第26話:怪異の標的(後編)
ガタガタガタガタッ!
窓ガラスを打ち叩く音が、静まり返った部屋に狂ったように響き渡る。
風の音ではない。まるで何十本もの細い指が、外側から爪を立ててガラスを掻きむしっているかのような不快な音だ。
「ヒッ……!」
佐々木は壁に背中を押しつけ、床に転がったノートから目を離せずにいた。
床に転がった白紙のページ。そこにじわりと浮かび上がった『つ ぎ は』という文字の下に、さらに黒いインクが惨たらしく滲み出していく。
『お ま え の 番』
「なんなんだよ……なんなんだよこれ!!」
佐々木は半狂乱になりながらスマートフォンを引っ張り出し、同期の川原へ電話をかけた。
コール音が三回鳴り、ガチャリと繋がる。
『……もしもし、佐々木? どうしたんだよこんな時間に』
「川原! 助けてくれ! やべえんだよ、ノートが、部屋が……!」
『は? 何言動してんだよ、落ち着けって』
「サークルのクラウドにあったあのファイルだよ! お前言ってたろ、見たら終わりだって! 本当なんだよ、変な文字が――」
まくし立てる佐々木の言葉を遮るように、電話の向こうで川原が深いため息をついた。
『……お前、何言ってんの?』
「は?」
『サークルのクラウド? そんなもの元々ないだろ。うちのサークル、共有ストレージなんて作ってないぞ』
佐々木の血の気が一気に引いた。
「なに言ってるんだよ! さっき部室で一緒に画面見たろ!? 0KBの、あの白い表紙の――」
『見てねえよ。俺、今日ずっと家でレポート書いてたし。部室行ってないぞ』
受話器から聞こえる川原の声は、軽蔑と困惑に満ちていた。
狂っているのは自分なのか。
いや、違う。自分が見たものも、聞いた音も、すべて確かにそこに存在していた。
『それ』を認識した瞬間から、過去の記憶も、周囲の現実すらも歪み始めているのだ。
「あ……あ……」
『もういいか? 明日早いんだよ、切るぞ』
プツリと通話が切れた。
画面を見ると、発着信履歴から川原の名前が消え、ただ「不明な番号」とだけ表示されていた。
その時。
――カサ。
部屋の中で、紙が擦れる音がした。
音のした方にゆっくりと視線を向ける。
本棚だった。
整然と並んでいた漫画や専門書、文庫本の背表紙が――すべて、無機質な「真っ白」に変色している。
まるで塗料を塗り潰したかのように、タイトルも絵柄も消え失せ、ただ白い紙の塊となった本がびっしりと並んでいた。
――カサカサカサカサカサカサ!!
本棚の一冊一冊が、勝手にページをめくり始めた。
パラパラと高速で捲れる音が重なり合い、部屋全体を埋め尽くす。
「嫌だ……来ないでくれ……! 誰か、誰か助けて――」
佐々木は狂乱し、部屋のドアノブを掴んで外へ逃げ出そうとした。
だが、ドアが開かない。鍵は開いているはずなのに、まるで壁と一体化したかのようにビクともしない。
ふと視線を落とすと、ドアの表面が、木目から滑らかな白い質感へと変質していた。
壁も、床も、天井も。
部屋中のあらゆる色彩と材質が剥ぎ取られ、白一色の密室へと塗り潰されていく。
逃げ場はない。
床に転がっていた「かつてノートだったもの」が、ゆっくりと宙に浮き上がった。
パタリ、と佐々木の足元に落ちる。
開かれたページには、黒い文字でびっしりと、佐々木のこれまでの人生が刻まれていた。
生まれた日。幼稚園の時の記憶。今朝食べた朝食の内容。
そして――
『午前1時47分、佐々木は自らの存在が文字へと還元される恐怖の中で、息絶える』
「あ……」
喉から掠れた声が出た瞬間、佐々木は自分の視界が急速に色を失っていくのを感じた。
指先を見る。肌の生々しい色が消え、輪郭が薄れ、ただの「白い紙」の質感へと変わっていく。
痛みはなかった。ただ、世界から自分が削ぎ落とされていく感覚だけがあった。
言葉も、記憶も、声も、呼吸も。
すべてが真っ白な紙の中に飲み込まれ、消えていく。
――数分後。
静まり返ったアパートの六畳一間には、誰もいなくなっていた。
部屋の中央にぽつんと置かれた、一冊の真っ白な本を除いて。
その表紙が開くことは、二度となかった。




