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移動販売のパン屋さんは、元最強の魔法使いです。  作者: 平木明日香
第一章 焼きたてパンあります、ただし魔法は使ってません
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第一話



まったく、営業妨害もいいところだ。どこのどいつか知らないが、朝市のど真ん中に古代術式を放り込んで噴水から足六本頭三つの水泥犬もどきを生やすなど、少なくとも善良な市民の朝食と小規模個人事業主の売上に対してかなり明確な敵意があると言わざるを得ないし、仮に本人が「いえいえ、これは世界の均衡を守るためのやむを得ない観測行為でして」みたいな顔で書類を十枚ほど差し出してきたとしても、俺としてはまずその書類の角でそいつの額を軽く小突き、続けて噴水の修理費と濡れた広場の清掃費と何よりチーズパンが一瞬でも危険にさらされた精神的損害についてパン屋として可能な限り穏当かつ執拗に請求したいところである。


噴水犬が最終的にただの泥と水と石畳修理費に戻ったあと、俺の手のひらには青白い石片が一つ残っていた。


大きさは子供の握り拳より少し小さいくらいで、形は丸いような欠けているような、見る角度によっては海辺で拾った変な色の小石にも見えなくはない。表面には薄く濡れたような光沢があり、朝日を受けると貝殻の内側みたいに淡く光るので、事情を知らない人間が見れば「まあ綺麗」と言って窓辺に飾りかねない程度には無駄に愛嬌のある外見をしている。


もっとも中身は古代術式の命令中枢、遠隔接続用の受信核、爆縮用に圧縮された魔力、実体化を維持するための偽装殻の残滓、痕跡を誤魔化すための自己消去式、そして製作者の性格の悪さを弱火で三日三晩煮詰めて冷やし固めたような、たいへん食卓にも枕元にも子供部屋にも置きたくない詰め合わせである。


これを事情を知らない子供が拾い、「きれいな石だ!」などと無邪気にポケットへ入れてそのまま母親が洗濯桶へ放り込んだりしたら、白シャツの汚れを落とすはずの朝の家事が桶の中から世界の危機を発生させる壮大な儀式へ格上げされかねないので、ひとまず石片を手の中で軽く押さえながら外側にへばりついていた残留術式を指先でなぞった。まだ生きている自爆命令と術者の居場所をぼかすための追跡妨害が、薄皮みたいに何層も重なっている。丁寧な仕事と言えば聞こえはいいが、実際には後始末をする人間に対して嫌がらせをするためだけに手間をかけた類いの設計であり、こういうところに製作者の人間性がよく出ている。


俺は爪の先でそれを引っかけ、焼きすぎたパイ生地の端を剥がすような感覚で一枚ずつ削り落とした。


「それ、素手で持って大丈夫なんですの!?」


リリアナが、目を丸くしたまま叫んだ。


「素手で持って大丈夫な状態にしてから持ってる」


「順番が頼もしいようで、そもそも最初に素手で持とうと思うのがおかしいですわ!」


「世の中には、熱い鉄板を触ってから熱いと気づく人間と、触る前に熱いかどうかを見る人間と、熱いと分かったうえで鍋つかみを探すのが面倒だから指先だけで済ませる人間がいる」


「三番目を常識の分類に入れないでくださいまし!」


「常識は人によって違う。パンの耳を残すやつもいれば、耳から食べるやつもいる」


「いま古代術式核の話をしていますのよ!?」


「似たようなものだ。端の処理が大事という意味では」


リリアナが本気で頭を抱えた。セドリックはというと、封印布を広げた姿勢のまま俺の手元をじっと見ていた。職務上の冷静さと人間としての好奇心と、あと王立魔法協会へ報告書を提出する際に「まず何から書けば上司が気絶せず最後まで読んでくれるのか」がまったく分からなくなった者特有の絶望が、彼の顔面の上でたいへん複雑な市場を開いている。冷静さの店、好奇心の店、絶望の店が軒を連ね、しかもどの店も閉店の気配がない。俺としてはそういう感情の商店街を眺めている時間があるなら、その封印布を一刻も早くこちらへ回してほしかった。


なにしろ俺の手のひらには現在、古代術式がへばりついた石片という町内会の回覧板に載せるには少々刺激が強すぎる危険物が乗っている。手の上に厄介なものを置いたまま会話を続けると、落とさないよう指先に余計な注意力を取られるし、注意力を取られると今度は肘や肩に力が入ることで結果として明日の生地のこね具合に支障が出る。控えめに言ってこれは大問題である。魔法使いにとって手のひらは術式を扱う道具かもしれないが、パン屋にとっての手のひらは生地の声を聞き、発酵の機嫌をなだめ、焼き上がりの未来をほんの少しだけよい方向へ押し出すいわば商売道具であり生活基盤であり、ついでに俺が穏やかな人生を営むための最後の砦なのだ。


魔法使いとしての手のひらより、パン屋としての手のひらのほうがいまの俺にははるかに重要である。


ここを王立魔法協会にも王立魔法学院にもできれば町の噴水にも昼過ぎに群がる鳩にも、しっかりと理解していただきたい。


「セドリック、布」


「はい」


「もう一枚」


「二重にする必要がありますか」


「こいつは表に出ている術式より隠していた術式のほうが行儀が悪い。表の犬は吠えるだけだったが、内側の犬は噛んだあとで『噛んでません、むしろ被害者です』と証言台に立つタイプだろう」


「非常に嫌な例えですが、理解できました」


理解が早いのは美徳である。たとえ理解した内容が、できれば一生知らずに済ませたかった類いの厄介事であったとしても。


俺はセドリックから受け取った封印布を二枚重ね、その中心に石片を置いて焼きたてのクロワッサンを包む時よりはだいぶ不本意な気持ちで四隅を折り込んだ。もちろんクロワッサンは噛みつかないし、古代文字の残り香をまき散らしながら北東の空へ密告したりもしないので、比較対象としてはクロワッサン側にたいへん失礼である。とはいえ手順としては似ている。熱を逃がしすぎず形を崩さず、余計なものが外へ漏れないよう指先の圧を均等にかけて包む。丁寧な仕事というものはパンでも封印物でも結局のところ指先の誠実さに出る。


結び目を作る直前、俺は布の上で指先を小さく回した。


ほんの輪を描くだけの子供が退屈な授業中に机の端へ落書きするような動作だったが、その軌跡をなぞるように封印布の内側で古代文字の残り香がふっと薄くなった。見えない火が息を潜めるように沈み、石片の奥で眠っていた青白い魔力の筋が糸のように細く伸びているのが見える。さっき切断した遠隔接続とは別のものだ。もっと細くもっと深く、もっと性根が曲がっていて、いざとなれば「私は本線ではありません、ただの偶然そこにいた善良な魔力の通り道です」とでも言いながら自分だけ責任を回避して逃げるための予備線だった。


その青い糸は北東の空へ向かって、名残惜しそうに震えていた。


俺はそれを見つけた瞬間、心の底からため息をつきたくなった。犬に首輪を二本つけるのは、まあ飼い主が心配性なのかもしれない。逃げ癖のある犬なら、念のためという事情も分からなくはない。しかし古代術式に逃走用の予備線を二本仕込むのは、もはや用心深さではなく人格の問題である。


「……まだ残っていましたか」


セドリックの声が、ひとつ低くなった。


低くなるだけの理由はある。俺の指先で封印布の表面をなぞるたび、北東へ伸びる青い糸は細く震えつつも切られる寸前の蜘蛛の糸のように頼りなく光った。けれど問題はその頼りなさではない。むしろ逆だ。こういう細い術式ほど切る時に妙な意地を見せる。大きな魔法陣は派手に壊れるだけで済むが、細工の細かい予備線は最後の最後に持ち主の悪知恵を発揮して、切った者の指先に呪いの名刺を一枚置いていくことがある。


俺は布越しに石片を押さえ、少しだけ眉を寄せた。


「残っていたというより、わざと残されていた。追えるものなら追ってみろ、という感じだな」


「罠ですの?」


リリアナが杖を握り直した。握り直した、というより、ついさっきまで林檎カスタードを相手にたいへん誇り高い一騎打ちを繰り広げていた指先をようやく本来の職務に戻した、と言ったほうが正しいかもしれない。口元にはまだ薄く甘い餡の名残がついていて、本人はそれにまったく気づいていない。呑気なやつだな、と改めて俺は思った。こういう場面で平然と菓子パンの痕跡を残せる人間はだいたい大物か、ただの食いしん坊かその両方である。


「罠かもしれないし、挑発かもしれないし、試験かもしれない。あとは単純に、作ったやつの性格が悪い」


「最後がいちばんありそうですわね」


「同意するな。悲しくなるだろ」


俺は広場の端へ目をやった。町の人間たちはさっきよりも少し距離を取りながら、それでも好奇心だけはきっちり手放さずに遠巻きにこちらを見ていた。つい先ほどまで蜂蜜ナッツパンを買うかどうかについて王位継承問題より深刻な顔で悩んでいた少年は、母親のスカートの陰から俺と封印布を交互に見ているし、夜勤明けらしい治癒師はチーズパンを片手に職業上の義務なのか純粋な野次馬根性なのか、それとも単に眠気で判断力が溶けているのか分からない目つきで崩れた石畳と噴水跡を観察していた。


もっとも、予備線が残っているとなると話は別だ。


パンの焼き加減と逃げる術者は、見逃すとだいたい後悔する。焼きすぎたパンは最悪でも焦げるだけで済むし、焦げたところを削ってスープに沈めればまあ旅人向けの保存食ですと言い張れなくもないが、逃げた術者というものはあとになって噴水よりも面倒で、役所よりも融通が利かずに王立魔法協会の報告書よりも分厚い厄介事を連れて戻ってくることがある。過去には盗まれた魔導炉の痕跡を「まあ明日でいいか」と見逃した結果、翌朝には山一つが勝手に温泉街へ変貌していたことがあった。あれはあれで村人たちにはたいへん喜ばれたし湯治場としてはなかなか繁盛したのだが、問題はその山の正式な持ち主が岩巨人だったことで、俺は三日ほど山肌に腰かけた岩巨人から「所有権とは何か」「地形を無断で温めることの倫理的問題」「若い魔法使いはなぜすぐ山をどうにかしようとするのか」について説教を受ける羽目になった。岩巨人の説教は長いんだ。なにしろ石だから、時間感覚が大陸寄りなのだ。


「ちょっと見てくる」


俺がそう言うと、リリアナとセドリックがほとんど同時にこちらを向いた。片方はまだ口元に林檎カスタードをつけたまま、もう片方は外務監査官らしく眉間にきっちり危機管理の皺を刻みながら。


「見てくる、とは」


「追跡するという意味ですの?」


「そうとも言う」


「待ってください。単独行動は危険です」


セドリックが即座に止めた。さすが外務監査官である。危険という言葉の使いどころがたいへん正しい。問題はその危険が俺に向いているのか、相手に向いているのか、転移先の地形に向いているのか、あるいは事後処理を担当するであろう王立魔法協会の書類棚に向いているのか現時点では誰にも判断できないという点である。世の中には実際の爆発よりも、爆発後に発生する申請書類のほうが人を疲れさせる事件というものが確かに存在する。


「単独行動のほうが早い。お前たちを連れていくと、転移先で誰かが酔うことになる。リリアナはたぶん吐くだろうしな?」


「吐きませんわよ!? 王立魔法学院高等部二年、リリアナ・フォン・クラウゼル、空間移動程度で胃袋を負けさせるほど軟弱ではありませんの!」


「さっき熱い林檎カスタードに負けてただろ」


「あれは甘味との誇り高い戦いですわ!」


「胃袋は戦場ではない」


俺は販売台の上に前掛けを置いたまま念のため石窯の吸気口を一つ閉め、チーズパンの籠を少しだけ奥へずらした。火は落とさない。今の温度なら戻るまでに焼きすぎることはないし、そもそも俺の窯は石の癖がいい。熱が気まぐれに偏ったり端のパンだけ妙に意地悪く焦がしたりしない、素直で働き者の窯である。内壁に火山竜の鱗粉が少し混じっているので、熱が均一に回りやすいというだけでもちろん魔法ではない。何度でも言うが、これは素材の個性を活かした丁寧な手仕事である。世間にはそれを魔導加工だの高位熱制御だの呼びたがる者もいるが、俺に言わせれば粉をこね、火を見て焼き上がりを待つという健全な労働の範囲内だ。たまたま素材が少しばかり竜由来で窯が王都の標準規格から三百年ほど先に進んでいるだけである。


「リリアナ、客を後ろに下げたままにしろ。セドリック、封印布の中身を勝手に開けるな。町長、噴水の修理費は噴水から出てきた犬に請求してくれ。少年、蜂蜜ナッツはそこにある。俺の販売車に勝手に触ったやつは帰ってきてから黒麦パンの硬いやつで説教するからな?」


「おっちゃん、黒麦パンでどうやって説教するの?」


「噛みしめると人生を考えさせられる」


「怖い!」


「おっちゃんではない」


俺は北東へ伸びる細い気配を、指の腹で軽くつまむように感知した。魔力の気配というものは素人が想像するほど親切ではない。夜道の松明みたいに光っているわけでもなければ腐った魚のように鼻をつく匂いを放っているわけでもなく、ましてや「私は怪しい術式です」と自己紹介しながら紫色の霧になって漂っているわけでもない。そんな分かりやすいものなら、王立魔法協会の監視官たちは今ごろ全員仕事帰りに温泉へ寄る余裕くらい持てているはずである。


実際のところ、上手い術者ほど痕跡を薄くする。足音を消す盗人が上等なのと同じで、魔法使いも腕が立つやつほど自分がそこを通った証拠を残さない。しかも古い術式となるとさらに厄介だ。編み込まれていた言葉は年月で擦り減りながら意味の輪郭は丸くなり、命令の骨組みだけが半分ほど朽ちた看板みたいに残る。そうなると魔力を「見る」とか「嗅ぐ」とかいう話ではなくなる。


ではどうやって辿るのかと聞かれれば、足跡そのものではなく靴底の減り方を見る、手紙の内容ではなく筆圧と改行の癖を見る、パンの形ではなく生地をこねた手つきと発酵を待つ我慢強さを見る、という感じになる。


魔法にも、手癖がある。


火を呼ぶ時にまず熱だけを立ち上げるやつ。逆に空気と燃焼条件を律儀に組み立ててから火を生む、几帳面だが戦場では三呼吸遅れるやつ。見栄えを優先して必要もないのに術式の縁を青白く光らせるやつ。水を操る時に重さを忘れ、勢いだけで押し流そうとして途中で制御を失うやつ。風に切断力を持たせる際、音を消しすぎたせいでかえって周囲の静けさだけが不自然に浮いてしまうやつ。本人たちは隠しているつもりでも、そういう小さな偏りは粉の配合を変えた日のパンくらいには分かる人間には分かる。


そして今回の古代術式には、古代語の皮をかぶった現代式の結び目が混ざっていた。


それはもう古びた祭礼服をまとって厳かに立っているくせに、足元だけ新品の革靴で、しかも靴底に値札の札がぶら下がったまま歩いているというくらいには目立っていた。本人がどれだけ神妙な顔をしていても、こちらとしてはまず値札を見てしまう。そういうものだ。


「跳ぶ」


俺が口にしたその一言は、詠唱ではない。周囲にいた者たちへ向けた、今から少しばかり非常識な移動をするので驚いて転ぶな、という程度の合図である。もっともそう説明したところで転ぶやつは転ぶし、後で「あれは転移魔法ですか」と聞かれれば俺はできれば「高度な散歩です」と答えたいところだった。


足元の影が、一呼吸だけ薄くなる。


広場のざわめきが耳の奥から遠ざかり、焼きたてパンの香りが背後へするりと引かれ、石畳の感触と昼下がりの熱がまとめて畳まれていく。俺は北東へ伸びている気配の先へ、自分の位置を紙片の角のように折り合わせた。


視界が切り替わった。


そこにあったのは、森と、崩れかけた石の祠と、乾いた風と、そして逃げたやつの不在だった。


ラナクの町から北東へ半里ほど離れた丘の上に、古い街道の脇へ忘れられたみたいに立っている水神の祠がある。俺は旅の途中で一度だけそこを見たことがあった。雨乞いに使われていた小さな祠で周囲の井戸水の流れと地下の水脈を探るには都合がよく、つまり噴水犬を遠隔で起動するにはなかなか気の利いた場所であり、同時に町のパン屋兼元魔法使いに無断で騒動を持ち込むには非常に迷惑な場所でもあった。


周囲に人影はない。


鳥の声も止まっている。


風だけが祠の割れ目を撫でて、乾いた草をかさりと鳴らしていた。だが、地面は正直だった。草の一部は不自然に寝ており、湿った土には急いで踏み込んだ足跡が残り、石の床には直径二歩ほどの円が刻まれている。円の外側には焦げた灰が薄く散っていて、内側には水銀色の粉が星屑みたいにこびりついている。中心には割れた水晶皿が使い終わった言い訳のように虚しく置き去りにされていた。


「逃げ足が早いな。焼きたて限定品を出した時の町の子供くらい早い」


俺はひとりごちて、床にしゃがんだ。刻まれた円は古代文字の再現ではなく、古代文字っぽく見える現代術式の偽装だ。こういうのが一番腹立たしい。真面目に古代術式を復元する気もなく、かといって現代術式だけで組み上げる力も足りないから、古代語の響きと古い水脈の力を借りて外側だけそれらしく仕立てている。骨董品の皿に昨日作ったスープを入れて「古代料理です」と言い張るようなものだ。器に罪はない。スープにも罪はない。罪があるのは、たいてい売る側である。


円の縁を指先でそっと撫でると、ぴり、と細い針を水に溶かしたみたいな痺れが皮膚の奥へ返ってきた。雷属性の封印補助。そこに水を媒介として噛ませ、外側では噴水犬だか水芸の失敗作だか分からないものを派手に暴れさせて人目を集める算段だったのか、その裏で内側の核だけはきっちり爆縮準備を進めている。なるほど、そこまでは分かる。分かるのだが、分かったうえでやはり奇妙だった。


町を潰したいならもっと確実で、もっと手早くて、もっと後腐れの少ない方法がいくらでもあるだろう。少なくとも広場の噴水から水の犬を生やして吠えさせるという、目撃者全員に即日あだ名をつけられそうな手段を選ぶ必要はない。俺を殺したいならなおさらだ。こんな見た目だけ派手な獣を差し向けるより、たとえばパン生地に塩を入れ忘れさせる呪いを一週間ほど続けられたほうが肉体より先に心がしんなりするし、商売人としてはそちらのほうがよほど致命傷に近い。魔法協会を挑発したいならセドリックのような監査官がたまたま居合わせる場を選ぶ理由は分かる。俺を表へ引っ張り出したいなら、広場と客と販売車をまとめて巻き込むのは残念ながら最短経路としてはなかなか正しい。しかし目的が一つだけなら手口が雑すぎるし、目的が複数あるならやり方が欲張りすぎる。何の考えもなしに突っ込んできたにしては逃げ支度が整いすぎているし、深い考えがあるにしては攻撃の構造が軽すぎる。


「……試したのか」


そう声に出した瞬間、胸の底でさっきからごろごろ転がっていた名前のない小石みたいな嫌な予感が、ようやく正体を現した気がした。


つまり連中は、俺がどの程度の力を持っているのかを測りたかったのだ。こちらが攻撃を受けたときにまず反射的にどう防ぐのか。まともに受け止めてから術式の癖を読むのか、いったん流して発動者の位置を探るのか、それとも面倒くさがって呪文も陣も媒介もまとめて畑の雑草みたいに根元から引っこ抜くのか。古代術式を相手にする場合、外殻から薄皮を剥ぐように順番にほどいていくこともあるし、核を見つけた瞬間にそこだけ爪先で踏み潰すこともある。保存価値のある構造だけ残して古道具屋が割れ物を扱うみたいに丁寧に解体することもあれば、朝市で傷んだキャベツを見つけた八百屋の顔になって“ああこれはもう駄目ですね”と箱ごと脇へ寄せることもある。


七属性をどこまで同時に扱うかもあいつらは見ていたのだろう。火を本命にして正面から焼き切るのか、風で流れを作って相手の呼吸ごとずらすのか。水で余計な熱を殺して術式の暴走を抑えるのか、土で場を固定して逃げ道を皿の上の豆みたいに動かなくするのか。光を探査に回して隠し味の毒草まで嗅ぎ分けるのか、闇を遮断に使ってこちらの意図を布巾で覆った焼き菓子のように見えなくするのか。雷を最後の一撃として温存し、相手が勝ったつもりで口を開けた瞬間に奥歯まで痺れさせるのか。つまり俺がどの属性を主菜にしてどれを付け合わせにし、どれを皿の模様みたいな顔でこっそり仕込んでどれを「これは飾りですので食べないでください」と言いながら実は一番危ない香辛料として隠しておくのかを、あいつらは見物席に腰を下ろした料理審査員よろしく、ずいぶん熱心に覗き込んでいたわけだ。


そして、もっと性質が悪い可能性もある。


俺が魔力を開いた、ほんの一拍。まばたき一つより短く焼き上がったパンの表面から湯気がふっと逃げるくらいの、あのわずかな隙間。そこに針の先ほどの術を差し込んで俺の魔力の流れ方、癖、温度、匂い、どういう順番で世界を掴み、どういう雑さで現実を折り曲げるのかという、できれば王立魔法協会の連中にも見せたくない手癖そのものを採取した可能性さえある。


人の筆跡を真似するには、その人間が一度でいいから目の前で文字を書いてくれたほうがいい。魔法も同じだ。普段の俺は粉袋を持ち上げるときにも、石窯の温度を見るときにも、子供が落とした銅貨を拾ってやるときにも、魔力を極限まで絞っている。王立魔法協会の測定器にかければ「一般的なパン屋。やや肩こり気味」と出てもおかしくないくらいには抑えている。だから相手はわざわざ噴水犬などという営業妨害と風評被害を兼ね備えた珍妙な仕掛けを作り、客の悲鳴と水浸しの石畳と俺の大事な販売車を餌にして俺に手を出させた。


考えたやつがいるなら、まずは礼儀として名乗ってほしい。


そのうえで、焼きすぎて少し硬くなったパン耳の特に角の部分を前歯でしっかり噛ませたい。


俺は祠の奥へ、半歩だけ踏み込んで目を凝らした。苔と湿気でくすんだ壁面には村人ならせいぜい「昔の人が彫ったありがたい模様」くらいで済ませるだろう古い紋様が、ひび割れた石肌にまだ薄く残っている。水神の祠、という看板はたしかに間違ってはいない。実際村人たちはここへ雨乞いに来るし、漁に出る前に手を合わせるし、子供が熱を出せば水を汲んで額に当てたりもするのだろう。そういう信仰は信仰で生活に根を張った立派なものだと思う。


ただし、これは水神信仰よりさらに古い。


七海の潮位を読んでその揺らぎを内陸の水脈へ細く伝え、山脈の地下を走る見えない水の流れと大陸そのものを巡る魔力の呼吸とを、誰にも気づかれない程度にそっと噛み合わせるための小さな観測点だ。祠と呼ぶには実用的すぎるし、装置と呼ぶにはあまりに慎ましい。要するに神様の住まいのふりをした古代技術の耳であり目でもある。村の老人が毎朝供える一杯の清水によって何百年も機嫌よく働き続けてきたたいへん勤勉で、たいへん地味で、そしてたぶん設計者が一番褒められたかった部分ほど誰にも褒められない類いの遺構なのである。


旅の途中で似たようなものをいくつか見た記憶がある。南海沿岸の灯台下に隠されていた潮風と灯油の匂いに紛れた海流観測盤。霧の出る岬の地下に眠っていた、迷い船を岸へ戻すための古い方位針。星墜大陸ルミナリアへ渡る前に泊まった港町の古井戸には、井戸水の冷たさに偽装した魔力圧の調整弁が仕込まれていたし、北方の古橋のたもとでは、橋脚そのものが地脈の振動を逃がすための緩衝器になっていた。どれも見た目だけなら、村の暮らしに紛れ込んだなんということのない設備だ。灯台であり井戸であり、祠であり橋であり、洗濯場の横にある古びた石柱である。


しかし中身は七海と七大大陸の魔力循環をほどけないように、かといって引き攣らないように細く細く縫い留めている古代の縫い目だった。


昔の人間は何も派手な魔導炉や空中要塞や、起動するたびに空が紫色に割れて近隣三国の暦担当者が泣きながら仕事を増やすような大規模兵器ばかり作っていたわけではない。むしろ本当に大事なものほど、井戸の底や灯台の基礎や祠の奥や橋の下みたいな誰かの生活にぴたりとくっついた場所へ隠した。隠した、というより、馴染ませたのだろう。便利すぎる力を便利すぎるまま野放しにせず、生活の形に縫い込んで毎日の手入れや祈りや掃除の延長で維持できるようにする。


そういう発想は嫌いではない。


力を力として誇示するより、竈の火や井戸水や街道の石畳みたいに誰かが当たり前に使える形へ落とし込む。考えてみれば今の俺の販売車よりも、こちらのほうがよほど健全で、堅実で、社会に対して申し訳の立つ思想かもしれない。もっとも、販売車の車軸にかつて空中要塞の姿勢制御に使われていた星鉄を流用している男が古代人の倫理観について偉そうに語るのもどうかとは思うが。


床に落ちていた水銀色の粉を、俺は指先でほんの少しだけすくい取った。湿った石床の上で粉は光を吸うように鈍くきらめき、指の腹に乗せると砂とも灰とも違う、どこか生き物の鱗粉に似た重さを残した。


もちろん、舌で舐めるような真似はしない。


昔一度だけ、未知の触媒を味で判別しようとした宮廷魔導士がいた。腕は悪くなかったし知識もあったし、何より本人は「薬草師が匂いで薬を見分けるなら、魔導士が味で触媒を見分けても理屈の上では同じだろう」となかなか筋の通ったことを言っていた。筋は通っていたが、世の中には筋が通っているからといって口に入れていいものばかりではない。


結果、その男は二日ほど蛙の鳴き声でしか会話できなくなった。


しかも厄介なことに本人の意識ははっきりしていたので、周囲が「大丈夫か」と訊ねるたびに彼はたいへん真面目な顔で「ゲコ」と答え、研究助手が「味はどうでしたか」と尋ねたときだけやけに誇らしげに胸を張って「ゲコゲコ」と鳴いた。後日、解呪されてから本人に確認したところ、味は甘かったらしい。だから何だという話である。魔法史の珍事件としては愉快だが、魔法使いの研究倫理としては決して参考にしてはいけない部類の話だった。


粉は、どう見ても星砂に似ていた。


星墜大陸の沿岸部、潮が引いたあとの黒い岩場の隙間にだけ残る、夜になるとほんの少しだけ発光する細かな鉱物である。見た目は小麦粉に混じった銀粉みたいなものだが、うっかり素手で集めると三日ほど指先が月明かりのように光り続けるので、恋文を書く若者と密漁者と、夜中に厨房へ忍び込んで蜂蜜壺を開ける子供にはたいへん不向きな代物だ。ルミナリアの交易品として王都にも少量は入ってくるが、純度の高いものとなると話は別で、貴族の庭園を飾る趣味の悪い噴水などではなく灯台魔石の光量調整や海上結界の波長補正に使われる、つまりは港湾都市が嵐の夜に沈まないためのかなり真面目な素材である。


セドリックが言っていた灯台魔石の乱れ。結界網に生じた空白。ルミナリア方面に立ち上ったという妙にまっすぐで、妙に静かで、妙に誰にも見てほしくなさそうな光柱。


その三つが今、同じ皿の上に乗り始めている。


俺はパン屋だ。皿の上に何を乗せるかには職業上それなりにうるさい。焼きたての白パンには厚切りの燻製肉がいいし、黒麦パンには酸味のある山羊乳チーズが合うし、甘いクリームパンの隣に塩漬けニシンを置く人間とはできれば来世まで食卓を分けたくない。そういう基準で言わせてもらうなら、灯台魔石と結界網とルミナリア方面の光柱をひと皿に盛りつけるのは料理人としても魔法使いとしてもそしてたぶん人間としても、かなり味覚が終わっている。


今の皿は控えめに言っても食欲の湧かない盛り合わせだった。


「何を起こす気だ」


声は祠の薄暗い石壁にぶつかって、少しだけ鈍く返ってきただけだった。


答える者はいない。返事の代わりに外で風がひと筋吹き抜け、濡れた木の葉がこすれ合い、遠くの空で名前も知らない細い鳥が一声だけ鳴いた。こういう時に限って世界は妙に詩的な顔をする。できればもっと実用的に犯人の行き先を地面に矢印で描くとか木の枝が親切に南西を指すとかそういう方向で協力してほしいのだが、残念ながら自然界というものは昔から肝心なところで気が利かない。


逃げた術者の気配は、ここで途切れていた。


いや、正確に言えば、途切れているように見せかけている。転移で逃げた痕跡はある。しかも下手ではない。足跡を消すために泥の上を歩いたあとわざわざ自分の足跡だけを綺麗な花びらで飾っていくような妙に几帳面で腹の立つ仕事ぶりだった。攻撃の術式は雑というか力任せで、周囲への配慮などパン生地に混ぜ忘れた塩くらい存在感がなかったくせに逃走の段取りだけはやけに丁寧だ。


攻撃は雑で、逃走は丁寧。


こういうやつはたいてい自分の命だけは大事にする。仲間の犠牲や街の被害や祠の修繕費にはまるで興味を示さないくせに、自分の退路だけは三重に確保しながら万が一に備えて偽装痕まで残していく。非常に人間らしく非常にわかりやすく、そして非常に面倒くさい。


俺は円の中心に膝をつき、石床に刻まれた転移陣の焦げ跡へ指先を置いた。


熱はもうほとんど残っていない。だが完全には消えていない。焼き上げたばかりのパンを棚に並べて客に二つ三つ売ったあと最後の一個だけがまだ内側にぬくもりを抱えている、あの程度の熱だ。普通の魔法使いなら多分見逃すだろうし衛兵ならほとんど気づかない。王立魔法協会の若手調査官なら眉間にしわを寄せながら「これは高度な術式ですね」と言いつつも報告書を三枚ぐらい増やすだろうが、俺なら拾える。別に自慢ではない。石窯の火加減と転移陣の残り香はどちらも目で見るものではなく、指先と鼻先と、あと失敗した回数で覚えるものだからだ。


転移先は、三つに偽装されていた。


北の森。東の川沿い。南の廃牧場。


いかにも逃げ込めそうな場所をいかにも急いで選びましたという顔で並べているが、残念ながらどれも外れだろう。痕跡の分け方がきれいすぎる。きれいすぎる嘘は、汚い本当よりよほど目立つ。パン屋で言えば焦げた部分だけを完璧に削り取ったせいで、かえって「このパン、一度焦がしましたね」と客に悟られるようなものだ。誤魔化すなら少しくらい不格好なほうがいい。人間も術式も、整いすぎているものはだいたい信用ならないからな。


本当の行き先は、分けた三方向の中心からほんの少し外れた場所に置く。


これは術式逃走の基本で、魔法学院の高等部なら三年で習う。講師が黒板に三角形を描いて眠そうな生徒の額にチョークを投げながら、「偽装とは相手に考えさせる技術であって、答えを隠す技術ではない」と語るあの退屈で、しかし実戦ではなかなか役に立つ授業だ。


リリアナはまだ二年だったはずだ。


だから今ごろ広場のどこかで、林檎カスタードの紙袋を両手で握りしめたまま、「何ですのそれ、ずるいですわ! 三年で習う知識を二年生に要求するなんて、教育課程への重大な挑戦ですわ!」などと、妙に正論めいた抗議をしているかもしれない。


想像してみると、少し楽しい。


少なくとも、星砂の粉を指先でつまみながら世界規模の厄介事が湿った地下水路みたいな顔をしてこちらへ流れ込んでくる気配を嗅いでいるよりはよほど心が温まるし、焼きたての甘いパンを買った子供が一口目で目を丸くするところを眺めている方が、精神衛生上も胃のあたりの平和にも明らかに良い。


もちろん、追うこと自体はできる。もう一度意識を深く沈めて、逃走経路の底にこびりついたほんの小さな引っかかり――針の先ほどの魔力のささくれや濡れた床に残った靴跡よりも頼りない歪みを見つけ出し、そこを足場にしてさらに先へ跳ぶことはまあ、できなくはない。相手がどれだけ偽装を重ねて経路をねじり、魔力の匂いを水で薄めた蜂蜜みたいにごまかしたところで縫い目というものは完全には消えない。そもそも完全に消せるほどの腕があるなら、あの噴水犬の外殻を通りすがりの不器用な石工が昼飯前に急いで仕上げましたみたいな雑な出来にはしない。俺が本気で追えば、少なくとも相手が触れた次の中継点までは辿れるだろうし、場合によってはその先で犯人が慌てて隠した尻尾の先を踏むくらいのことはできるだろう。


問題は、俺が本気で追うと販売車の前に置き去りにしてきたチーズパンが冷めることと、ラナクの広場にいる人間たちが、「移動販売のパン屋が祠に入ったきり戻ってこない」から始まって、「実は王立魔法協会の封印指定者だったらしい」「いや古代魔導炉の生き残りだ」「広場の噴水犬と一騎打ちをして時空の裂け目へ消えた」あたりまで、噂という名の焦げやすい生地を三十倍くらいに膨らませることだった。


人はパンなら待てる。焼きたてならなおさら少しは待てる。香ばしい匂いがしてあと数分で窯から出ますと言われればたいていの人間は文句を言いながらもその場に立っていられる。けれど不安というやつは待たせるとよくない。あれは発酵種と似ているようでいて放っておくと膨らむだけ膨らみ、酸っぱくなり、しまいには誰の手にも負えない妙な生き物みたいになってしまうんだ。発酵しすぎた不安は味が悪いんだ。しかも、腹にも妙に残るしな。


「今日はここまでだな」


俺は誰に聞かせるでもなくそう呟いて、祠の床に薄く散っていた水銀色の粉を封筒代わりにも使える古い封印紙の上へ息を吹きかけないよう慎重にかき集めた。ついでに割れた水晶皿の欠片を一つ拾い上げる。縁に残った焦げ目、中心に走った細い罅、床に刻まれた円の線の流れ、そして力が集まっていた要点だけを順番に眺めてから、俺はそれらを頭の奥の普段はパンの焼き時間と常連の好みとうっかり衛兵に売ると歯を折りそうになる黒麦パンの硬さ加減をしまっているあたりへ押し込んだ。


記憶というものはこういう時、魔法より便利な場合がある。基本的に燃えないし濡れても滲まない。落として犬にくわえられる心配もなければ荷車の振動で瓶の中身が割れるようなこともない。何より王立魔法協会あたりに提出を求められた時、「すみません、忘れました」と言えるのがいい。もちろん本当に忘れたわけじゃないぞ?忘れたふりというのは元魔法使いが面倒な事情聴取を避ける時にも、パン屋が自分の仕込み配合を守る時にも使えるたいへん由緒正しく、費用対効果に優れたしかも使用後に証拠が残りにくい防御術なのである。


帰る前に、俺は祠の脇を流れる細い水路へ手をかざした。


水路といっても村の子供がザリガニを探すような愛嬌のあるものではない。さっきも言ったようにここは古い観測点のひとつで、石の隙間を流れているのは雨水と地下水とついでに七海と大陸をめぐる魔力循環の端っこみたいなものである。そういうものを祠の脇にさらっと流しておくなという意見には俺も全面的に賛成だが、昔の人間というのはだいたい大胆で、偉い魔導師ほど「大丈夫、千年はもつ」と言い残して八百年目あたりで問題を起こすのが通例だ。


俺はそこに残っていた歪みを、ひとまず指先でつまんで皺を伸ばすみたいに少しだけ元の形へ戻してやった。


少しだけ、である。


完全に直すとなるとそれなりの時間がいるし、それ相応の道具もいる。そこまでの手間をかけるともなれば何はともあれまずは熱い茶が欲しい。それとできれば余計な質問をせずに俺が必要だと言う前に必要なものを差し出してくれる助手が欲しい。欲を言えばその助手は水銀色にきらめく粉末を見ても「これは市場に出せますか」と商人みたいな目で聞かず、俺が難しい顔をしている時には難しい顔をしているなりの理由がこの世には存在するのだと察して黙っていてくれる人物であることが望ましい。


まあ、そんな都合のいい助手が本当にいるなら、たぶん俺のところへ来る前に、王国か魔法協会か、あるいはもっと悪質な菓子職人組合あたりが給金と甘い焼き菓子で囲い込んでいるだろうがな。


だから今の俺にできる処置といえば、せいぜい破れた袋の穴に指を押し当て、中身がそれ以上床へだらしなくこぼれ落ちていかないようその場しのぎで押さえておく程度のものだった。


小麦粉の袋なら、早いところ針と糸を持ってきて縫い合わせなければ床一面が雪原みたいに白くなり、あとで箒を持った誰かに「誰が掃除すると思ってるんですか」と極めて正当な怒りを向けられることになる。発酵前の生地なら温度をひとつ間違えただけで膨らみ方がへそを曲げ、こちらが期待していたふんわり丸い未来とはまったく別の方向へ、妙に気難しく、妙に頑固に、妙に腹立たしい形で盛り上がるだろう。石窯なら石窯で火加減を放っておけば底だけが黒く焦げ、表面だけは何事もなかったような澄ました顔をしている、つまり客の前に出した瞬間に店の信用と俺の良心が同時に焼け落ちる類いの代物が完成する。


そして七海と大陸を巡る魔力循環の場合、白くなるのは床ではない。へそを曲げるのは生地ではない。焦げるのはパンの底でもない。


世界そのものだ。


それも雷鳴が轟くとか、空が真っ二つに割れるとか、古代神が寝起きの不機嫌な顔で雲間からこちらを睨むとか、そういう分かりやすく派手で親切な終わり方ではない。誰にも気づかれないくらい静かに、けれど確実に、ほんの少しずつ傾いていく。水差しの縁から一滴ずつ水が漏れるように。焼き上がるはずだったパンの中心だけが、誰にも見えないところで生焼けのまま残るように。取り返しがつかないと気づいたころにはもう誰も「昨日のうちに直しておけばよかったですね」と笑って済ませられなくなっている、そういう種類の面倒である。


とはいえ面倒の規模が小さな店先から地図帳の端まで広がったところで、やることの本質はたいして変わらない。


穴を見つけて、塞ぐ。


必要なら、穴を開けた相手の襟首をつかむ。


そしてできればそのあとで何食わぬ顔をして店に戻り、焼きたての塩バターロールを焦がさず客に渡す。


人生において重要なのは、だいたいそういう順番を間違えないことだ。


相手が人間なら椅子に座らせて説教すれば済むこともある。魔獣なら鼻先を軽く叩いてやれば、世の中には噛んでいいものと悪いものがあるのだと理解することもある。古代魔導炉なら主制御盤の横っ面を一発殴ると、何百年も沈黙していたくせに急に素直な音を立てて動き出すこともある。どれも正式な手順書には載っていないし王立魔法協会の講義で実演したら教授陣が三人くらい泡を吹くだろうが、世の中には礼儀正しい確認作業よりも先に止めなければならない漏れというものがあり、そういう漏れはこちらが申請書を用意している間にも実に遠慮なく世界の底へ染み込んでいくのである。


そして最後に、きっちり請求する。


材料費と手間賃と、予定外の労働によって失われた休憩時間と、冷めたチーズパンに対する精神的損害分まで含めて、である。


世界を救う仕事は、昔からなぜか美談にされがちだ。人はすぐに勇気だとか使命だとか尊い犠牲だとか、聞こえのいい言葉を焼き色だけ立派なパンみたいに並べたがる。しかし美談だけでは小麦粉は買えないし、塩バターは仕入れられないし石窯の薪代も払えないし、何より俺の昼飯になるはずだったチーズパンは今やすっかり熱を失い、紙袋の底で石みたいな顔をしてこちらの人生設計に対する無言の抗議を続けているのである。


俺はラナクの広場へ戻った。


戻った場所は販売車の横であり、さっき前掛けを引っかけておいた荷台の角から半歩もずれていない。瞬間転移というものは派手に光ったり、雷鳴を伴ったり、意味もなく花びらを舞わせたりする必要はない。そういうものは舞台演出としては立派かもしれないが、実用となると話は別だ。光れば目立つし、雷鳴は客を驚かせるし、花びらなど舞わせた日には焼き上がったパンの上に乗って衛生面でたいへんよろしくない。


だから俺は、誰にも気づかれないように戻った。


世界の歪みをひとまず押さえ、七海と大陸を巡る魔力循環の破れを仮縫いし、場合によっては国が三つくらい会議を開くべき案件を昼飯前の厄介ごととして片づけてきた俺がラナクの広場で最初にしたことは、世界の危機について深刻な顔で考え込むことではなかった。


窯の中を確認することだった。


なにしろ、パンは待ってくれない。


世界は多少傾いてもしばらくは傾いたなりに持ちこたえることがあるが、焼き上がりの三十秒を逃したパンは取り返しのつかない顔をするのである。


「よし、焦げてない」


「第一声がそれですの!?」


リリアナが、広場の真ん中で待ち構えていたように叫んだ。杖はまだ構えている。風の誘導も維持していたらしく、町の人間たちは安全な距離にまとまっていた。やればできるじゃないか。口元のクリームも消えているみたいだが、そこは少し寂しい。


「チーズパンが焦げることほど悲しいことはないからな」


「世界の異変よりチーズパンの焦げを先に確認する人、初めて見ましたわ!」


「世界の異変は焦げても食えない。チーズパンは焦げる前なら売れる」


「判断基準が商売人すぎますの!」


「パン屋だからな」


俺は粉と煤とついでに広場中の視線をまとめて背負ったまま前掛けの紐を結び直し、販売台の上に並んだパンたちを兵士の閲兵式よりはるかに真剣な目つきでひとつずつ点検した。蜂蜜ナッツの渦巻きパンは表面の艶も巻き目の美しさも奇跡的に無事。塩パンは少し斜めを向いていたが、塩パンというものは斜めを向いていてもだいたい人生に支障がないので無事判定。黒麦パンに至ってはもともと台風と税務調査と近所の噂話くらいではびくともしない頼れるやつなので当然無事。林檎カスタードは残り二つ、干し肉入りの丸パンはまだ香ばしい匂いを立てていて、噴水から飛び出した石造りの犬が広場を三周半ほど暴走した直後の商品としてはなかなか上出来の生存率である。


広場には濡れた泥の足跡、割れた石畳やひっくり返った果物籠と、誰もが「今のは何だったのか」と聞きたいのに聞いた瞬間もっと面倒な説明が返ってくると本能で察している沈黙が残っていたが、沈黙というものは案外もろい。とくに焼きたてのバターと蜂蜜と小麦の匂いが鼻先をくすぐり、腹が「さっきの怪異より昼飯のほうが重大ではないか」と冷静な議題を提出し始めると、人間の恐怖心など焼き色のついたパン皮ほどにも長持ちしない。


俺は籠を持ち上げ、何事もなかった顔で実際には何事もあったが商売上は何事もなかったことにしたい顔でいつもの声を張った。


「はい、営業再開。噴水犬騒動で落とした銅貨はあとで拾う。怪我をしたやつは治癒師のところへ行け。パンを買いたいやつは列に戻れ。危なかった記念に値引きはしない。むしろ石畳修理費がかかるので買ってくれ」


町の人々は一拍ほど顔を見合わせた。あれは集団で同じ悪夢を見たあとに誰かひとりでも現実に戻る合図を出してくれないかと待っている顔である。そしてまず青果屋の親父が肩を震わせ、次に洗濯籠を抱えた女が口元を押さえながら最後には誰かが小さく吹き出した。その笑いは広場の端から端へ、こぼれた小麦粉みたいに薄く広がっていった。


最初に戻ってきたのは、やはりというべきか、膝小僧に絆創膏を三枚貼った少年だった。さっき逃げる時に握りしめていた銅貨は、驚くべきことにちゃんと手の中に残っていたらしい。偉いぞ。怪物から逃げる時に財布を守れる人間は、将来かなり有望である。商人になれるかもしれないし、徴税官になったら嫌われるかもしれない。ただしパン代の代わりに錆びた釘を差し出してきては「これ、かっこいいから同じくらいの価値あるよ」と主張した点については、早急な教育的介入が必要だがな。


「おっちゃん、蜂蜜ナッツ、まだある?」


「あるぞ」


「さっきの犬はもう出ない?」


「出たら今度は名前を変える」


「名前の問題なの!?」


「同じ名前だと紛らわしいからな」


少年は俺から蜂蜜ナッツの入った小袋を両手で受け取ると、それがまるで王都の宝物庫から持ち出した禁断の秘宝であるかのように胸に抱え、ついさっきまで石畳の陰に身を低くしていた母親のもとへ靴底をからから鳴らしながら走っていった。母親はまず息子の頭を軽く叩き、それから袋を落としていないか確かめながら最後にこちらへ向かって申し訳なさと安堵を半分ずつ混ぜたような顔で頭を下げた。


その瞬間、広場に張りつめていた空気が、ほんの少しだけ元の形を思い出した。


人間というものは、恐怖だけを抱えて一日を最後まで歩き切れるほど頑丈にはできていない。もちろん、さっきまで噴水から水の犬が飛び出して人々を追い回していたとか、石畳が割れて泥水が噴き上がったとか、青外套の騎士が封印布を振り回していたとか、そういう出来事はできれば記憶の引き出しの奥の奥、冬物の外套よりさらに奥にしまっておきたい類いのものである。けれど、それでも腹は減る。甘いものを見れば子供は目を輝かせるし、焼きたての匂いがすれば旅人は足を止めるし、衛兵は「勤務中だから」と言いながら結局固めの黒麦パンを買っていく。


パンを買って小銭を渡し、袋を受け取る。熱いから気をつけろと言われ、礼を言う。隣の誰かが匂いにつられて列に並び直し、そのさらに後ろの誰かが「じゃあ俺も」とつぶやく。


そういう取るに足らない、けれど欠けると世界の歯車が妙な音を立て始める小さな手順こそが町というものを少しずつ普通に戻していくのだと、俺はわりと本気で思っている。


魔法で広場を修復することはできる。割れた石畳を継ぎ目もわからないほど綺麗に繋ぎ、倒れた看板を元の角度に立て直しつつついでにその場にいた全員の記憶を少しばかり曖昧にして、「今日はたいへん平和な市の日でしたね」と誰もが不自然なくらい穏やかな顔で帰路につくようにすることも、できるかできないかで言えば、まあ、できる。


だが、そういう力では戻せないものがある。


焼きたてのパンを受け取ったときに客の肩からふっと力が抜ける感じとか、いつもの店がいつもの場所で多少車輪が焦げていようが、店主の前掛けに泥が跳ねていようが、平然といつものように営業しているという地味で退屈であまりにも当たり前で、だからこそやたらと強い安心感とかそういうものだ。


少なくとも俺は、七重結界を裏返しに畳んで王都の空に浮かんだ裂け目を塞ぐより、今のところはそちらのほうを大事にしている。念のため言っておくが、七重結界のほうが簡単だと言っているわけではない。あれはあれで面倒だった。特に三枚目と四枚目の間に挟まっていた古代語の注釈がひどかった。しかし焼きたてを焼きたてのまま渡すという仕事には別種の難しさがある。主に時間と温度と客の気分が相手だからである。 


「アルト殿」


俺が次の客に黒麦パンを渡そうとしたところで、セドリックが封印布を両腕に抱えたまま近づいてきた。


「追跡は」


「丘の祠まで。術者はいなかった。逃げたあとだ」


「痕跡はありましたか」


「ありすぎて逆に信用できない。噴水犬の起動地点、古い水脈観測点、星砂らしい触媒、偽装された転移痕が三つ、それから祠の裏にわざとらしく残された焦げ跡が二つ。本命はたぶん別だな。攻撃の組み方は浅いし術式の継ぎ目も甘い。だが逃げ方は丁寧だった。足跡を消す方向だけ妙に手慣れている感じだな。つまり、戦うことより逃げることに自信がある相手だ」


「目的は何だと考えますか」


「町を壊すだけなら手段が半端だ。お前を狙うだけなら場所が派手すぎる。俺を狙うなら殺意が足りない。俺に魔法を使わせるのが目的なら、まあまあ成功。俺の魔力の癖を拾うのが目的なら、少しだけ嫌な相手だ」


横で蜂蜜ナッツの瓶を覗き込んでいたリリアナが、今にも瓶の中へ落ちそうな勢いでこちらへ食いついた。


「魔力の癖を拾うって、まさかあなたの術式構成を模倣するつもりですの!?」


「模倣できるならな」


「できる相手がいるんですの?」


「いないと嬉しい」


「否定が弱いですわ!」


「世の中は広い。パンを釘で買おうとする子供もいる」


「それと同列に語る話ではありませんわよ!?」


俺はちょうど新しくやって来た旅人に干し肉入りパンを渡し、受け取った銅貨を指先で一枚ずつ数えた。釣り銭を間違えるわけにはいかない。たとえこの宿場町の広場の片隅で俺たちが七海の潮位異常だの灯台魔石の乱れだのうっかり口に出すと王都の学者が三日徹夜して黒板を埋め始めるような話題に片足を突っ込んでいようが、銅貨一枚は銅貨一枚であり、そこを「まあ大局的に見れば誤差です」などと言って雑にする魔法使いはたいてい大きな術式でも最後の最後に小数点を一つ間違えるんだ。


小数点を間違えた魔法は怖いぞ?


昔、王立魔法学院の北寮で、重力を一割だけ軽くして階段の上り下りを楽にするという、発想だけなら怠惰で平和で学生らしい実験術式が実施されたことがあるのだが、担当した三年生が計算式の端にある小数点を眠気と自信と若さの合わせ技で見事に見落とした結果、重力が一割軽くなるどころか十割ほど職務放棄し、ベッドも机も椅子も本棚も食べかけの豆スープも夜更かししていた学生も止めに入った教授も、なぜか巻き込まれた洗濯籠もまとめて天井に張り付いた。


翌朝寮母が梯子と雑巾と教育的制裁に適した厚さの家計簿を持って現れたときの顔は、俺がこれまで見てきたどの魔王よりも迫力があったし、あのとき天井から逆さまに謝罪していた教授の声には世界平和よりも朝食の時間を守ることのほうが大切だと人類に教える力があった。


「セドリック」


「はい」


「魔法協会外務監査官ともあろうものが、こんな宿場町の広場で本当は何をしている」


俺がそう言うと、セドリックの手が塩パンを口元まで持ち上げたところでぴたりと止まった。


焼きたての塩パンをかじる寸前というのは本来なら人間がもっとも幸福に近づく瞬間の一つであり、その状態で黙り込むとどれほど整った制服を着てどれほど真面目な顔をしていても、残念ながらかなり間抜けに見えてしまう。その事実をこの若く有能でやや肩の力が入りすぎている監査官に教えてやるべきかどうか迷ったが、結局はやめにした。


「先ほど説明した通り、七海の潮位異常と、各沿岸部に設置された灯台魔石の魔力干渉について調査を」


「それは王都から出張してくる理由にはなる。長靴の泥を落とす暇もなく、中央大陸東端の宿場町ラナクまで来る理由としても、まあ弱くはない。だがわざわざ俺の販売車の前に立ち、パンの匂いに負けたふりをしながら車体の軸材から石窯の内部構造まで妙に細かく目を走らせていた理由としては、少し足りないな」


セドリックは答えなかった。


「お前は偶然ここに来た顔をしていたが、偶然にしては質問項目が準備されすぎていた。販売車の空間拡張、防湿、防虫、防盗、防火、重量軽減、自走補助、索敵、迷彩、認識阻害、魔獣避け、客寄せ。パン屋に対する疑いとしては、だいぶ品揃えが豊富なんだよ」


「職務上、想定される魔法的違反を確認したまでです」


「客寄せを疑った時点で私怨が混じってる」


「匂いが強力でしたので」


「そこは認める」


俺の隣で、リリアナがなんだか楽しそうに目を輝かせていた。


人が問い詰められる現場を見るのが好きな性格なのかもしれない。学院の成績は良さそうだが、先生にはきっと嫌われるタイプだ。授業中に正論で教授の逃げ道を塞いで放課後に「君はもう少し協調性を覚えなさい」と言われる種類の生徒である。昔の俺と同じだ。…うん、嫌な共通点を見つけてしまったな。


「正直に言え。お前は俺を探していた。古代術式の異変を調べていたら、たまたま俺の足取りと重なったのか、それとも俺が動くのを待っていたのか、あるいは協会の誰かが、俺という古いパン屑を七海の怪物に撒いて様子を見るつもりだったのか、そのあたりを聞いている」


「餌にしたつもりはありません」


「つもりは、という言い方は便利だな。パンに砂糖を入れすぎたつもりはありません、と作り手が言ったところで、食べた客の舌には甘い。しかも甘すぎるパンほどあとから喉が渇くんだ」


セドリックは口元に持っていた塩パンを名残惜しそうに、しかし礼儀正しく紙袋の中へ戻しながら背筋を伸ばした。


こういうところは、まあ信用できる。面倒な話をする前にパンを置く人間は、少なくとも会話と食べ物を同じ皿に雑に盛らない程度の分別がある。パンを片手に嘘をつく人間はいくらでもいるが、焼きたてを粗末にしない人間は話を最後まで聞く価値がある。俺の経験則では世界を滅ぼしかけた連中の八割は食事の扱いが雑だった。残り二割は料理が上手かったので、余計にたちが悪かった。


「あなたの所在について、協会は数年前から断続的に情報を得ていました。監視というより、生存確認に近いものです」


「赤線を引かれた名簿に生存確認と書くのはやめろ。だいたい生きているか確認したいだけなら、もっと穏やかな紙を使え。赤線は人を穏やかにしないぞ?」


「名簿の色については部署が異なりますので」


「便利だな、部署」


「今回七海周辺の異常が確認され始めた時期と、あなたが中央大陸東端へ移動してきた時期が重なりました。偶然の可能性はあります。あなたがパンを売るために街道を選んでいることも、協会としては承知しています。ですが古代術式の異常と、あなたの過去の調査記録には接点が多い」


セドリックはそこで一度言葉を切り、広場のざわめきや焼きたてのパンから立ちのぼる香ばしい湯気や遠くで荷馬車の車輪が石畳を叩く音を挟んでから、淡々と続けた。


「星墜大陸ルミナリア、灯台魔石、七層迷宮の地下水路、古代魔導炉の再起動記録。協会としては、接触せざるを得ませんでした」


「接触の仕方にパン屋の営業妨害が混じったな」


「それは本意ではありません」


「本意ではない営業妨害ほど、後片づけをパン屋に押し付ける。落ちた看板を直すのも、怯えた客に試食を配るのも、床に転がったロールパンを拾って泣く泣く廃棄するのも、だいたい現場の仕事だ」


「修理費については、町と協会で協議します」


「協議という言葉は、支払いが遅れる時に使われる」


セドリックは反論しなかった。


協会の人間としては珍しく、そこそこ自覚があるらしい。王立魔法協会という組織は三人集まれば議事録を作り、五人集まれば委員会を作り、七人集まると責任の所在を霧より薄くする特技を発揮する場所なので、協議します、という言葉を口にした直後に少しだけ目を伏せる人間はまだ完全には染まりきっていない。


俺は棚から黒麦パンを一つ取り、硬い外皮にナイフを入れながら考えた。


セドリックの言葉に大きな嘘はない。少なくとも、彼自身は俺を餌にする計画を立てた人間の顔をしていない。外務監査官という肩書きは現場へ出るには便利で、責任を押しつけられるにはもっと便利な肩書きだ。たぶん彼もまた王都のどこか風通しの悪い会議室で偉そうな椅子に座った誰かから「君なら彼とも穏便に話せるだろう」と言われ、穏便という言葉の意味を辞書で調べたあとにその辞書の角で上司の机を叩きたくなりながらここまで来たのかもしれない。


「それで、俺に何をさせたい」


「正式には、七海および七大大陸を巡る移動中に、古代術式異常の痕跡を確認し、可能な範囲で協会へ報告していただきたい、という依頼になります」


「非正式には」


「……可能であれば、原因の特定と、被害拡大の阻止を」


「もっと非正式には」


セドリックが黙った。


リリアナが小さく息を呑み、広場にいた町の人間たちはパンを選んでいるふりをしながら耳だけをこちらへ伸ばしている。聞き耳を立てるなと言いたいところだが、宿場町の広場で王立魔法協会の監査官と元魔法使いが古代術式の異常について話している時点でこちらにも責任はある。だいたい聞き耳を立てながらでもパンを買ってくれる客は、商売上たいへんありがたいというのもある。


セドリックはしばらく沈黙したあと、塩パンの入った紙袋を両手で持ち直した。


その仕草だけで俺はだいたい察した。人間が本当に言いにくいことを口にするとき、剣を握る者は柄を確かめ、学者は眼鏡を直し、魔法使いは杖の位置を見る。そして焼きたての塩パンを買ったばかりの監査官は、紙袋をそっと持ち直す。


「もっと非正式には」


セドリックは声を少しだけ低くした。


「協会は、今回の異常を止められない可能性があります」


広場の空気が、一瞬だけ重くなった。


パンの匂いも荷馬車の音も、子供の笑い声も遠くの屋根で鳴いていた鳥の声も、まるで誰かが透明な布をかぶせたように半歩だけ遠ざかった気がした。


俺は切り分けた黒麦パンの断面を見ながら、ため息をついた。


いい焼き色だ。外は固く、中は詰まりすぎず、旅人の胃にやさしく、日持ちもする。こういう仕事は嘘をつかない。粉と水と塩と時間はこちらが丁寧に向き合えば、だいたい丁寧に返してくれる。世界の古代術式ももう少しパン生地を見習ってほしい。勝手に潮位を狂わせたり灯台魔石を震わせたり人の老後の予定に土足で上がり込んでくるのは、発酵不足にもほどがある。


「……あなたでなければ解析不能な領域に入った場合、協会はあなたの助力を必要とします」


「つまり俺がパンを売りながら世界の穴を探し、見つけたら塞ぎ、ついでに報告書も書けと」


「報告書は私が書きます」


「そこは少し評価する」


「出店許可の書状についても、可能な限り用意します」


「可能な限り、という言葉は信用しない。小麦粉は」


「各地の協会支部に手配します」


「名物食材は」


「調査費として処理できる範囲で」


「パン屋の研究活動だ。領収書には食文化調査と書け」


「それは会計課との戦いになります」


「だったらちゃんと勝て」


「善処します」


「善処は負ける前の挨拶だ」


セドリックが、世の中のあらゆる渋柿を一度に噛みしめたような顔をした。あの顔を見るかぎり、王立魔法協会の会計課というのはもしかすると魔王軍の四天王より手ごわい組織なのかもしれない。魔王はまだ剣と魔法と勇気でどうにかなるが、会計課は領収書の但し書きと支出理由書と事前申請番号で人間の魂を削ってくる。俺はほんの少しだけ同情しながら焼き色の濃い黒麦パンを厚めに切り、油を弾く紙で包んで紐をかけた。固めに焼いた黒麦は保存が利くし腹持ちもいい。旅人にとっては、派手な祝福を受けた宝剣よりこういう地味に裏切らない食べ物のほうがよほどありがたい場合がある。人生という長旅にも案外そういうものが必要なのだ。伝説の魔法使いではなく、丈夫な靴と噛めば噛むほど味が出る固いパンと、正直に「面倒くさい」と言っても眉をひそめずに聞いてくれる相手。世界の危機に立ち向かうための装備としては、だいたいそのあたりで十分である。


「アルト先生!」


リリアナが、まるで舞台の幕が上がった瞬間を逃すまいとする役者のようにここぞとばかりに身を乗り出した。


「先生ではない」


「では、アルトさん!」


「距離が急に縮んだな」


「わたくしも同行しますわ!」


「断る」


「まだ理由を申し上げていませんのに!」


「言う前から、騒がしい理由しか見えない」


「わたくしは王立魔法学院高等部二年、古代魔法史と属性複合術式において学年上位を維持し、あなた様の卒業研究を追いかけて禁書庫の裏口に迷い込み、蜂に追われ、泥に落ち、学院長に三時間説教されてもなお諦めなかった、不屈の探究心を持つ女ですのよ!」


「蜂に追われたのは探究心のせいじゃなくて、魔導羅針盤の設定を『遺跡』じゃなく『蜜源』にしていたせいだろ」


「細部を気にしていては、大きな研究はできませんわ!」


「細部を気にしない魔法使いは、さっき噴水から出てきた趣味の悪い犬もどきを作る側に行くぞ」


「うっ」


そこを突かれると弱いらしい。リリアナは一瞬だけ言葉をなくし、唇を尖らせながら悔しそうに視線を落とした。だが、こういう手合いがそこで引き下がるなら、そもそも蜂に追われるまで人の卒業研究を追いかけたりはしない。彼女はすぐに顔を上げ、今度は勢いだけではなく妙にきらきらした決意のようなものを目に宿して言った。


「なら、細部を気にします。記録も取ります。町の人の避難誘導もしました。あなた様の販売車も見張りました。林檎カスタードを食べながらでも人の役に立てるということは、先ほどすでに証明しましたわ!」


「最後の部分は証明しなくてよかった」


「連れていってくださいまし」


その声はさっきまでの勢い任せの叫びとは少し違っていた。もちろん好奇心はあるし尊敬もある。俺の魔法をこの目で見たいという研究者としては健全で、同行者としてはかなり迷惑な欲もある。しかしそれだけではないのだろう。リリアナは自分の目で見てしまったものを、見なかったことにできない種類の人間なのだ。こういう人間は厄介である。放っておくと勝手についてくる。勝手についてきて勝手に危ない場所へ入り、勝手に迷い、勝手に謎の石板を押し、勝手に封印を半分だけ解き、最終的にこちらが助ける羽目になる。ならば最初から視界に入れておいたほうが、結果として被害が少ない場合もある。これは過去の旅で学んだ、あまり役に立ってほしくなかった教訓の一つだ。特に好奇心旺盛な若者や食い意地の張った小型竜やまとまった研究資金を渡された錬金術師からは、絶対に目を離してはいけない。あいつらは「ちょっとだけ」と言いながらたいてい世界の扉を一枚余計に開ける癖があるんだ。


「条件がある」


「はいですわ!」


「俺を先生と呼ばない」


「善処しますわ!」


「今の返事で一点減点」


「アルトさん!」


「旅の間、俺のパン作りに魔法を使おうとしない」


「もちろんですわ!」


「販売車の中で勝手に実験しない」


「……もちろんですわ」


「今の間で二点減点」


「厳しすぎませんこと!?」


「あと、俺が逃げろと言ったら逃げる。記録より命。魔導紙より足。研究より昼飯。順番を間違えるな。古代文字が壁に光っていようが、空から神託めいた声が降ってこようが、昼飯を食っていない人間の判断力は干からびた乾パン以下になる」


リリアナは今度ばかりは茶化さず、唇をきゅっと引き結んで頷いた。その顔にはまだ子供っぽさが残っていたが、軽さだけではないものも見えた。なら一応、見込みはある。少なくとも噴水犬の尻尾を記念に持って帰ろうとしなかっただけ、世の中の一部の魔法学院生よりはだいぶましである。


横を見るとセドリックがいかにも何か言いたそうな顔をしていたので、俺は彼が咳払いという名の前置きを始める前に先に釘を刺しておくことにした。


「セドリック、お前も来る気だろ」


「協会として、あなたとの連絡役が必要です」


「つまり監視役」


「連絡役です」


「塩パンを食べる監視役」


「連絡役です」


「必要に応じて追加で買う監視役」


「連絡役です」


「まあいい。客として金を払うなら、乗車については前向きに検討する」


「乗車賃が発生するのですか」


「移動販売車だぞ。移動にも販売にも金がかかる。車輪は勝手に回らないし馬は霞を食わないし、石窯は気合いだけでは熱くならない」


「協会予算で処理します」


「よし、乗れ」


「判断が早すぎますわ!?」


リリアナが、林檎カスタードを抱えたまま叫んだ。金で動いたと思われるのは心外である。俺は金では動かない。良い小麦粉とまともな出店許可と、面倒な申請書類を減らしてくれる正式な書状と販売車の車軸がまた悲鳴を上げたときの修理費で動く。これは金よりずっと切実な現実であり、パン屋の魂と翌朝の仕込みに関わる問題だ。世界を救うかどうかはそのあとで考えればいい。


広場の騒ぎは、少しずつ日常の形を取り戻し始めていた。町長は割れた噴水の前で両手を頭に置き、石工を呼ぶべきか祈祷師を呼ぶべきか、あるいは何も見なかったことにして午後の会議に逃げるべきかという顔で固まっている。治癒師はチーズパンを最後の一口まできっちり食べ終えてから怪我人の確認に回り、先ほど泣いていた少年は蜂蜜ナッツパンを母親と半分こしながら、もう噴水の犬もどきの鳴き声を真似していた。屋根の上の猫は町を捨てるという重大な決断をいったん保留したらしく、また鐘楼の陰で丸くなっている。あの猫はおそらくかなり賢い。魔法使いよりも撤退判断が早く、王族よりも日向の価値を理解しているようだ。


俺は最後の林檎カスタードを袋に入れ、販売台の端にそっと置いた。瞬間、リリアナの視線が磁石に引かれた針のようにそこへ吸い寄せられた。


「買うか」


「買いますわ」


「同行するなら給料から引く」


「まだ雇用契約を結んでいませんわよ!?」


「じゃあ銀貨一枚」


「高くありませんこと!?」


「世界の危機割増だ」


「割増の方向が逆ですわ!」


結局、リリアナはぶつぶつ言いながらも銀貨を置き、林檎カスタードをまるで王家に伝わる宝玉のように大事そうに受け取った。セドリックはその横で塩パンを食べていたが、ひと口噛むたびにほんの少しだけ目を細めている。あれは悔しいがうまい、という顔だ。王立魔法協会の監査官がどういう訓練を受けているのかは知らないが、焼きたての塩パンを前にして表情を完全に隠せるほど人間をやめてはいないらしい。


俺は販売車の奥へ回って粉袋の残りを確認してから、祠で拾った水晶皿の欠片と星砂らしい細かな粉を小さな木箱へ入れた。その木箱には昔から危ないものを入れている。古代術式の触媒、壊れた魔導具、呪いのかかった指輪、読もうとすると紙面に泣き言が浮かび上がる魔導書の栞、封印札の切れ端、誰が作ったのか分からない小さな銀の鍵、その他いろいろ。パン屋の移動販売車に置いておくべきものではないという自覚はあるが、置き場所がほかにない。収納魔法は使っていない。これは断じて魔法ではなく、単なる整理整頓の敗北である。人はそれを物置化とも呼ぶ。


さて、状況をまとめよう。七海の潮位がおかしい。灯台魔石が乱れている。ルミナリア方面で古代術式の光柱が観測された。ラナクの噴水から創造主の美的感覚を疑う犬もどきが出た。誰かが俺に魔法を使わせようとしている可能性がある。協会の監査官が連絡役という名目でついてくる。学院の少女が林檎カスタードを食べながら同行を希望している。そして俺は今日の午後、予定どおりなら隣町へ向かい、夕方までに川沿いで野営し、明日の朝には干し葡萄パンを焼くはずだった。


具体的な予定は人生を守る。朝に粉を量りながら昼に車輪を点検し、夕方に水場を探して夜には明日の仕込みを考える。そういう小さな予定の積み重ねが、人間を無駄な混乱から守ってくれるのだ。世界のほうがその予定を壊しに来るのなら、こちらも予定表の端に「世界の危機対応」と小さく書き足すしかない。大きく書くと負けた気がするが…


「出発は昼過ぎだ」


俺がそう言うと、リリアナがぱっと顔を上げ、セドリックが静かに頷いた。二人ともどうやら本気らしい。困ったことに、こういうとき本気の人間は焼き上がり直前のパン生地より扱いが難しい。


「それまでに、噴水の後始末、怪我人の確認、町長への説明、協会宛ての第一報、販売車の点検、粉と水の補充、それから昼飯を済ませる。リリアナは町の人から、噴水に変な様子がなかったか聞き取り。光ったとか唸ったとか、水が逆流したとか、町長が急に若返ったとか、そういう細かい話を拾え。セドリックは町長と修理費の話をしておけ。俺は残りのパンを売る」


「そこでパン販売が最優先に戻りますのね」


「売れ残りを出すと、明日の仕込みに響くんだよ」


「世界の異変より仕込みが強いですわ……」


「仕込みを甘く見るな。世界を救っても、翌朝のパンがまずければ人は不機嫌になる。不機嫌な人間が増えると争いが起きるし、争いが増えると国が荒れる。つまり、うまいパンは広義の世界平和だ」


セドリックが小さく笑った。リリアナは呆れたようにため息をつき、それでも林檎カスタードをひと口かじった瞬間、悔しそうに幸せな顔をした。俺はその顔を見て、少しだけ気分が軽くなった。どれだけ古代術式が動こうとどれだけ遠くの海がざわめこうと、焼きたてのパンで人が黙るならまだ世界は完全には壊れていない。壊れかけではあるかもしれないが、少なくとも修理の余地はある。


俺は販売台に手を置き、広場へ向かって声を張った。


「さあ、残り少ないぞ。塩パン、黒麦、干し肉入り、あとチーズが二つ。噴水犬退治記念に買っていけ。記念品はないが、腹は膨れる。腹が膨れれば、人間はだいたい少しだけ寛大になる」


町の人間たちが笑いながら列を作り始めた。俺は紙袋を広げつつパンを詰め、銅貨を受け取りながら釣り銭を返した。何度も繰り返してきた、退屈で平凡で、ありがたい動きだった。その手の中にはまだ祠で拾った星砂のざらつきが残っている。遠く北東の空には、切り損ねた糸のような気配がほんの少しだけ漂っている。胸の奥では、昔訪れたルミナリアの港町の潮風と古い灯台の地下で聞いた水音が、記憶の底からゆっくり浮かび上がってきていた。


面倒な旅になる。


それは分かる。分かりすぎるくらい分かる。面倒の形も面倒の匂いも、面倒がこちらへ向かって街道を歩いてくる足音も、俺は昔から嫌というほど知っている。


まあ、旅が面倒なのはいつものことだ。問題は面倒な旅でも朝にはパンを焼けるかどうかである。俺は魔法使いをやめたパン屋で、パンには魔法を使わない。世界の穴を塞ぐことになっても、粉をこねる手だけはずるをしない。


そう決めているうちは、たぶんまだ、俺は俺でいられるだろう。


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