その名はネオン
ある秋の日、ベルゼア王国コルディエー領は激しい嵐に見舞われた。全てを吹き飛ばすような風、打ちつける雨、鳴り響く雷は獣の唸り声にも似て、船乗りも船を出せず、商人たちも馬車を動かすことを躊躇うほどだった。翌日になると悪天候はすっかり収まって、昨日の雨風が嘘のように晴れ渡り、住民たちはいつもどおりの平穏な日常へと戻った。
ただ一つ、異変があった。浜辺に、一人の女が倒れ伏していたのである。体はすっかり冷え切って、息もか細く、意識がない。それを見つけたのは被害状況を確認していた地元の漁師たちであり、彼女は街一番の病院に運ばれ、一命を取り留めた。
この女について、診察した医師は領主であるコルディエー公に相談した。身元のわからぬ若い女を預かっている。顔にも体にもあれこれと古傷があり、手は武器を握るものの硬さがある。この辺りでは珍しい赤毛で、髪色と同じ赤い帯を締めており、身なりからして旅人であろう。医者として生きているものを無為に死なせるわけにはいかないので助けたが、明らかにこの土地の人間ではない。治療の最中僅かに目を開けたが、疲労ゆえかすぐに眠ってしまったので、詳しい話はまだ聞けていない。果たしてこの患者の処遇をどうすべきか。
コルディエー公アルミナは、それを聞いて彼女のことは丁重に扱うようにと言った。治療費については公爵が持つ、目が覚めたら話をする、とも。二日後に意識を取り戻した女は、健康状態に問題がないことを確認されたのち、公爵の希望どおりにその屋敷へと引き渡された。正しく丁重に、その扱いは招かれた客人である。
一見するとそれは、奇妙なことであった。元々コルディエー公の館は地域の行政のために多くの人間が訪れる場所ではあり、交通の要所であるため旅行者自体も多い土地柄だが、単なる旅人が公爵に手厚くもてなされるようなことはそうそうない。警備に当たる騎士たちも万が一があってはいけないと進言したが、しかし、アルミナは確かめたいことがあると言って譲らなかった。主がやりたいことを通すうえで万が一がないための騎士たちだろうと言われれば、家臣たちはそれ以上反論の言葉がない。最も優秀な騎士であるアルミナの夫は、この日領地の巡回のために外出していたので、代わりに側近であるアルマンダインとリンが傍に控え、他の騎士たちも共に警備に当たる形で、客人を迎えることとなった。
「ようこそ、異邦の方。呼びつける形になってしまったけれど、お加減はいかがかしら。目が覚めたばかりなのでしょう、無理はさせていないかしら」
「お初にお目にかかります、コルディエー公爵閣下」
公爵の前に姿を現したのは、確かに報告に上がっているとおり、旅人らしい軽装に身を包んだ、燃える焔のような赤毛の女であった。妙齢の女の、切れ長の涼やかな灰色のつり目、細面の顔立ちはともすれば傾城傾国ともなり得るものだが、頬を引き裂く傷痕がただならぬ威圧感を放っている。生半な道のりではなかったのだろう、袖から覗く腕も筋肉質で、幾つかの傷痕も残っており、とにかく目を引くのである。
「身元の知れぬ旅人であるわたくしに、お気遣いをいただき感謝いたします。親切な皆様が助けてくださいましたので、こうして健やかそのものでございます。良き人々の暮らすこの街に来られたことは、たいへんな幸運でございました」
態度もまた堂々としたものである。礼儀正しく、それでいて貴族を前にした緊張というものがない。元よりコルディエー公は民から親しまれている存在とはいえ、旅の者には関係のないことだ。女の一人旅ゆえに肝が据わっている、というのともまた少し違う。これは元から地位あるものとの対話に慣れている、そういう態度である。
「楽にして良いのですよ。私はただ、あなたの話を聞きたいだけなのです」
「話、でございますか」
「旅人のあなた。噂には聞いていたけれど……その赤い帯、翼の刺繍は隣のロート王国で使われる紋章ではありませんか。かの国では赤は王家の色。もしかすると、あなたはただの旅人ではなく、高貴な血筋の方なのではないかしら」
アルミナの言葉に息を呑んだのは、果たして周りの騎士たちだったか、それとも目の前の女であったか。
「私の知る限りにおいては、五年ほど前、ロート王家の姫君が事故でお亡くなりになっています。けれど、もし生きていればちょうどあなたくらいの年齢になることでしょう。他に似たような年頃の姫君がいるとは聞きません」
「……やはり、死んだものとされていましたか。ああ、閣下はご慧眼であらせられる。いかにも、わたくしはロート王家の生まれ、先王ゼノンの娘、ネオンでございます」
その名を聞いた騎士たちは大きく態度には出さないものの、驚愕に目を見開いて女を見た。アルミナはただ納得した顔をした。
「ロート王国のネオン様と言えば、かつて東方のシャーム帝国が周辺を荒らしていた頃、平和のため我が国に手を貸してくださった勇士だと、お兄さま……ベルトラン陛下から聞いたことがあります。ヒポグリフで空を駆ける姿はまさに天女のようで、心強い味方であったと」
およそ八年前、ベルゼアの東の国境付近は近隣諸国との紛争で荒れていた。当時第二王子であり、国境を守護するサーピルス領主であったベルトランは、押し寄せる帝国の兵士を押し返し、停戦協定を結び、王国に安寧をもたらした。その戦いにおいて、同盟者として前線で共に戦ったのが、隣国ロート王国の王女、ネオンその人である。ベルゼアにおけるヒポグリフの生産、馴致の技術もこの同盟によって向上した。この旅人がそのネオン王女だというのなら、鍛えられた体にも理解できる。
「とはいえ、私もお兄さまが思い出話として教えてくださった以上のことはあまり知らないのだけれど。かの英雄とこうしてお会いすることができるとは思ってもみなかった」
「こちらこそ、閣下にお会いできたことを、光栄に思います。ベルトラン陛下……あの方は、王になられたのですね」
ネオンが懐かしむように目を細めるのを、アルミナは見逃さなかった。隣国であるベルゼア王国を襲った災いについて、それに伴う国王の譲位を、彼女は全く知らないのだ。ロート王国との同盟は争いが終わった今も続いており、民間でも商人たちが互いの国を行き来する。頻繁な交流がある友好国であって、互いのことについて全く情報が届かないことはまずない。しかし王女たるネオンはまるで知らないような顔をしている。
ネオンという名乗りが偽りで、詐称によって公爵から施しを受けようという詐欺師である可能性もある。しかし詐欺師だとすれば、わざわざネオン王女を騙るのであれば、もう少し身なりを整えて王女らしくするなり、ベルゼアの事情を先んじて調べ上げ、アルミナに話を合わせるなりするものだろう。知らぬことについて上辺の言葉で誤魔化そうとするかもしれない。そうでなければ素性を疑われる。だが彼女にはそのような様子はなく、慌てもしない。つまりはこのネオンは間違いなく本物であり、それでいて、しばらく政治の事情を知るには遠いところにいたことになる。
「ネオン様が亡くなられたと報せが届いたとき、お兄さまはたいそうお嘆きでしたが……実際には、あなたはこうして生きていらっしゃる。一国の姫君でありながら、一介の旅人に身をやつし、我がコルディエーの浜に流れ着くとは数奇なものです。一体、何があったのですか?」
「面白い話ではないかもしれませんが、閣下がお望みとあらば、お話しいたしましょう」
「是非聞かせていただきたいわ。何だったら、八年前の戦いについても。当時の私はまだ幼く、あまり詳しいことは聞けませんでしたから。それに、英雄の経験を直接聞けるのは、我が騎士たちにとっても糧となるでしょう」
「では、それについても。とはいえ、気恥ずかしいものです。英雄などと評していただけるのは嬉しく思いますが、いささか過分でありましょう。わたくしは人の助けなくば、何も果たせぬ者でございました」
そうして、ネオン王女は語り始める。これまでの人生、その旅路を。




