
「理解はできますけど共感はできません」
撫でられて乱れた髪を直すように、頭をふるふると横に振ってから真澄は立ち上がる。
「基本的にお前はいつもそうだろう」
本を仕舞い、鞄を背負いながらカウンターの外に向かう享利が吐き捨てるように言う。
「そうですね」
真澄は鞄を手に持ちながら淡く笑った。
「俺の前でまで“人らしく”するなよ」
享利は扉を開けて、振り向かないままにそう言って図書室を出て行った。
「……そうですね」
そう呟いた真澄の言葉は、何もこもっていなかった。
言葉というより、音。ただの音としての羅列。
それを言葉とよぶには、どこか足りない。機械だってそんな事にはならないだろうくらい、ひどく澄んでいて、それでいて何もない、空っぽの音だった。
◆
チカチカと不規則に明滅する電灯が等間隔ではあるが、かなりの間を空けて取り付けられた畦道を、真澄は一人で淡々と歩いていた。
その華奢な身体につりあわない大きめの制服と、背中に背負った学校指定の大きな学生鞄が揺れる。
田畑の間に作られた、最低限コンクリートで舗装されただけの道は暗く、周囲には人影は全く無い。
「……また居る」
真澄がぽつりと呟き、その視線の先は二つ先の電柱に取り付けられた電灯に照らされた場所へと向けられていた。
人は居ない。はずだった。
しかし、真澄の視界にはひとつの影が映っていた。
人影と呼ぶには余りにも歪で、しかし、それ以外には見えない人影に似た何かの目が真澄に向けられているのが、真澄自身、手に取るように分かる。
時刻としては既に午後七時にさしかかるといった所だがこの辺りは車道とも遠く、やや離れた場所で行きかう車のヘッドライトやエンジン音も、真澄に届くまでの間に滲んで消えてしまっている。
真澄はそのまま、淡々とした歩みを崩す事無く影の傍を通り過ぎ、再び電灯の明かりを離れた暗い道に足を踏み込んだ。
「?」
僅かに、真澄の歩みが止まった。
足元を引っ張られているような不快感が服をすり抜け、足首に直接伝わる感触がして、真澄は眉をしかめて足元を見る。
真澄の足元、電灯の明かりからはみ出した暗闇が蠢いて、真澄の足をしっかりと掴んでいるのを真澄は確かに見てしまった。
闇がニタッとへばり付く様な笑みを浮かべたような気がして、真澄は思わず足を振り払って歩みを速めてその場を立ち去る。
しかし、真澄が足をどれだけ速く動かそうとも、闇はきっちりと足にしがみついて真澄を放さず、真澄が通っていた小学校の前を超え、近所の公園を通り抜け、とうとう真澄の家の前まで、それは離れる事無く憑いてきてしまっていた。
「……怖いなぁ。明日先輩に相談しようかな」
口ではそう呟く真澄だが、その言葉とは裏腹に、感情を感じられない音色が闇に小さく届く。
闇を引き摺ったまま玄関の明かりの前まで来れば、ふっと足元が軽くなるような錯覚と共に闇の姿は忽然と消えて、後に残された真澄は静かに扉を開いて中へ入る。
「ただいまー」
「まーくん、おかえり」
玄関から靴を脱ぎながら声をかけると、それに反応して奥から母親、詠村御代子の声が返ってくる。
リビングへの扉を開けて入れば、とても四十代とは思えない、真澄をそのまま女性にして大人になったらこうなると言う様な女性がテレビを見ながらソファに座っているのが見える。
真澄はそんな御代子の前を僅かに歩を早めて通り抜け、階段を上って自室へと向かう。
御代子も、そんな息子の様子はいつもの事だったので対して気にも留めず、夕方の番組を流したテレビをそのままに夕食の支度を始めたようで、真澄の耳には階下から聞こえる台所の水音が混じって聞こえてきていた。
北と西に窓が一つずつあり、全体的に青を基調とした壁紙と深い焦げ茶色のフローリング。
祖父の遺品をそのまま譲り受けた、やや部屋の色調とは合わない不釣り合いなフローリングと同色の大き目の本棚の中には、流行の漫画や勧められた小説などが無造作に、しかし系統別だとすぐに分かるように収納されている。
部屋の隅に置かれているベッドは決して大きいとはいえないが、弟と兼用していた二段ベッドを解体してもなお部屋の半分を埋めており、真澄が十分横になれるだけの大きさを兼ね備えていた。
それが、詠村真澄という少年の自室だった。
なんの変哲も無い、平凡な部屋。周囲が思う詠村真澄という少年を体現するかのような、一見特徴があるようでいて、全てが他人から譲り受けた、もしくは与えられた物で構成された、真澄のものであって真澄ではない部屋だった。
そんな自室の机――木製のしっかりとしたつくりではあるが、これも叔母が子供の頃に使っていたモノを譲り受けただけで、真澄が使用した形跡は一切無い――の上に、学生鞄を放り出した真澄は、制服から着替えもせずにベッドに横になる。
仰向けに見上げた天井で、丸い蛍光灯の灯りが満たした真っ白な天井が、僅かに濁っている様に見えた真澄は、緩やかな動作で目を擦って瞬きを繰り返す。
そうしている内に、不意に蛍光灯が明滅したような気がして、真澄は何気なしに、蛍光灯の寿命はもうそろそろだっただろうかなどと、至極どうでも良さそうに思考する。
「……後で母さんに言わなきゃかな」
呟いた言葉に色は無い。まるで空気に溶けるかのような言葉が完全に消えると同時に、部屋の電気がブツッと途切れた。
階下からの音もまるで聞こえず、ただ、ぶぅぅぅんという、どこかで電気が流れている事を感じさせる音だけが、部屋を満たす。
停電だろうか。そう思って起き上がろうとする真澄の胸の上が不意に重くなり、何かが乗っている様な錯覚を感じて、真澄は思わず手を胸に持っていく。
――ぐちゃり。
僅かな温もりを含んだ粘り気のある液体を纏った何かが真澄の細く白い指先に触れ、真澄が僅かに力を篭めた瞬間、鈍い弾力を持ったソレに指先が沈み込む。
「――っ!?」
生ぬるいゼラチン状の感触に沈み込む指に驚き、真澄が指先の力を緩めた瞬間、胸の上の重みが増した。
「う……ぁ……?」
物理的な息苦しさに眼を細め、胸の上に乗った何かを確認する為に、真澄は暗闇に慣れてきた眼を胸の上のそれへと向けた。
胸の上に乗ったそれは、赤黒い液体で真澄の白いシャツを汚しながら飛び出して半分以上飛び出した濁った眼球をぎょろぎょろと動かし、まるで真澄の身体をまさぐる様に這い摺る指と思しき肉塊が、真澄の首筋へと伸びる。
やがて真澄の首を見つけたそれが、滑り気を帯びて生ぬるく鉄が錆びた様な匂いを放つ液体を滴らせて纏わりつき、徐々に首に圧力をかけてゆく。
真澄が息苦しさから首を絞めて来るそれに向かって手を伸ばし、丁度手首の位置だろう場所を掴むものの、首を締め付ける力は弱まるどころか増してゆくようだった。
爪の残骸の様な腐食した欠片が真澄の白く細い首に食い込み、真澄は痛みに眼を閉じる。その際、強く瞑った目尻から雫が頬を伝った。
頬を伝う感触に真澄はどこか他人事のように、いつ振りに泣いただろう、などと状況に似合わない悠長な思考が頭をよぎる。
「……」
しっとりと、湿気を纏った呼気の様な音が真澄の耳元で囁かれ、思考を引き戻された真澄は僅かに目を開く。
真澄の顔を正面から捉えているぎょろりと飛び出した眼球と目が合い、真澄は眼を逸らす事もできないまま、再びそれが口を開くのを見た。
「――」
「な、に……っ?」
ぼそぼそと、空気の抜ける音に混ざるような微かな声に、真澄は思わずといった風に問い返す。
首に食い込んだ爪が皮膚を破り、血が滲む様な痛みに僅かに顔をしかめる真澄の耳に、再び、今度は明確に音になった声が聞こえて来る。
「――で」
「……っ、なに、を」
「何で?」
「っ!?」
明確に耳の届く低い唸る様な女性の声に、真澄は思わず眼を見開き、自身の首を絞めて来る存在をしっかりと見た。
一瞬、何故今まで見えなかったのか疑問に思ったがしかし、すぐにその答えに気がついてしまう。今まで暗闇だと思っていたそれは、血を絡ませて重くなった赤黒い髪が真澄に覆いかぶさったそれの頭部から垂れ下がり真澄の視界を塞いでいたのだ。
飛び出した眼球が真澄の目の前でぐるぐると、視神経によって僅かに支えられて回転しながらも真澄の澄み切った双眸と向かい合う。
真澄の鼻腔を満たす鉄錆びた様な濃く重い腐臭が増したかと思えば、皮膚が腐り始めた様な斑色のやせこけた女の顔、その口が再び開いて呪詛の様に真澄の耳を犯す。
「何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で」
「く……ぁ……」
まるで壊れたテープの様に繰り返す女が、真澄の体の上で重みを増した。
肺に残った空気を吐き出させるようなその行為に、真澄の喉から僅かに漏れ出した空気が逃げてゆく。
声が徐々に近くなり、耳元にじっとりと湿った吐息が掛かる。
真澄の頬を弾力がある振り子のようなモノがなぞるようにすべり、真澄にはそれが、飛び出した女の眼球である事をいやでも理解できてしまった。
「は、ぁ……かっ……」
締め付ける指と胸を押しつぶすような重みに耐えかねて、真澄の口からは声にならない嗚咽が漏れ、意識が徐々に遠のいてゆく。
「ころしてやる」
薄れてゆく意識の中で、女の声が告げる。
しかし、真澄はそれを聞いた瞬間、今までの苦しみも痛みも忘れたかのように、顔から表情が消え、首を絞める腕を掴んでいた自身の手を離す。
既に空気も入ってこない喉から音は出ない。だが、口だけが言葉をかたどって動いた。
――す き に す れ ば ?
そう、真澄の口が動き、薄らと口の端が吊り上がる。
それはまるで笑っているかのようだったが、瞳の奥にあるはずの一切の感情は見えず、ただ、そういう表情を浮かべただけという、それだけのものとして、腐り落ち、朽ちかけた女を見上げて眼を閉じた。
もう既に興味を失ったかのように、目を閉じて結末を待つ真澄に、女は叫びに鳴らない叫びとでもいう様な、言葉としての意味を成さない金切り声を上げる。
直後かけられた首への重圧に、真澄の細い首が耐え切れなくなったのか、真澄はどこか遠い所で自身の首が折れる音を聞いた。
◆
階下で御代子の呼ぶ声に、真澄は薄らと目を開けて起き上がる。
「……」
自分の首を指でなぞって痕が無い事を確認しつつ部屋を見回すが、視界に映るのは蛍光灯の白い灯りに照らされた、いつも通りの何ら変哲のない真澄の自室のみ。
真澄自身、ベッドに転がった時同様に制服姿のまま、若干寝相で乱れていた以外は特に違和感は感じられなかった。
時計に眼を向ければ時刻は午後九時を過ぎた所で、御代子の声は夕食を告げるものだと、時間を見て漸く思考が戻って来る。
「今行くよー」
階下へそう答えながら、最後にもう一度部屋を見回して電気を消し、階下へと降りる。
いつの間にか眠ってしまっていて、夢でも見ていたのだろうか。
真澄は並べられた夕食を咀嚼しながら、一瞬僅かに鉄の匂いを鼻の奥で感じた気がして首を傾げるが、隣で年の近い弟が楽しげに今日学校であった事を話すのを、表情だけは微笑ましげに聞いて居る内に、夢の事など次第に思考の隅へと追いやられていった。
「ごちそうさまでした」
食器を流し台に置き、自室へ戻ろうとする真澄を御代子が呼び止める。
「ああ。まーくん。部屋に戻るならこれ持っていきなさい」
「……塩?」
「盛り塩ってご利益があるらしいでしょ?色んな所においているんだけど、まーくんの部屋はまーくんが置くといいと思ったのよ」
「そう。じゃあ、貰っていくね」
小皿に盛られた粗塩を両手に持たされ、階段を上がりながら真澄は手に持った盛り塩を一瞥する。
「……今更渡されても。遅い……と思うんだけど」
リビングから漏れるオレンジ色の淡い灯りが遠のき、暗くなった廊下に、真澄の自室から僅かに光が差している。
やや幅の広い手すりに小皿を置いて扉を開けた時になって、真澄は違和感に気づいた。
夕食に呼ばれた際、真澄は基本的に部屋の電気を落としてから出てゆく。そして今日も、変な夢を見たからといって忘れて降りてはいないはずだ。
むしろああした夢を見たからこそ、改めて普段どおりの生活をしようと気を使うのが真澄である。今日に限っては間違いなく電気は消していた。
にもかかわらず、真澄の部屋は電気がついていた。
不規則に明滅する事も無く灯った蛍光灯は、変わらず白い光で部屋全体を照らし、塩を持って入ってきた真澄を照らす。
真澄は首を傾げながらも渡された塩を部屋の扉付近に設置して、扉の開閉で塩が倒れない事を確認してから扉の鍵を閉めて再びベッドに横になる。
電気を消して目を閉じながら、またあの夢をみるかもしれないと薄らと考えるも、真澄はただ、苦しいのは嫌だなという感想しか抱けないまま、その意識は沈んでいった。
◆
離れた御代子の部屋で鳴り響く目覚ましの音で眼が覚めた真澄は、ぼやける視界を戻すために幾度か眼を擦り、天井を見上げる。
閉め切ったカーテン越しからでも分かる日差しに、朝になった事を確認した真澄は小さく欠伸をしながら部屋を出た。
御代子が階段を下りてゆく音を聞きながら真澄もあとを追い、台所に立ったところだった御代子に挨拶を済ませてテレビをつけ、朝のニュース番組をソファに座りながら眺める。
テレビで淡々とニュースを読み上げるキャスターの言葉が入っては抜けてゆくままに、未だに覚醒しきらない頭を醒ます為にシャワーを浴びる。
シャワーを浴びてすっきりした真澄がリビングへ戻れば、既に朝食を作り、食べている御代子と弟が真澄を呼ぶ。
「パンはまだ焼いてないけど、焼こうか?」
「ううん。自分でするからいい」
「そう。卵はフライパンの中にあるからね」
パンをトースターに入れてタイマーをセットしている間に紅茶を淹れ、目玉焼きを皿へ移す。
卵に塩と胡椒を振りながら、真澄はふと、昨晩ドアに置いた盛り塩はどうなっていたかと思い出した。
しかし、パンと紅茶を持って弟の隣に座り、リビングに置かれたテレビに表示された時間を見てその余裕はなさそうだと判断して朝食を摂る。
普段よりもやや早めに食べ終わり、食器を流し台に戻して部屋に戻り手早く着替えを済ませて鞄を持ってリビングへ降りれば、弟もランドセルを抱えてソファでテレビを見ている所だった。
「あ。お兄ちゃん。行ってらっしゃいー」
「うん。行ってきます」
短く言葉を交わして家を出た真澄は、通い慣れた通学路を歩きながら、先日の夕方にも通った道を、あの黒い何かが佇んでいた電灯の下を通る。
昼間だから怖くないなどと言う思考からではない。例えその場に再び佇んでいたとしても、真澄は気にせず通っただろう。
その証拠に、真澄はただ淡々と足元に眼を向けながら歩いていた。
まるで、ただ普通に歩く事さえ気を使って歩かなければ、歩く意味さえ分からなくなってしまうとでも言う様に。
学校へついても終始上の空で、教科書や本を手に教壇に立った教師の言葉は一切耳に入らず、ただただ読みふけっている内に時間が過ぎ、放課後になる。
斜陽が窓から差し込んで来た事で初めて意識を外へ向けた真澄は出したままだった教科書などをかばんに詰め込み、そのまま図書室へと向かう。
まるで、自分の居場所はそこであるとでも言うような迷いの無い歩みで、教室のある南校舎から、特別教室などが集まった北校舎、その三階の東の端へと進み、隣にある美術室など目もくれずに図書室の中へ入る。
人が居ないのはいつも通りだが、昨日とは違い、カウンターには既に一人の人物が居た。
真澄の入室に気づいた人物は黒い縁取りの眼鏡の奥の鋭い視線を真澄に投げかけ、口元を吊り上げてニィッと嗤った。
「昨日までいた奴が消えたな。なんだ、追っ払ったのか」
年の割りに落ち着いた低いトーンで、冥賀享利が本を閉じながら言った。
真澄は享利の言葉に理解が追いつかずに首を傾げ、そのまま鞄を享利の隣、カウンターに据えてあるもう一つの椅子の上におきながら答える。
「何のことですか?」
「お前の事付回してた女がいたんだよ。遭っただろ?」
柔らかな表情を浮かべて隣に座る真澄に、享利は眉を顰める。
元々きつめの印象のある顔で凄まれた形になってしまい、普通の人ならば、冥賀享利という人物を知っている人ならば尚更、顔を背けてしまいたくなるような形相だった。
しかし、そんな享利の表情の変化にも、まるで頓着しないという風に、真澄は首を傾げて昨日享利と別れてからの事を思い出し、電灯に佇む影と、首を絞めてきた腐った女の夢を思い出した。
それと同時に、享利に相談しようかと考えていた事まで忘れていた事を思い出し、昨日あった事を話す。
普通ならば正気を疑うような話でも、享利に対してであるならば、誰しもが納得する内容である。
「くっくっく……やはりお前と“友達”で居るのは面白いな。中身を持たない虚ろなお前が霊を降ろす依り代になり易いのは知ってたが、霊を食い殺すなんて言うのは中々に狂ってる」
「あれは結局なんだったんですかね?殺したいというから、いいよって言っただけなのに。結局僕を殺せないし姿も見えないんですよね?何がしたかったんでしょう?」
陰鬱な雰囲気を漂わせて嗤う享利に、真澄は小さく微笑んで問う。
しかし、問いかけた内容に意味は無い。それは既に、真澄にとっては“終わった事”だからだ。
終わった事を考えるのは意味がない。意味を持たせるのは常に人の意思であるから。真澄にその意思が無ければ全ては無意味である。
享利もそれを分かった上で、未だに笑いながらも先ほどの不機嫌さを払拭した様子で上機嫌に答える。
「怨み辛みをそのままに道連れに憑き殺してやりたかったんだろうよ。お前はたまたま目に留まっただけだ。結局お前を殺そうとしたけど、お前みたいに元々死んでるような奴を殺せる訳が無い」
「元々死んでいる。ですか」
「中身が空っぽの水瓶から、水を取り出すことは出来るはずがない」
「そうですね」
「お前は中身の無い水瓶だ。傍目には上手く作りこんであるとは思うがな。その表情も、その仕草も、全部上っ面だけなんだって、お前自身分かってるはずだ。華美な装飾を施していても、中身が無い入れ物なんて無用の長物だろう。その癖、入ったものを喰っちまうような入れ物、俺はお断りだ」
「あはは。先輩っていつも面白い事を言いますよね。先輩だって、“入れ物”と“中身”の区別が付けられないくせに」
「うるせぇよ」
ニヤッと嗤った享利に、真澄も口元を緩ませる。
中身が無い、それを知ってなお付き合いを続けてくれる享利は、真澄にとって正しく友達だった。
享利にしても、自身の異常性を真正面から見据えた上で他と同様にどうでもいいと割り切れてしまう真澄の存在は興味対象以上に“仲良くしたい”相手として、真澄を友達足らしめていた。
お互いに、日常生活では欠落しすぎているほどにズレていて、まるで淡水を泳ぐ海水魚の様な違和感を持つ似たもの同士。
しかし決して同一ではありえない、やはりズレた二人は、図書室に差し込む夕日に照らされて、仄かに赤みを帯びた室内で談笑する。
澄んだ人形は済んだ事を割り切って笑い。
淀んだ悪霊は狂った事を喰い尽して嗤う。
どこか歪で、どこか不気味な少年達の怪奇憚。
エピソード2・『依り代の人形』




