狂気
そこまで美紀が話し終わった時、土手の上から「お前は何をしてる!!」と言う女性の怒声が響いた。
2人が見上げると、そこには憤怒で鬼のような形相になった川村早希がいた。
彼女は土手の階段を駆け下りると、美紀が供えた花束を川に向かって蹴り飛ばした。
玲也は思わず飛び出して右手で花束を掴んだが、左腕で川岸に着地したときにそこの土が崩れて川岸の泥と共に川に落ちてしまった。
川に落ちた玲也の左腕を美紀がとっさに掴んで岸に引き上げようとするものの、淵が玲也を引き摺り込む力の方が強かった。
それで、玲也の顔は何度も水面下に沈んでしまうのだった。
一方、川に落ちた玲也は、水面に顔が出た瞬間に息継ぎをしながら必死でバタ足をしていたのだが、思うように足が動かずに焦っていた。
まるで、水中で何者かが足に絡みついているかのように、足が思うように動かせないのだ。
そんな中、川村早希は田島美紀の尻を蹴りつけ始めた。
「死ね!! 人殺し!! お前で最後だ!!」そう言いながら、彼女は美紀の右大臀部と右大腿を蹴り続けたので、美紀の体は少しずつ川岸の方に押しやられていった。
美紀の方は必死に「あたしはいいけど、玲也くんだけは助けてあげて!」と懇願しながら、蹴られた太ももの痛みをこらえるために歯を食いしばり、必死の形相で玲也の手首をつかんでいた。
水に濡れて滑りやすくなっている上に、山からの雪解け水でできた川の水温は低く、残暑厳しい折だというのに手がかじかんでくるほどに冷たかった。
一方、妻の蛮行に驚いて一時的に硬直していた川村早希の夫の正彦は、やおら妻を羽交い絞めにし、「かあさん止めろ! もう止めるんだ!」と必死の懇願をしたが、「うるさいこの役立たず!! 息子が死んだってのに平気な顔しやがって!! この人でなし!!」と彼女は自分を抑えつけている夫に悪態をついたのだった。
そして数瞬の後、自分が実行できないなら他人にやらせればよいことに気づいた早希は、自分の娘に命令した。
「玲子! お前がやれ! この女は和彦の仇なんだよ!! やれ!!」
母親の命令に戸惑いながらも、玲子はおずおずと美紀の尻の方に向かっていき、玲也に向かって小さい声で「ごめんね」と言ってから美紀のお尻を押し始めた。それに気付いた美紀は、玲子に向かって「あたしはいいけど、玲也君は関係ないでしょ、だから許してあげて」と懇願した。その時、自分の娘が美紀を押し始めたことに気づいた正彦は「玲子!止めなさい!!もう母さんの言うことを聞かなくていいから!」と叫んだが、早希はそれを上回るほどの狂気じみた大声で「玲子!早くやれ!」とどやすのだった。どちらの言うことを聞けばよいのかは、玲子の心の中ではわかっているはずなのに、母の言うことを聞かないと彼女がものすごく怒るという恐怖心から、どちらの命令に従うべきか迷いはじめていた。そんな時、橋の上の方で「なんだ?なんだ?」と言う複数の人の声とともに欄干から白装束の地元民たちが顔をのぞかせてきたのだった。そのうちの一人が「おい!あれ、みきでねーが!?」と言うと、彼女の父親らしき男が「ん?おおぁぁああみきぃぃぃい!しっかりしろぉぉお!今助けにいぐから!!」と言いざま走り出し、それと同時に地元民たちも川岸の方へと走り出した。




