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移動販売のパン屋さんは、元最強の魔法使いです。  作者: 平木明日香
第一章 焼きたてパンあります、ただし魔法は使ってません
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プロローグ



俺が魔法使いをやめた理由を誰かに話すと、大抵の場合は三つくらいの反応に分かれる。まず一つ目は、ぽかんと口を開けて、あんた今なんて言ったの、とでも言いたげな顔になるやつ。二つ目は、そこまで極めた力をどうして捨てるんですかもったいないじゃないですか世界征服とか王国乗っ取りとか最低でも爵位と豪邸と専属料理人百人くらいは狙えるでしょう、と人の人生設計を勝手に物騒な方向へ積み上げてくるやつ。三つ目は、俺の顔と手元のパンと背後の移動販売車を順番に見比べたあと、たいへん礼儀正しく一歩下がり、「すみません、焼きたての塩バターロールを二つください」と注文に戻るやつだ。


ちなみに俺としては三つ目の人間を強く推奨したい。なぜなら人生において重要なのは、過去にどれだけ火竜を素手で説教したかとか、七重結界を逆さ読みで解除したかとか、神殿の奥に封印されていた古代魔導炉を昼寝のついでに再起動したかとか、そういう履歴書に書くと面接官が失神する類いの実績ではなく、朝一番に焼き上がったパンがまだ湯気を立てているうちにそれを誰かの手に渡せるかどうかだと、わりと本気で思っているからである。


もっとも、その思想を声高に語ると、今度は「それって悟りを開いた大賢者の発言ですよね?」と言われるので、最近はなるべく黙ってパンを袋に詰めることにしている。黙っていれば、俺はただの移動販売のパン屋だ。粉まみれの前掛けをして、少し古びた木造の販売車を引き、七大大陸を結ぶ街道の端っこで子供に甘いクリームパンを売り、衛兵に固めの黒麦パンを売り、旅人に日持ちする乾パンを売る、どこからどう見ても健全で平和で、王立魔法協会の監視対象名簿に赤線を引かれる理由など一ミリもない、まっとうな労働者である。


……まあ、その販売車の車軸に、かつて空中要塞の姿勢制御に使われていた星鉄を再利用しているとか、石窯の内壁に火山竜の脱落鱗を混ぜているとか、発酵棚の湿度を一定に保つために世界樹の根元で拾った吸湿苔を敷いているとかそういう細かい工夫はあるが、断じて魔法ではない。素材の個性を活かした丁寧な手仕事である。ここを間違えないでいただきたい。


その日の朝、俺は中央大陸オルディアの東端にある小さな宿場町ラナクの広場で、いつものように店を開いていた。


ラナクは王都から馬車で三日、尻と腰と人生観を多少犠牲にして急げば二日で着く距離にある町で、旅人にとっては休憩所であり、商人にとっては荷馬車の車輪を点検する場所であり、衛兵にとっては退屈な巡回路であり、俺にとっては黒麦パンと干し果実入りの丸パンがそこそこ安定して売れるたいへんありがたい宿場町である。


俺は夜明け前から販売車の窯を温めて井戸水を汲みながら前夜から仕込んでおいた生地の具合を確かめ、指先でそっと押したときの戻り方や表面の張りやほんのわずかに鼻先をくすぐる発酵の匂いを見て、うん、今日は機嫌がいいな、と誰に聞かせるでもなく生地に向かって呟いていた。


以前それを見た旅の神官に、「パン生地に話しかけるなんて、あなたは少し寂しい方なのですね」と慈悲と哀れみを黄金比で混ぜたような顔をされたことがあるが、パン生地というものはこちらが話しかけたからといって急にやる気を出して二倍に膨らんだり、感動して小麦の精霊が中から手を振ってきたりするわけではない。ただ話しかけるくらいの距離で、話しかけるくらいの頻度で、話しかけるくらい真剣に見ていなければいちばんいい瞬間を平気でこちらの背後から通り過ぎていくのである。


これは魔法ではなく観察だ。


観察は大事だ。


王立魔法学院でも一番最初に習う。


……いや、今のは例えが悪かった。


「おっちゃん、今日は甘いのある!?」


朝の広場に最初に飛び込んできたのは、膝小僧に絆創膏を三枚も貼りつけた少年だった。年は十くらい、髪はどうやら枕と布団と寝相の三者が夜通し協議した末に鳥の巣という結論へ至ったらしく、目だけは朝っぱらから砂糖壺に顔を突っ込んできましたと言わんばかりにきらきら輝いている。俺は販売台の上に石窯から出したばかりの丸パンを一つずつ並べながら焼き色の具合を確認し、香ばしい湯気が客寄せとして十分な職務を果たしていることを見届けたうえでなるべく穏やかに答えた。


「おっちゃんではない。俺はまだ二十六だ」


「二十六って、お父さんより若いかもしれないけど、でも前掛けしてるからおっちゃん!」


「前掛けに年齢判定機能を搭載するな。あと甘いのはある。蜂蜜ナッツの渦巻きパン、朝焼き林檎のカスタード包み、ミルククリームを挟んだ白パン、それから今日は気まぐれで焼いた黒糖くるみの小さなやつもある。どれにする」


「全部!」


「財布の中身と相談してから夢を語れ。夢は大きくていいが、銅貨は増えないぞ」


少年はそこでようやく自分の腰にぶら下げていた小さな布袋を両手でつかみ、宝物庫の封印を解く王族みたいな顔で口紐をほどいた。中から出てきたのは銅貨が三枚、磨きすぎて顔が映りそうな小石が一つ、どこの馬車から落ちたのかわからない曲がった釘が一本、それから用途不明の木の実が二つである。


「……確認するが、この石と釘と木の実は何だ」


「お金!」


「違うと思うぞ」


「でも昨日、鍛冶屋のおじさんがこの釘を見て、まだ使えるなって言ってた!」


「鍛冶屋のおじさんが評価したのは釘の再利用価値であって、パン屋における購買力ではない。俺は釘で蜂蜜を仕入れないし、釘で窯の薪代も払えないし、仮に王都の税務官に釘を差し出して『今年の納税です』と言ったら、たぶん俺の人生に新しい種類の扉が開く」


少年は難しい話を聞いた子犬のように首をかしげたあとに布袋の中身をもう一度覗き込み、どうにか銅貨が増えていないかを確認した。残念ながら銅貨は三枚のままだった。貨幣というものは真剣に見つめた程度で増殖するほど親切にはできていない。少なくとも俺が知る限り、増える銅貨というのはだいたい呪われているか裏で誰かの帳簿が泣いているか、その両方である。


「よし、銅貨三枚なら蜂蜜ナッツ一つだ」


「えー、釘つけるから二つにしてよ」


「だめだ」


「じゃあ石は?」


「石で買えるのは、石を欲しがっている人間の好意だけだ。残念ながら俺は今のところ、焼きたてのパンほど石に困っていない」


少年が真剣に石の価値を再検討しはじめたところで、俺の背後から、というより正確には販売車の横に置いた小さな樽のあたりから夜明け前の井戸水みたいに低く乾いた声がした。


「では、その蜂蜜ナッツを二つ、白パンを三つ、黒麦を一つ、あとその、妙に表面がつやつやしていて、私の理性に対して明らかな敵対行為を行っている丸いやつをください」


振り返ると、町の診療所で働く若い治癒師の女が世界そのものを三時間ほど寝かせてから再起動してほしそうな顔で立っていた。白衣の袖は肘まで乱暴にまくられ、髪は最低限ほどけなければいいという思想で後ろに結ばれ、目元には夜勤明けの人間だけが許される薄い影が落ちている。おそらく昨晩も骨折だの発熱だの酔っ払いの喧嘩だの、あるいは「薬草と間違えて光るキノコを食べました」系の聞いただけで胃が重くなる患者たちを相手にしてきたのだろう。


「理性に敵対している丸いやつはチーズ入りだ。中が熱いから気をつけろ」


「熱いのは困ります。今すぐ食べたいのに舌を火傷すると、患者さんに優しくできなくなるかもしれません」


「責任をパンに押し付けるな」


「では冷ましてください」


「待てば冷めるぞ?」


「待てないから買いに来てるんです」


人間とはつくづく難しい生き物である。眠い時には寝ればいいし熱いものは冷ましてから食べればいい。理屈だけならそれで世界はだいぶ平和になるはずなのだが、実際の人間は眠いまま働いて熱いチーズに挑み、銅貨三枚と錆びた釘で甘味の増量を狙ってくる。かつて俺は七層に分かれた竜王の精神迷宮を半日で抜けたことがあるが、人間の空腹と欲望の構造に関してはいまだに入口の案内板すら読めていない気がする。


俺は紙袋を二つ取り、治癒師には注文どおりのパンを詰め、少年には少し小さめの蜂蜜ナッツを一つとミルクビスケットを一枚渡した。


「おっちゃん、やっぱいい人だな!」


だからおっちゃんではない、という言葉は、なぜかその時だけ口から出てこなかった。いちいち反論しているとパンが冷めるし、チーズ入りの丸いやつは理性に対する敵対行為を継続中だし、世の中には説明しても仕方のないことがいくつかある。


俺の店は看板だけ見れば本当に何の変哲もない。白く塗っただけの木板に焦げ茶色の塗料で【焼きたてパンあります】と書いて吊るしてあるだけで、王都の目抜き通りに並ぶ高級菓子店のように店名を金箔で縁取ったり、貴族の機嫌を取るために「王家御用達だが庶民の皆様にも特別にお分けいたします」みたいな、読むだけで胃もたれしそうな副題をつけたりはしていない。販売車そのものも遠目には白い幌を被せた二輪の小さな荷車にしか見えないはずだ。古びた木枠、少し軋む車輪、雨避けの布、折り畳み式の販売台。これだけ並べれば、まあ普通である。少なくとも王立魔法協会の監視官が眉間に皺を寄せながら記録板を取り出すような要素は、外見上ひとつもない。


けれど常連客はその「外見上」という言葉の中にどれほど広大な逃げ道があるかをよく知っているので、初めてこの町に来た旅人が販売車の奥を覗き込み、「え、こんな小さい車に石窯が入ってるんですか?」と目を丸くするたび、広場の人間たちはああまた一人、素直で健全な常識人が世界の理不尽に触れてしまったなという顔をする。ひどい話である。俺としては何もおかしなことはしていない。石窯は焼きむらが出ないよう薄型に設計し、煙突は三段階に折り畳めるよう蝶番を噛ませ、作業台は使わない時だけ壁へ吸い込ませる――いや、収納する構造にして、粉袋は床下の乾燥室へ入れ、発酵棚は車体の内壁に沿わせ、冷却棚は引き出し式にし、給水樽は左右に分けて重心を取っているただそれだけだ。限られた空間を無駄なく使うまっとうで堅実で、どちらかと言えば家具職人あたりに褒めてほしい類いの工夫である。


ところが人はすぐに、「収納魔法ですか?」とか、「空間拡張術式ですよね?」とか、「この車、外から見ると三歩で回り込めるのに、中では五人くらい働けそうなんですけど?」とか、実に失礼なことを言う。「働けそう」と「実際に働ける」は違う。実際に五人も入ったら肩がぶつかるし、肘が当たるし、誰かが小麦粉をひっくり返すし、慌てて拾おうとした別の誰かが蜂蜜壺に手を突っ込むし、最終的に店内がパン屋ではなく冬山の遭難現場みたいになるだろう。だから一人でやっている。もっとも昔は古代遺跡の地下工房で百二十七本の魔導腕を同時制御しながら溶けた星銀と呪鉱石と機嫌の悪い人工精霊を一度に相手取って精製作業をしたこともあるので、一人作業そのものに特別な不便は感じていないがそれは今まったく関係ない。全然関係ない。俺はただのパン屋だ。そこは何度でも確認しておきたい。


朝の広場では、パンが売れる。


これは長年の経験から導き出された商売上の知恵というより、もはや水は高いところから低いところへ流れるとか、猫は陽だまりを見つけると職務放棄した宮廷占星術師より真剣な顔で丸くなるとか、魔法協会の役員会は議題が三つしかなくても必ず昼をまたぐとか、そういう世界の根っこに刻まれた真理の一つだと俺は思っている。


魔法体系に置き換えて説明するなら、まず人間の腹の底には「空腹」という最も原始的かつ抗いがたい基礎概念が存在し、そこへ焼きたての小麦と溶けたバターが放つ香りという強力な媒介が流れ込み、さらに財布の中に残った銅貨と銀貨が現実的な支払い可能範囲に収まっているという制約条件が満たされ、その三要素が一定値を超えた瞬間、人はだいたいの理性と若干の節約意識を広場の石畳に置き去りにしてかなり高い確率でパンを買う。


そこに火属性の攻撃魔法も時空干渉術式も古代神語による購買意欲増幅呪文も必要ない。というか、そんなものをパン屋の店先で使ったら売上が伸びる前に王立魔法協会の査察官が飛んできて、営業許可証ではなく俺の人生そのものに封印札を貼っていく。


必要なのはちゃんと焼けたパンと、釣り銭を間違えない程度の集中力と、朝から機嫌の悪い鍛冶屋に黒麦パンを渡す時の自然な笑顔と最後の塩バターロールを巡って幼い兄妹が無言のまま視線だけで血統戦争を始めた時に、「半分ずつに切って、兄には大きく見える方を、妹にはバターが多く染みた方を渡す」という、店主としての穏便かつ実務的な解決能力である。


ただし今日に限って言えば、その集中力に少々、いや、かなり問題があった。


なぜなら広場の端に、朝市の常連客とは明らかに毛色の違う、やけに立派な青い外套を着た一団がいたからだ。


彼らは町長らしき老人から何やら説明を受けながらこちらをちらちら見ていた。ちらちら、という表現は少し柔らかすぎるかもしれない。正確には焼きたてのパンを買おうか迷っている人間の視線ではなく、遺跡の奥で発見された危険物が本当に死んでいるかどうか、槍の先でつつく前にまず遠巻きに観察している学術調査隊のそれだった。


腰には細剣。胸元には銀糸で縫い取られた紋章。手袋の甲には、魔力伝導用の薄い魔石板。靴は泥を嫌う貴族のものではなく長距離移動と緊急戦闘を前提に作られた軍用品。歩き方には訓練された者特有の無駄のなさがあって立ち位置には互いの死角を自然に埋める癖があり、何より俺の販売車を見る目に朝食前の人間が持つべき健全な迷いが一切ない。


王都の人間だ。


それもただの役人ではない。書類の山に埋もれて羽根ペンを武器に戦う類いではなく、現場に出て問題を見つけ、必要とあらばその問題を縄で縛るか封印するか、あるいは王命という名の重たい蓋をかぶせる側の人間である。


王立魔法協会の調査官か。王宮直属の魔導騎士か。あるいはその両方の面倒くさい部分だけを丁寧に削り出して弱火で三日煮込み、最後に礼儀作法という薄い砂糖衣で包んで「こちら、王都名物の厄介事でございます」と銀の皿に載せたような存在か。


俺は焼きたての塩パンを籠へ移しながら、心の中で深くため息をついた。


いや、まだ決めつけるのは早い。人を見た目だけで判断してはいけない、というのは古今東西、親切な聖職者から説教好きの古代石碑まで幅広く支持している道徳である。彼らはたまたまこの宿場町に立ち寄り、たまたま朝食を食べ損ね、たまたま広場を歩いていたところ、たまたま俺のパンの香りに足を止めただけかもしれない。そういうことはある。世の中には偶然というものがある。


かつて七層迷宮の最奥で封印されていた災厄級魔導書が、俺の弁当袋に紛れ込んでいた時も、最初の三秒くらいは偶然かと思った。


違ったけど。


あれは魔導書側の、極めて悪質かつ計画的な犯行だった。そもそも弁当袋の中で勝手に栞を挟み直し、ゆで卵の殻に古代文字で契約文を書きつけ、干し肉を触媒にして簡易召喚陣を組み始めていた時点で、もう偶然という言葉が入り込む余地は、焼きすぎたラスクの隙間ほどにも残っていなかった。


だから今回も、偶然ではない可能性がある。


……うん。


非常にある。


「店主」


青い外套をまとった連中のうち、一人が列から半歩だけ抜け出すようにしてこちらへまっすぐ歩いてきた。年の頃は三十前後、若造と呼ぶには目元が落ち着きすぎていて、古株と呼ぶには頬の線にまだ疲労より規律のほうが強く残っている、つまり役所という巨大な石臼に毎朝きっちり挽かれながらもまだ粉になりきっていない種類の男である。背筋は定規を背中に仕込んだみたいにまっすぐで、足音はやけに静かで顔つきは冷静、声は丁寧、身なりは隙なく整っており、そして目だけが干し肉を狙う山鷹か、あるいは脱税した商人の帳簿を見つけた徴税官のようにこちらのわずかな挙動も逃すまいと鋭く光っていた。


俺はいつもの商売用の笑顔を顔面に貼りつけ、いつもの商売用の声を喉の奥から取り出した。こういうとき大事なのは動揺しないことではない。動揺していないように見える程度の自然な疲労感と朝から働いている人間特有の「面倒な客でも金を払うなら客である」という寛容さを、ほどよく混ぜておくことである。


「いらっしゃい。焼きたてなら手前から、塩パン、黒麦、蜂蜜ナッツ、チーズ、干し肉入り。甘いのがいいなら奥に林檎カスタードがあります。朝の林檎カスタードはいいですよ。人間を少しだけ善良にします」


「パンの購入に来たわけではありません」


「そうか。じゃあ、パンの購入に来たほうがいい。朝食を抜いた人間の判断力は、満腹時の六割くらいまで落ちるらしいですから」


「興味深い統計ですね。出典は」


「俺の経験」


「学術的価値は低そうですが、生活上の説得力はありますね」


男は販売台の前でぴたりと足を止めた。こういう男は止まり方にも無駄がないので見ている側の脳が勝手に効果音をつけるのだ。彼の視線はまず俺の粉のついた頬を確認し、次に癖のある灰色の髪を拾う。前掛けの紐の結び目を見て右手の古い火傷痕に一瞬だけ留まり、それから販売車の奥、石窯、棚、積まれた紙袋、吊るした香草袋、車軸の下あたりへと、職務上の礼儀を羽織ったまま寸分の無駄もなく滑っていった。


おそらく魔力の流れを見ようとしているのだろう。だが残念ながらそこに流れているものは魔力ではなく、小麦粉と酵母と早朝労働者の眠気と井戸水を頭から浴びたせいで背中に残っている季節外れの冷たさくらいである。俺は今魔法を使っていない。魔力を隠しているのでも気配を殺しているのでも古代式の遮断術で存在位相をずらしているのでもない。単にパン屋として起き、パン屋として火を入れ、パン屋として生地を捏ね、パン屋として少し寒いだけだ。


ここを取り違えられると、王立魔法協会の地下査問室とか対超級魔導士拘束用の銀鎖とか、やたら苦い尋問用薬草茶とか、そういうパン屋の一日に本来含まれるべきではない予定が勝手に差し込まれるのでできれば丁寧に避けていきたい。


「確認します。この販売車に、空間拡張魔法は使用されていますか」


「されていない」


「収納魔法は」


「していない」


「温度維持魔法は」


「使っていない」


「防腐、防湿、防虫、防盗、防火、衝撃緩和、重量軽減、自走補助、索敵、迷彩、認識阻害、魔獣避け、客寄せ、いずれも使用していないと?」


「パン屋に対して疑う項目が多すぎないか」


「質問に答えてください」


「使っていない。防虫は香草袋、防湿は換気口、防盗は南京錠、防火は砂袋、衝撃緩和は車軸の遊び、重量軽減はそもそも余計な荷物を積まないこと、自走補助は俺の足腰、索敵は耳、迷彩はこの地味な外装、認識阻害は朝市の人混み、魔獣避けは鈴、客寄せは匂いだ」


「匂いは強力ですね」


「だろう」


男はほんの少しだけ眉を動かした。表情としては雀の羽ばたきより小さい変化だったが、こちらは元・魔法使いであり現・パン屋で、ついでに言えば焼き上がり直後の客の反応を見逃さないことに関しては王都の宮廷占星術師より当たる自信がある。いまのは疑念と警戒の隙間に塩とバターの香りが指一本ぶん入り込んだような顔だった。


俺はその隙を逃さずに焼き色のいい塩パンを一つ紙袋に入れて差し出した。表面は薄く張り、端はかすかに割れ、内側からはまだ熱の残ったバターが小さく息をしている。発酵と火加減と、朝から真面目に働いた人間だけが使えるたいへん地味で尊い技術であり、断じて魔法ではない。


「食うか」


「職務中です」


「職務中でも腹は減る」


「……いくらですか」


「銅貨二枚」


「では一つ」


買うのか。いや、売るけど。


俺は商売人としての節度を保ちながら銅貨を受け取りながら釣り銭を渡し、男は塩パンを受け取るとあくまで職務上の厳格さを崩していませんという顔のまま一口かじった。そして次の瞬間、ほんのわずかに目を見開いた。


勝った。


王立魔法協会に勝ったのか青い外套に勝ったのか、朝食抜きの理性に勝ったのか何に勝ったのかは知らないが、少なくとも人間という生き物が焼きたてのパンの前ではだいたい少しだけ善良になるという俺の持論がまた一つ証明された。


「美味しいですね」


「ありがとう」


「ですが不可解です。外側の焼き色は均一でありながら、底面に過加熱の痕跡がない。内部の水分保持率も高く、冷めても劣化しにくい配合がされている。さらに塩味の立ち上がりが早いのに後味が丸い。これは通常の街道販売で維持できる品質ではありません」


「食べながら取り調べするな」


「失礼。しかし職務ですので」


「何の職務だ。まさか王都では、パンがうまいだけで犯罪になるのか。だとしたら俺は今すぐ亡命するぞ」


「安心してください。パンの美味しさは違法ではありません。ただし、美味しさを実現するために未登録の魔導具、違法術式、古代遺物、竜種由来の危険素材、または王立魔法協会が管理指定している世界級触媒を使用している場合は、別途報告義務が発生します」


「世界級触媒をパン屋に疑うな」


「では質問を変えます。この窯の内壁、何を混ぜていますか」


「石粉と粘土と、少し変わった鱗の粉」


「鱗」


「鱗」


「何の鱗ですか」


「昔、山道で拾った大きいやつ」


「拾った大きいやつ」


男のこめかみがぴくりと動いた。


「店主、今の表現は非常に悪いです。王都の法廷でそれを言うと、裁判官が頭を抱えます」


「法廷に呼ぶな。パンが焼けなくなる」


「何の鱗ですか」


「火山竜が脱皮して落としたやつだと思う。多分」


「多分で火山竜素材を窯に練り込んでいるんですか」


「よく熱が回るんだ」


「そういう問題ではありません」


「いや、窯としてはそういう問題だ」


男は片手で額を押さえ、まるで今まさに王国法と常識と自分の職務倫理が三方向から綱引きを始めたみたいな顔をしたが、こちらとしてはその葛藤に付き合っているほど暇ではなかったので、その間に列の次の客へ焼き目の濃い黒麦パンをひとつ紙袋に入れて渡し、代金の銅貨三枚を受け取って釣り銭が必要ないことを確認してから「またどうぞ」と営業用の笑顔まで添えておいた。


仕事は止めない。


たとえ王立魔法協会の人間らしき青外套に身元を探られていようと、たとえ周囲の通行人が「これは何か面白い揉め事が始まるぞ」という顔でじわじわ距離を詰めてこようと、たとえ俺の平穏な午前が焼き上がったばかりの食パンみたいに端から崩されつつあろうと、注文が入った以上、パンは売る。


取り調べを受けながらでも、パンは売る。


それが移動販売という商売に携わる者の矜持であり、王都の片隅で車輪を軋ませながら日銭を稼ぐ、まっとうな労働者としての最低限の覚悟である。


青外套の男が額に当てた手をゆっくり下ろし、こちらへさらに何か――おそらく身分証の提示だとか魔力反応の照合だとか、こちらの心労と売上にまったく寄与しない面倒な質問だとか――を口にしようとした、その瞬間だった。


広場の向こう側、噴水と花売りの屋台と大道芸人の帽子が見えるあたりから、朝市のざわめきを一刀両断するような、妙に甲高く妙に伸びがよく、そして妙にこちらの胃を冷やす声が響いた。


「いたぁあああああああああああああああああああっ!!」


その声の伸び方、語尾に宿った無駄な確信、そして周囲の視線を巻き込むことに一切の遠慮がない発声だけで、俺は相手が誰なのかをおおよそ理解した。


というか、理解したくなかった。


人間には知らなくていいことがあるし、パン屋には見つからなくていい客がいる。


しかし現実というやつは、焼き加減と違ってこちらの希望どおりには調整できないらしく、人混みがぱっくりと左右に割れ、その隙間から一人の少女が、まるで放たれた攻城槌か、あるいは試験前日に徹夜で詰め込んだ知識が暴走して実体化した何かのような勢いで突撃してきた。


金色に近い栗毛は高い位置で結ばれ、走るたびにぴょんぴょん跳ねている。身にまとっているのは王立魔法学院指定の紺色の制服で、肩からは辞書か鈍器か判断に迷う厚さの魔導書を何冊も詰め込んだ鞄を下げながら右手には学院生らしく杖を握り、左手にはなぜか紙包みの揚げ芋を握っていた。


走るか、食べるか、魔法を使うか。


せめてどれか一つにしていただきたい。


少女は俺の販売台の前で靴底から白い煙でも出そうな勢いで急停止すると、肩で息をしながら杖ではなく揚げ芋を持ったほうの手で俺をびしりと指差した。


油が垂れるからやめろ。


「見つけましたわよ、アルト・レヴァン!! 王立魔法学院史上最年少主席卒業者にして、七大魔法分類完全制覇者にして、禁呪審査会を三回泣かせた伝説の問題児にして、私の卒業研究の参考文献を全部絶版にした張本人!!」


「人違いです」


「早いですわね否定が!!」


「俺はただのパン屋だ。アルという名の、慎ましく穏やかで、粉と酵母と銅貨の重みだけを信じ、できれば午後には車内の発酵棚の横で三十分ほど昼寝をしたい、どこにでもいる移動販売のパン屋だ」


「アルトを略しただけじゃありませんの!?」


少女の叫びに、青外套の男が静かにこちらを見た。


やめろ。


その目をするな。


お前はさっき塩パンを食っただろう。外はぱりっと、中はじゅわっと、岩塩と発酵バターの配合に三日悩んだ自信作を職務中にもかかわらず実に真剣な顔で食っただろう。


パンの恩は少なくとも食後の余韻が口の中に残っている間くらいは覚えておくべきである。


「店主」


「なんだ」


「アルト・レヴァンという名に聞き覚えは」


「世の中には似た名前が多い。アルトもいればアルもいるし、アルベルもいればアルマジロもいる」


「最後は人名ではありません」


「異国にはあるかもしれない」


「では、七大魔法分類完全制覇者という肩書きには」


「肩こりしそうな肩書きだな。俺は小麦袋を運ぶだけで十分こっている」


「禁呪審査会を三回泣かせた件は」


「泣かせたんじゃない。あいつらが勝手に泣いただけだ」


言った瞬間、広場が静かになった。


しまった。


口が滑った。


パン生地なら少しくらい扱いを間違えても水分量を調整し、寝かせ直し、最悪ラスクにすれば人生をやり直せるが、発言というものは一度外気に触れたら最後、焼きすぎた焦げ目みたいにそこに残り続ける。


少女は勝ち誇った顔で、ほら見なさい、ほら聞きましたわね、ほら世界よ私の正しさを讃えなさい、とでも言いたげに胸を張った。


青外套の男は手にしていた塩パンの残りをなぜか証拠品でも扱うような丁寧さで紙袋へ戻し、口元についた岩塩を親指で払ってからものすごく職務的な声で言った。


「確認が取れました」


「取れてないだろ。今のは一般論だ」


「一般論で禁呪審査会を泣かせた回数を訂正する人間はいません」


「世の中は広い」


「あなたほど広くはありません」


まったく、王都の人間はすぐ話を大きくする。


俺はただ、昔ちょっと勉強が得意で、魔法陣の構造を覚えるのが人より少し早く、火、水、風、土、光、闇、空間の七大分類を一通り触ってみたら思ったより手に馴染み、各国の老魔術師たちが一族の墓と同じくらい大事に守ってきた秘伝術式を初見で「ここ、循環効率が悪いですね」と指摘してしまい、その場の空気を真冬の北方氷原よりも冷やしたことが何度かあるだけだ。


誰にだって若気の至りはある。


俺の場合、その若気が少しばかり大陸規模で、至った先に国際会議と謝罪文と機密指定資料が山ほど積まれただけである。


少女は販売台に両手をつき、ずいっと身を乗り出した。


その拍子に、紙包みから揚げ芋が一本転がり落ち、俺の焼きたて丸パンの横に鎮座した。


やめろ。


うちのパン売り場に、他店の芋を進軍させるな。


「わたくしは王立魔法学院高等部二年、リリアナ・フォン・クラウゼル! あなた様を探して、王都から三日三晩、馬車に揺られ、宿のベッドの硬さに泣き、途中の食堂で出たスープの薄さに泣き、魔導羅針盤がパンの匂いに狂ったせいで二時間ほど養蜂場に迷い込み、蜂に追われ、ようやくここまで辿り着いたのですわ!」


「だいたい自業自得だな」


「そこは苦労を労うところではなくて!?」


「揚げ芋を食べながら人を追跡する余裕があるなら元気だろ」


「これは道中の栄養補給ですの。魔法使いは糖質と塩分と油分がないと詠唱精度が落ちるのです」


「落ちるのは生活態度だと思う」


リリアナはむっと頬を膨らませたが、次の瞬間、販売台の上の林檎カスタード包みに目を留め、明らかに表情が揺れた。追跡対象と菓子パンの間で心が二分されている顔だ。俺は紙袋を一枚手に取り、


「買うか」


「買いますわ」


「目的を忘れるのが早い」


「腹が減っては魔法使いは戦えませんの」


リリアナは銀貨を置き、林檎カスタードを受け取ると熱さに注意しろと言う前にかじり、そして「ふぉっ」と妙な声を出した。


「熱いって言おうとしたんだが」


「言ってから焼いてくださいまし……っ、でも、何ですのこれ、外はさっくり、中はふわっとしていて、林檎の酸味がクリームに吸われて、でも甘さが重くなくて、ああもう腹立たしいくらい美味しいですわね!?」


「腹を立てながら褒めるな」


「だって、こんなものを作れるなら、なぜ魔法界に戻ってこないのですか!あなた様が一つ論文を書くだけで、学院の教科書が三冊くらい書き換わりますのよ!」


「迷惑だろ」


「迷惑ですわ!でも必要な迷惑ですの!」


「必要な迷惑って何だ」


彼女はパンを持ったまま、急に真面目な顔になった。


「王都では、あなた様の失踪についていまだに諸説あります。魔王領に潜入した、神々の図書館へ上った、異界に渡った、古代文明を解読しすぎて概念になった、借金取りから逃げた、恋に破れた、パンになった」


「最後二つを唱えたやつを連れてこい」


「いえ、でも、わたくしは今日ようやく真実を知りました」


リリアナは俺の前掛けを見て、販売車を見て、また俺を見た。


「あなた様は……本当にパン屋になっていたのですね」


「そうだ」


「なぜですの」


「パンが好きだから」


「それだけですの?」


「それだけだと困るのか」


「困りますわよ!世界最強の魔法使いが世界最強たる理由をひとつ残らず丁寧に畳んで棚の奥へしまい込み、いまや朝っぱらから粉を量って水加減に眉をひそめているんですのよ!?発酵具合を見てうなずいて朝市で銅貨を一枚二枚と数えながらお釣りを間違えないよう真面目な顔をしているんですのよ!?!もっとこう、失われた恋人の面影を追っているとか、世界を救うために己の魔力を封印したとか、魔法を一度使うたび寿命が三日縮む呪いを受けたとか、読者の胸が締めつけられて思わず栞を挟むような事情が必要でしょう!?」


「残念ながら健康だ。昨夜もよく寝た」


「健康なのが腹立たしいですわね!?」


理不尽である。人が健康で、しかも睡眠の質まで良好で、いったい何が悪いというのか。


とはいえリリアナの問いそのものは痛いほど聞かされてきた。耳にできたタコが魔法生物として自立王立水産研究所に保護されてもおかしくないくらい何度も繰り返し聞かれてきた類いのものだった。なぜ魔法を使わないのか。なぜ魔法使いでいることをやめたのか。なぜ、火、水、風、土、光、闇、時空、精神、錬金、召喚、古代語術式、竜脈干渉、ついでに分類上どこへ置けばいいのか学者が三日ほど議論して寝込むような妙な体系まで、だいたいのものを好き放題に扱えるようになった男がよりによって街道沿いで手ごねのパン屋など始めたのか。


答えようと思えばいくらでも格好よく答えられる。力に溺れたくなかったのだとか人の温もりを知りたかったのだとか、本当に大切なものを探す旅の途中なのだとか、焼きたてのパンの湯気の向こうに世界平和の可能性を見たのだとか、そういう言葉だけをそれらしい順番で並べれば、吟遊詩人が膝を打って神官が涙ぐみ、通りすがりの評論家が「第二章への導入として非常に象徴的ですね」とか言い出しそうな理由はいくつも作れる。


けれど実際のところはそんなに美しく整えられた話ではない。もっと情けなくもっと単純で、しかも俺にとっては笑ってごまかすには少しばかり重く、胸の奥に置いておくには妙に温かいどうしようもなく大事なことだった。


あらゆる魔法を覚えていく旅の果てで、俺は本当にたいていのことをできるようになってしまった。火を起こすのに薪はいらず、水を得るのに井戸はいらない。道に迷えば空間を折り畳んで目的地の近くへ出ればよく、怪我をすれば治癒術で塞げばいい。壊れたものは錬金で直し、腹が減れば召喚食料で済ませる。寒ければ温度結界を張って暑ければ冷却結界を張り、眠ければ覚醒術式を流し込みながら疲れれば肉体強化で足をごまかすことだってできた。便利だった。言葉では説明がいらないくらい便利だった。生きていくという面倒で厄介で、時に泥臭く時に腹立たしく、そして時に妙に愛おしい行為を俺は便利という名の橋で片っ端から飛び越えていた。


気づいた時には、俺は世界を旅しているつもりで世界にほとんど触れていなかった。


雨の冷たさも坂道のしんどさも、靴底に噛む小石の痛みも。硬いパンをありがたく噛みしめる空腹だってそうだ。誰かが時間をかけて作ったものを両手で受け取る嬉しさも全部魔法で先回りして、魔法で整えて、魔法でなかったことにしてしまっていた。竜の背に乗って山脈を越えたことはある。海底都市の門番と三日三晩しりとりをしたこともある。天空神殿の祭壇で昼寝をして、あとで司祭に泣かれたこともある。しかしそれだけの場所を見てそれだけの奇跡に触れたはずなのに、俺は自分の掌に残るものがひどく少ないことにずいぶん遅れてから気づいたのだ。


だから、ある朝。


何の因果か、地図の端っこに辛うじて名前だけが載っているような辺境の小さな村で、腰の曲がった老婆が「旅の人、これしかないけどね」と言って差し出してくれた少し焦げた黒麦パンを食べた時、俺は自分でも笑ってしまうくらい馬鹿みたいに驚いた。


……美味かった。


いや、正直に言おう。味だけで採点するなら決して完璧なパンなんかじゃなかった。表面は明らかに焼きすぎで端のほうは歯が欠けるかと思うほど硬いし、中は少し重くて発酵も均一ではない。塩気も足りず、王都の一流料理人が口にすれば三秒ほど沈黙したあと「素朴ですね」と言って感想を濁す類いの出来だった。


けれど、そのパンは俺のために焼かれたものだった。


朝まだ暗いうちから火の前に立った人の時間と石臼で粉を挽いた人の手間と、ろくに余裕もない食卓から一切れ分けてくれた優しさが、焦げ目の奥にも重たい生地の中にもどうしようもなく詰まっていた。


魔法で作った完全食よりずっと美味かった。


保存性、栄養効率、魔力変換率、消化吸収速度、携帯性、どの項目を取っても召喚食料のほうが優れていたはずなのに、その焦げた黒麦パンの前では俺が長年誇ってきた便利さなどなんだかやたらよくできた言い訳の山に見えた。


俺はその時、自分が一番大事なものをずいぶん遠い場所に置き去りにしてきたことに気づいたんだ。


世界中の魔法を覚えることに夢中で、世界そのものを味わうのを忘れていたのだ。


だから今は、こうしている。魔法を使わずに火を起こして井戸から水を汲み、粉をふるい、塩を量り、指先が重くなるまで生地をこねてひたすら発酵を待つ。窯の前で汗をかいてまだ眠たげな町の空気に一番最初の焼きたての匂いを流し込み、誰かの朝に間に合うようにパンを焼いている。


たぶん俺は遅ればせながら、世界と仲直りしているのだと思う。


……などという話を全部まともに口に出すと、だいたい場が妙にしんみりして、客が塩バターロールを買う手を止めたり、衛兵が黒麦パンを前に人生を振り返り始めたり、子供が「おじさん、昔なにか悪いことしたの?」と純粋な目で聞いてきたりして非常に売りにくくなるので、俺はリリアナに向かってできるだけ短く答えた。


「まあ、パンの方が嘘をつかないからな」


「急に深いことを言わないでくださいまし!? こっちはまだ林檎カスタードの熱と戦っている最中ですのよ!?」


台無しである。いや、台無しにしてくれて助かったと言うべきかもしれない。しんみりした空気というのはパン屋にとって意外と扱いに困るからな。焼きたてのパンはできれば涙ではなく空腹と一緒に渡したいものだ。


その時青い外套の男が、いかにも「ここから本題です」とでも言いたげな咳払いをした。


「アルト・レヴァン殿。私は王立魔法協会外務監査官、セドリック・オーウェンです。あなたに同行願いたい」


「断る」


「まだ内容を説明していません」


「同行という言葉が出た時点で、だいたい面倒だと相場が決まっている。俺は今日、昼までこの広場でパンを売り、午後には隣町へ向かい、夕方までに川沿いの少し開けた場所で野営し、明日の朝には干し葡萄パンを焼く予定がある」


「予定が具体的ですね」


「具体的な予定は人生を守る。曖昧な予定は厄介事の侵入口になる」


「王都では、あなたの力を必要としています」


「王都はいつも誰かの力を必要としている。税を集める時も、魔獣が出た時も、王子がまた変な婚約をした時も、古文書の封印が勝手に光り出した時も、だいたい誰かの力を必要としている。俺でなくてもいいだろ」


「あなたでなければならない可能性が高い案件です」


「その言い方、絶対に厄介なやつだな」


「厄介ではあります」


セドリックは素直だった。


素直な厄介事というのは、隠してくる厄介事より少しだけ質が悪い。なぜならこちらが「どうせ大したことではないのだろう」と逃げるための足場を最初から誠実さで崩してくるからである。嘘をつく悪人なら遠慮なく扉を閉められるが、真面目な顔で困っていますと言ってくる役人はなかなか追い返しにくい。王立魔法協会の人間にしてはそこをよく心得ている男だった。


「七海の潮位が、この三ヶ月で不自然に変動しています。各大陸沿岸部の灯台魔石は同時期に乱れ、航路を守る結界網には原因不明の空白が発生しました。さらに星墜大陸ルミナリア方面で、古代術式に由来すると思われる光柱が複数回観測されています」


「へえ」


「へえ、ではありませんのよ!?」


リリアナが、口元に林檎カスタードのクリームをつけたまま割り込んできた。世界規模の異常に対する緊迫感と口元の甘い白い点がまったく両立していなかったが、本人は真剣そのものなので黙っておくことにする。


「七海と七大大陸を巡る魔力循環に異常が出ているということですわ! これは教科書なら太字で載る事件ですの! 章末問題にもなりますわ!」


「教科書はすぐ太字にしたがるからな」


「そこではありませんわよ!?」


「つまり、世界のどこかで古い仕組みが動き始めているかもしれない、という話だろ」


「理解が早くて助かります」


「理解したから行くとは言っていない」


俺は販売台の下に置いていた布をめくり、焼き上がったばかりの干し肉入りパンを取り出して籠の中へひとつずつ並べた。表面はほどよく張り、割れ目からは肉の脂がじゅわりと染み込んでいる。黒胡椒と焼けた小麦の香りが広場の空気へ遠慮なく広がっていくその瞬間、さっきまで七海だの七大大陸だの魔力循環だのといかにも世界が終わりそうな単語に顔をしかめていた町の人間たちがそろってこちらを見た。


あ、あれ新作じゃないか。


そういう目だった。


お前らもよく見ろ。世界はたぶんお前らが思っているほど簡単には終わらないぞ?なぜならどれほど壮大な危機が海の向こうで柱になって光っていようと、どれほど古代術式が目を覚まそうと、どれほど王立魔法協会の外務監査官が真面目な顔で俺を連れて行こうとしていようと、焼きたての肉入りパンの匂いに反応してしまう人類がまだここにちゃんといるんだからな。


「王都に戻るつもりはない。魔法協会の会議室は椅子が硬いし、議事録が長いし、偉い人間ほど前置きが長いんで」


「それは否定しません」


「否定しろよ、協会の人間だろ」


「事実ですので」


「じゃあなおさら行かない」


「しかし、あなたの知識が必要です」


「俺の知識より、現場を見ろ。潮位が乱れるなら海辺の漁師に聞け。灯台魔石が乱れるなら灯台守に聞け。結界網に空白があるなら、そこを通る船乗りに聞け。古代術式の光柱が出たなら、近くで羊を追っていた羊飼いが何か見ているかもしれない。机の上で世界地図を睨むより、靴底を減らした方がいい」


「……それは、あなたが旅に出るという意味ですか」


「違う。一般論だ」


「一般論にしては、かなり実践的ですが」


「俺はパンを売るために旅をする。ついでに何か見かけたら、まあ、覚えておくくらいはする」


セドリックはしばらく黙り、それから小さく息を吐いた。


「では協会としては、あなたの移動販売活動に干渉しない代わりに、七海と七大大陸を巡る道中で得た情報を可能な範囲で提供していただく、という形で交渉できませんか」


「報酬は」


「協会予算から正式に」


「金はいらない」


「では何を」


「良い小麦粉の入手先、各地の名物食材、港での出店許可、あと王都の役人が俺の販売車を見てすぐ書類を増やそうとするのを止める書状」


「現実的ですね」


「パン屋だからな」


「最後の書状については、非常に難しいです」


「そこが一番大事だろ」


セドリックは真顔で考え込んでいた。


王立魔法協会外務監査官という肩書きだけ聞けば、古代魔王の再封印だの暴走した魔導炉の停止だの、国境付近で不穏に増殖している半透明の巨大キノコの調査だの、そういういかにも世界の均衡を守っていますという顔つきの仕事に頭を悩ませていそうなものだが、今の彼が眉間に深い皺を刻んで見つめているのは残念ながら世界の危機ではなく、俺の移動販売車をこの宿場町ラナクの広場に正式出店させるための申請書類一式である。


人類の叡智が結集された王立魔法協会の権威も、結局のところ、露店営業許可欄の押印漏れには勝てないらしい。


なかなか味わい深い光景だった。


これも旅の醍醐味というやつだろうか。


……いや、多分違うな。少なくとも吟遊詩人が酒場で歌にする類いの醍醐味ではない。仮に歌にされたとしても、二番の途中で客が眠る。


その時だった。


広場の鐘楼の上で、朝からずっとこの町の平和を誰よりも高い場所から見守っているような顔をしながら実際には腹を日なたに向けて寝ていただけの灰色の猫が、突然ばさりと尾を膨らませた。猫は一瞬だけ空に向かって耳を伏せると、まるで見えない何かに尻を蹴られたような勢いで屋根瓦を蹴って鐘楼の縁を滑るように渡り、さらに一段高い飾り柱の上へ飛び移った。


俺は焼き上がったばかりの干し肉入りパンを籠に並べかけていた手を止めた。パンの表面にはまだ石窯の熱が薄く残っていて、細かく刻んだ香草と干し肉の脂がほどよく馴染んでいる。これから通りがかりの荷運び職人か腹を空かせた見習い兵士あたりの胃袋をたいへん平和的かつ合法的に支配する予定だったのだが、そういう幸福な予定というものはだいたい厄介事の前では焼きたての湯気くらいあっさり散ってしまうものだ。


反射的に空を見上げる。


空は晴れていた。雲は薄く、風は北東から穏やかに流れている。遠くの丘の向こうでは朝日が麦畑の端を金色に撫でていて、普通のパン屋ならば「今日は洗濯物がよく乾きそうだな」とか「昼までに蜂蜜パンを追加で焼いておくか」とか、その程度の健全で生活感のある感想を抱いて済ませていいはずの天気だった。


しかしその風の中に、あってはならないものが混じっていた。


海の底で百年ばかり錆び続けた鉄を舐めたような味。古い墓石の隙間に溜まった雨水を、誰かが悪意を込めて煮詰めたような臭い。そして魔法使いなら見習いの初日に嗅がされて二度と忘れなくなる種類の、歪んだ魔力のざらつき。


ラナクは内陸の宿場町だ。潮の香りが届くには山も森も税関も行商人の愚痴も挟まりすぎているし、ましてや古代術式が目を覚ます時に漂わせる、あの石棺の蓋を内側から爪で引っ掻くような嫌な残響など町の広場に置かれた噴水から気軽に湧いてきていいものではない。


「……面倒くさいのが来たな」


俺がそう呟いた瞬間、広場の中央に据えられていた古い噴水の水面が不自然に盛り上がった。まるで底のほうから巨大な手のひらで押し返されたように丸くぬるりと膨らんだかと思うと、次の瞬間ばしゃりという水音だけをその場に置き去りにして細い水柱が空へ向かって逆流した。


水は落ちるものだ。少なくとも、俺がパン屋として営業している時はそうであってほしい。水が勝手に空へ昇り、しかもその内側に青白い文字列を何重にも浮かべながら回転するなどもってのほかだ。噴水の縁に刻まれていた古代文字と噛み合ってありもしない歯車をぎちりぎちりと回すように術式を展開し始めるのは、明らかに水道設備の不具合ではない。


町の人々が悲鳴を上げた。朝市の屋台が慌ただしく揺れ、積まれていた林檎がころころと石畳を転がっていく。香辛料売りの婆さんが商売道具の袋を抱えて後ずさりし、つい先ほどまで俺の干し肉入りパンを買おうとして銅貨を握っていた少年はその手を伸ばした姿勢のまま口を半開きにして固まっていた。


気持ちはわかる。俺だってできることなら固まりたい。ついでに「本日の営業は終了しました」と札を出して販売車の戸を閉め、焼きたてパンの在庫確認という極めて重要な業務に専念したい気分である。


「古代術式ですわ! しかも自律起動型、媒介は水、基礎属性はおそらく水と土、でもこの文字列、学院で習ったものよりずっと古くて――」


リリアナが、興奮と緊張を半分ずつ混ぜた声で叫んだ。さすがは魔法学院育ちのお嬢様である。目の前で噴水が怪しい光を放って空へ水を噴き上げている状況でもまず分類と分析から入るあたり、教育というものの恐ろしさを感じる。


「リリアナ、説明はあとだ。子供を下げろ」


「は、はいですわ!」


リリアナはすぐに杖を構え、広場を撫でる風を薄い布のように広げた。風は悲鳴を上げる人々の背を乱暴に押すのではなく、肩をそっと押しながら足元を軽くすくい、逃げる方向だけを自然に示すように流れていく。子供たち、荷運びの男、野菜売りの夫婦、さっきまで値切り交渉に全人生を懸けていたらしい老婆までがその風に導かれて噴水から距離を取った。


セドリックは細剣の柄に手をかけ、青外套の裾を払うようにして一歩前へ出た。その横顔からさっきまで出店許可書の押印欄について真剣に悩んでいた男の気配は消えている。職務に忠実な男だ。塩パンを食べながら取り調べをする点と、焼き菓子を前にすると監査官としての威厳が若干ゆるむ点を除けばわりと頼りになる。


俺は販売台を軽く叩き、まだ状況を飲み込めずにこちらを見ている客たちへ声をかけた。


「はいはい、慌てない。パンは逃げないし、噴水はたぶん逃げる。銅貨を握ってる人はそのまま持って、荷物がある人は隣の人と声をかけ合って、できるだけ広場の端まで下がってくれ。あとそこの少年。干し肉入りパンは取り置きしておくから、今は命を優先しろ。焼きたては大事だが、焼きたてを食う本人が無事であることはもっと大事だからな」


我ながら、たいへん常識的な助言だったと思う。

ただし常識的な助言をしている最中に噴水の上で古代術式がさらに明るく輝き、青白い文字列の隙間から明らかに水でも土でもない骨のような色をした腕が一本ぬるりと突き出してきたことについては、今後の営業妨害として厳重に抗議したいところである。


「パンはあとで売る。今は下がれ。蜂蜜ナッツを落としたやつは俺が拾っておくから、命の方を優先しろ」


「おっちゃん、ほんとに!?」


「おっちゃんではないが本当だ。だから走れ」


少年がようやく我に返って母親の方へ駆け出すのと、噴水の石盤に蜘蛛の巣みたいな亀裂が走るのは、ほとんど同時だった。亀裂の隙間から黒い泥が這い出し、水と砂利と砕けた天使像の羽飾りを巻き込みながらむくむくと獣の形を作っていく。四本足なら犬っぽいと言えたかもしれないが、そいつは足が六本あり、頭が三つあり、背中には噴水の飾りだった石の羽が無理やりくっついていて、口の奥には牙の代わりに古代文字がびっしり並んでいるという設計者の情緒と美的感覚をまとめて洗い直したくなるような姿をしていた。


「な、なんですのあれ!?」


「噴水犬だな」


「いま命名しましたわよね!? 明らかに正式名称ではありませんわよね!?」


「正式名称を待っていたら誰かが噛まれる。だいたい噴水から出てきた犬みたいなものなら噴水犬で十分だ」


「十分ではありませんの!」


リリアナが抗議する間にも噴水犬は三つの頭をずらりとこちらへ向け、喉にあたる部分で水を煮立たせるような音を立てた。魔力が圧縮されていく。あれは吠えるだけでは済まない。泥と水でできた体に古代術式が無理やり攻撃性を与えている。狙いは俺かセドリックか、あるいはこの広場全体か。どれでもいい。パン屋の営業中に出てきた時点で、俺にとっては等しく迷惑だ。


「アルト殿、下がってください。協会監査官として、まずは私が――」


セドリックが言いかけたので、俺は前掛けの紐をほどきながら首を振った。


「いや、いい」


「しかし」


「俺の店の前だ。俺の客の前だ。あと、あいつは俺の噴水ではないが、俺の朝市を台無しにした」


「理由の三つ目が最も個人的ですね」


「戦う理由は個人的な方が力が入る」


見た目だけで言えばどこにでもいそうな“青年”アルトは、粉のついた前掛けを販売台の端へ無造作に置きながら掌についた小麦粉をぱん、と軽く払った。


たったそれだけだった。


剣を抜いたわけでもない。杖を掲げたわけでもない。古代語の詠唱を始めたわけでも、魔法陣を描いたわけでも、足元に七色の光が広がって天啓めいた音楽が鳴り出したわけでもない。ただパン屋が仕事の区切りに手を払っただけのどこにでもある、ひどく平和で、商店街の午後に似つかわしい動作だった。


にもかかわらず、広場の空気は一段重くなった。


正確には空気そのものが沈んだのではない。アルトの周囲だけ魔力密度が一瞬で書き換わったのだ。普段の彼は自分の魔力を極限まで薄く引き伸ばし、焼きたてのパンの香りと木造の移動販売車と粉まみれの前掛けの中にほとんど見えない膜のように畳み込んでいる。だからこそ通りすがりの子供には「クリームパンのおじさん」と呼ばれ、衛兵には「黒麦パンをもう少し柔らかくできないか」と相談され、王立魔法協会の索敵班には「対象、異常なし。ただの勤勉な個人事業主」と見逃されているわけだが、その膜を彼は指先で布をめくるようにほんの少しだけ開いた。


その瞬間、世界が思い出した。


火は彼の名を知っていた。水も、風も、土も、雷も、光も、闇も、ついでに時空、召喚、結界、錬金、治癒、禁呪解析、神性分解、竜脈調律、王都三百年分の魔導防壁の癖に至るまで、久しぶりに親戚の集まりで顔を合わせた面倒な一族のように、いっせいにこちらを向いた。


アルト本人はその気配に、心底うんざりした顔をした。


昔の知り合いというものは厄介である。とくにこちらが穏やかにパンを売って暮らしている時に、「最近どうしてたの」「まだ世界の法則を手で曲げてるの」「今度うちの結界も見てよ」みたいな顔で寄ってくる元素や概念ほど距離感を知らないものはない。


「……あの、アルト先生」


震えを含んだ声で、リリアナが呼んだ。


「先生じゃない」


アルトは即答した。


「いま、ものすごく自然に魔力を出しましたわよね?」


「出したな」


「魔法は使わないのではありませんでしたの!?」


彼は肩を一度だけ回し、噴水から生まれた犬もどきの六本足が濡れた石畳をがりがりと掻く音を聞きながら、たいへん当然のことを説明する顔で答えた。


「パンには使わない」


「限定条件が急に明らかになりましたわ!?」


「当然だろ。パンに魔法を使ったら、発酵も焼き目も香りも全部ずるになる。酵母が頑張って膨らむ時間を、術式で横からねじ曲げるなんて職人としてどうかと思うし、焼き色を火炎制御で均一にするのは、もはや料理ではなく火属性による事務処理だ。だが噴水から出てきた趣味の悪い犬もどきにまで手ごねの精神を適用するほど、俺は職人気質をこじらせていない」


「そ、そういうものですの……?」


「そういうものだ。戦闘は別料金だ」


その瞬間、噴水犬が吠えた。


ただの咆哮ではなかった。三つの口から同時に吐き出されたのは音ではなく、極限まで圧縮された水刃である。透明な刃は三日月のような弧を描き、石畳の表面を薄く削りながら広場を斜めに切り裂く速度で飛んできた。


並の魔法使いなら、見えてから防御結界を張るのでは間に合わない。熟練の冒険者でも盾で受ければ盾ごと肘まで持っていかれる。王都の訓練場で披露されれば教官が眉を上げ、実戦経験の浅い兵士ならその場で退役届の書式を思い出す程度には速度も質量も殺意も備わっていた。


街の噴水から出てきたわりに、たいへん本格的な迷惑である。


アルトは右手を持ち上げた。


構え、と呼ぶには雑だった。防御姿勢、と呼ぶには気が抜けていた。むしろ焼き上がったパンを棚に戻す前に、指先についた粉を払う時の動きに近い。そのまま彼は人差し指と親指を合わせ、軽く鳴らした。


ぱちん、という乾いた音が広場に落ちた。


水刃は、彼の目の前で止まった。


いや、正確には止められたのではない。


止めるなどという力任せの処理をアルトはしなかった。彼は水刃を構成する水分子の結合角度、魔力の流路、外縁を保つ圧力の向き、術式核の回転速度、そのすべてを一瞬で読み取り、力をぶつけるのではなく進行方向と保持構造をほんの少しだけずらした。


ほんの少し。


パン生地に塩を入れ忘れた時の修正よりも小さく、発酵棚の湿度を一分だけ見誤った時よりも控えめで、寝ぼけた職人が焼き上がりの色を見て「あと二十秒」と呟く程度のささやかな調整だった。


すると、殺傷力を持って飛んできた水刃はいきなり自分が何をするために生まれたのか忘れたように形を失った。刃だったものは刃であることをやめ、圧力だったものは圧力であることをやめ、広場にいた人々が悲鳴を上げるより早く、さらさらと細かい霧になって石畳へ降り注いだ。


頬に触れたそれは、少し冷たかった。


「はい、打ち水」


アルトは涼しい顔で言った。


「涼しげな顔で攻撃魔法を霧にしないでくださいまし!?」


「攻撃魔法じゃない。あいつのは魔法以前に術式の組み方が雑だ。水を刃にするなら、水圧と魔力密度を合わせる前に外縁を閉じないとこうなる。見た目だけ刃にしても、保持線が甘ければ横から一ミリ触っただけで崩れる。料理で言えば、包丁の形をした寒天だ」


「授業ですの!? 今これ授業ですの!?」


「授業料は林檎カスタード二つ分でいい」


「安いのか高いのか分かりませんわ!」


噴水犬は自分の渾身の一撃が広場の気温をほんの少し下げるだけの公共サービスに変換されたことが不満だったらしく、三つの頭をそれぞれ別方向へ振った。


噴水の水盤から排水溝の奥から、周囲の水が吸い上げられていく。石畳の隙間に残っていた雨水、屋台の壺に張られていた洗い水まで、目に見える水も見えない水も細い糸のようになって犬もどきの身体へ集まっていく。


胴体が膨らんだ。


最初は大型犬ほどだったそれが牛を越え、馬車ほどになり、やがて小さな家屋を押し潰せそうな巨体へ変わっていく。背中に貼りついていた石の羽は、ばきばきと音を立てながら広がり、六本の足は太い柱のように石畳へめり込みながら三つの口からは水蒸気混じりの唸りが漏れた。


見物人たちはそこでようやく理解した。


これはただの魔物騒ぎではない。並の冒険者が数人がかりで囲んで勝てる相手ではなく、町の衛兵が笛を吹きながら駆けつけてどうにかなる案件でもなく、王立魔法協会に緊急通報して担当部署が会議を開き、責任者が印章を押して結界班と討伐班と後始末班が出動する頃には広場が更地になっている類いの災害である。


しかし、アルトだけは別の心配をしていた。


ああ、まずい。


非常にまずい。


あの巨体で暴れられると、広場の屋台が潰れる。焼き菓子屋の看板も折れる。子供たちに人気の飴細工の馬も無事では済まないし、何より彼の移動販売車とまだ売っていないチーズパンが危ない。


魔法史に名を残す大魔導師が、七大大陸を揺るがすほどの魔力を指先一本で扱える男が、その時もっとも真剣に守ろうとしていたものは、世界の平和でも王都の秩序でもなく、今日の昼前に焼き上げた表面にこんがり焦げ目のついたチーズパンだった。


アルトは小さく息を吐き、販売台の上に置いた前掛けを一瞥した。


そして、まるで焦げそうなバゲットを窯から取り出す時のような手つきで右手を前へ伸ばした。


「セドリック、封印布は持ってるか」


「あります」


「リリアナ、風で人を下げ続けろ。あまり強く押すな、老人が転ぶ」


「承知しましたわ!」


「あと、俺の販売車に傷がつきそうだったら叫べ」


「人命より販売車の優先順位が高くありませんこと!?」


「人命は俺が見る。販売車はお前が見ろ」


「その信頼の仕方、雑ですわ!」


噴水犬が六本ある前足のうち最も太い一本を、まるで広場そのものを叩き潰すために生まれてきた杭打ち機のような勢いで振り下ろした。石畳はただ割れたのではない。圧力に負けた表層が白い粉を吹き、次の瞬間には蜘蛛の巣状の亀裂が走り、その隙間から跳ね上がった泥水と砂利と石片が、朝市の屋台、逃げ遅れた衛兵、腰を抜かしかけた町人たちへ向かって、鋭い弾丸のように飛び散った。普通の魔法使いならこの段階で防御結界を張る。腕のいい騎士なら盾を構える。冒険者なら、せめて横へ跳ぶ。しかしアルトは、その場から一歩も動かなかった。


彼は、左手を少しだけ持ち上げた。


空中に描かれたのは、魔法陣と呼ぶにはあまりにも短く、術式と呼ぶにはあまりにも素っ気ない、ほんの小さな円だった。神殿の壁に刻まれる荘厳な紋様でもなく、学院の教授が黒板いっぱいに展開して見せる多重演算式でもなく、貴族魔法士が指輪や杖の補助を受けて描く優雅な軌跡でもない。強いて言うなら、焼く前の丸パンの表面に火の通りをよくするため浅い切れ込みを入れる時の、職人じみた手癖に近かった。


しかし、その一筆で広場の空気が変わった。


いや、変わったというより、世界の側が一瞬だけ姿勢を正した。砕けた石片は人々へ届く寸前でぴたりと進路を曲げ、まるで見えない糸に引かれたようにアルトの足元へ集まった。泥水は弧を描いて反転し、飛ばした本人である噴水犬の三つ首へ容赦なく降りかかり、振り下ろされた巨大な前足は、アルトの頭上わずか数歩のところで、見えない床にぶつかったように中空で停止した。


この時点で、リリアナの理解は一度置き去りにされた。


「結界……いえ、違いますわね、これは空間固定?でも、詠唱も陣も媒介もなしで、そんな精度の固定なんて――」


学院で習う魔法とは、本来もっと手間のかかるものだ。魔力を練り、意志を言葉にし、言葉を式に変え、式を世界へ通す。火を呼ぶなら火の属性式を、水を操るなら水の媒介式を、空間を固定するなら最低でも三層以上の座標指定と、術者自身を基準点にしないための補助陣が必要になる。そうしなければ魔力は散り、術式は暴れ、結果として火球は術者の前ではなく背後に出たり、結界は守るべき人間ではなく近くの樽だけを守ったりする。魔法とは便利な奇跡などではなく、世界へ命令を通すための、面倒で融通が利かず、しかも少しでも書式を間違えると容赦なく失敗する技術なのだ。


しかしアルトは、その書式を省略した。


省略したというより、彼にとっては、世界へ命令するための前置きが必要なかった。火に対して「燃えろ」と命じる前に、火がなぜ燃えるのかを知っている。水に対して「流れろ」と命じる前に、水がどこへ流れたがっているのかを知っている。空間に対して「止まれ」と命じる前に、空間がどの一点を基準に折れ曲がればいいのかを知っている。普通の魔法使いが扉を叩き、名乗り、許可を求めてから入る場所へ、アルトは昔なじみの厨房へ戻るような顔で入っていく。


「リリアナ」


アルトが頭上に巨大な泥の前足を止めたまま、何でもないことのように言った。


「はいですわ!?」


「口が開いてる」


「だって開きますわよこれは!」


「虫が入るぞ」


「この状況で気にするの、そこですの!?」


リリアナが叫ぶ間にも、アルトはゆっくりと噴水犬の前足の下へ歩いていった。頭上では泥と水と古代文字でできた爪がぎちぎちと震え、見えない固定を破ろうとしている。だが、破れない。なぜならアルトは前足そのものを止めているのではなく、前足が「振り下ろされる」という結果へ進むために必要な空間の連続性を、薄皮一枚だけ剥いで別の場所へ置いているからだ。力で押し返しているわけではないので、どれだけ噴水犬が暴れても意味がない。扉を押しているつもりで壁を押しているようなものだった。


アルトは、その泥の爪に指先を触れさせた。


軽く、弾く。


ぱきん、と菓子の飾りが割れるような音がした。


次の瞬間、爪だけが砂糖細工のように崩れ、泥水と石粉になって地面へ落ちた。派手な爆発はない。炎も雷もない。だが、リリアナとセドリックには分かった。今の一撃は、ただ壊したのではない。噴水犬を覆っている古代術式の外殻、そのうち爪という形を維持していた一枚だけを、構造ごと剥がしたのだ。人間で言えば鎧の留め具だけを外すようなもの。城で言えば、壁を壊さず門の鍵だけを抜くようなもの。乱暴に破壊するよりはるかに難しい。


「外殻を……剥離した?」


セドリックが、ほとんど独り言のように呟いた。


「しかも力任せではなく、構成式の継ぎ目を触っただけで……」


噴水犬は痛覚に似た反応を持っていたらしく、三つの頭を同時に振り乱し、空中で止められていた前足を無理やり引き抜こうと暴れた。水と泥が周囲へ撒き散らされ、背中にくっついた石の羽が軋み、古代文字が獣の毛並みのようにざわざわと逆立つ。広場の人々が、再び息を呑んだ。


アルトは、そこでようやく少しだけ目を細めた。


「うるさい」


その一言に、魔力が乗った。


広場全体が、静止した。


時間が止まったわけではない。アルトが時空魔法を本気で使えば、空の鳥も、落ちる水滴も、驚いて半開きになったリリアナの口も、絵画のように完全停止させることはできる。けれども彼はそんな大げさなことをしなかった。今の彼が行ったのは、噴水犬を構成する魔力の振動数だけを、周囲の空気、石畳、水音、逃げる人々の足音、そして広場に満ちる朝のざわめきから切り離し、自分の声に同期させるという、聞いただけなら簡単そうで、実際には狂気じみた精度を要求される干渉だった。


魔法とは、突き詰めれば「命令」である。


火よ燃えろ。水よ集まれ。風よ切れ。土よ固まれ。光よ照らせ。闇よ隠せ。そうした命令を、魔力という墨で世界に書き込む技術が魔法だ。だが古代術式は、その命令文が古すぎる。古すぎるうえに、言葉の主語も目的語も曖昧で、現代魔法士が正面から読み解こうとすれば、それだけで数日は机にかじりつくことになる。ところがアルトは読まなかった。読まずに、音を合わせた。噴水犬の体を動かしている命令文の響きだけを拾い、そこへ自分の声を割り込ませたのだ。


だから、アルトの「うるさい」は、ただの苦情ではなかった。


それは噴水犬の体を動かしている古代術式に対して発せられた、より上位の命令だった。


六本の足が、がくんと止まる。三つの頭が、口を開けたまま固まる。背中の石羽から水滴が一つ落ち、石畳に当たって小さく跳ねる音だけが、やけに大きく広場へ響いた。


「な、ななな、なんですの今の!?」


リリアナの声が裏返った。


「静かにさせた」


アルトは当然のように答えた。


「犬のしつけみたいに古代術式を黙らせないでくださいまし!」


「しつけは大事だ。噛む犬は特に」


「噴水犬という名前が定着しそうなのが嫌ですわ!」


「もう定着しかけてるぞ」


「責任を取ってくださいまし!」


セドリックは細剣を構えたまま、信じられないものを見るような顔でアルトを見ていた。王立魔法協会の外務監査官として、彼は数多くの魔法使いを見てきた。天才と呼ばれる若者も、老練な宮廷魔導士も、戦場で術式を組む実戦派も知っている。しかし今のアルトは、そのどれとも違った。魔力が大きいだけではない。術式の知識が深いだけでもない。彼の戦い方は、敵より強い魔法をぶつけるという単純なものではなく、敵の魔法が「なぜ成立しているのか」を一瞬で見抜き、その成立条件を指先ひとつ、言葉ひとつでずらしてしまうものだった。


強い魔法使いは、山を焼く。


賢い魔法使いは、山を焼かずに道を作る。


アルトはそもそも山がそこに立っている理由を読み取り、山自身に「少し横へ退いてくれ」と言ってしまう種類の魔法使いだった。


「アルト殿。今のは、命令系統の上書きですか」


セドリックが、慎重に尋ねた。


「半分正解だな」


アルトは噴水犬を眺めたまま言った。


「こいつは完全な自律型じゃない。どこか遠くにある親機みたいな術式から、雑に信号を受けている。だから、受信中の耳元で大声を出してやった」


「大声、という規模ではありません」


「俺にしては小声だ」


「……それは、脅しとして受け取るべきでしょうか」


「パン屋から客への脅しは、売り切れだけで十分だ」


軽口は軽く、表情も眠たげなままだ。しかし広場の空気は、もう誰も彼をただの移動販売のパン屋とは見ていなかった。前掛けを外しただけの青年が、いまこの場の生殺与奪を握っている。しかも本人は、その事実に酔うどころか、早く片づけて営業を再開したそうな顔をしている。それが、かえって異様だった。


噴水犬の腹の奥で、青白い核が光った。


それまでの暴走とは、明らかに質が違った。泥の体を動かして牙を作り、水刃を飛ばしていた粗い魔力の流れが、急に一本の細い管へ押し込められたように収束し始める。核の周囲にこれまで隠れていた複雑な文字列が走り、術式が一段深く潜った。外側の獣の形を捨てながら中枢だけを圧縮し、広場ごと吹き飛ばすための準備へ移行している。


遠隔側が、アルトの介入に気づいたのだ。


「まずいですわ! 魔力圧が跳ね上がっていますの!」


リリアナが叫んだ。


「アルト殿、退避を!」


セドリックが声を張る。


「退避したら販売車が吹っ飛ぶだろ」


アルトは歩き出しながら言った。


「そこですの!?」


「そこもだ。あと、町も吹っ飛ぶ」


「順番が逆ではありませんこと!?」


「人も町も販売車も、吹っ飛んだら困る点では同じだ」


「同じ棚に並べないでくださいまし!」


リリアナが何かを言い返そうとしたが、アルトが手で制したため、それ以上は声にならなかった。セドリックも剣を構え直したが、やはり踏み込むことはできなかった。ここから先は、斬る、守る、撃つといった戦いの領域ではない。術式の内側へ潜り、相手の核を壊さず、しかし自爆だけを止め、しかも周囲の人間と建物と、ついでに焼きたてパンを巻き込まないように処理しなければならない。王立魔法協会の緊急対応班が十人いても、まず避難を優先し、次に被害範囲を計算し、最後は結界で爆発を受け止めるか、核ごと消し飛ばすしかない場面だった。


アルトは受け止める気も、消し飛ばす気もなかった。


彼はただ、噴水犬へ向かって歩いた。


術式の圧縮が進み、泥の体が内側から光り始める。青白い光は、裂け目から漏れ、石畳の水たまりに反射し、逃げ遅れた人々の顔を不気味に照らした。その光景を、アルトは昔から知っていた。古代遺跡の暴走。禁呪の失敗。魔導炉の臨界。世界を便利にしようとして、世界を半分焦がしかけた賢人たちの後始末。彼にとってそれらは、英雄譚というよりひどく手間のかかる後片づけの記憶に近い。


懐かしいが、懐かしむには朝が早すぎた。


アルトは右手を差し出した。


「ほどけろ」


たったそれだけで、噴水犬の体を走っていた古代文字が、びくりと震えた。


命令ではなく、解体の合図だった。


「第一層、媒介固定」


噴水の水が空中で静止した。水とは流れるものだという当たり前を、一時的に棚上げされたかのように、飛び散っていた水滴までもが透明な珠となって宙に留まる。まずアルトは、術式が肉体の材料として使っていた水を、獣の支配から切り離したのだ。


「第二層、属性結合」


泥と砂と石片が分かれた。水と土が混ざって獣の肉になっていたものが、本来の材料へ戻されていく。料理で言えば、一度焼き上がったパンを小麦粉と水と塩に戻すような無茶だが、アルトはそれを古代術式相手にやってのけていた。


「第三層、命令中枢」


三つの頭が同時に崩れ、口の奥に並んでいた古代文字だけが骨格のように浮かび上がった。噴水犬という形は、ここでほとんど意味を失った。獣の姿は威嚇であり、外装であり、命令を運ぶための器でしかなかったのだ。


「第四層、遠隔接続」


空中に細い青い糸が現れ、北東の空へ向かって伸びた。それは魔力の通信路だった。誰か、あるいは何かが、遠く離れた場所からこの噴水犬へ信号を送っている。セドリックが息を呑む。リリアナはその糸を見た瞬間、記録用の魔導紙を取り出しかけて、今それどころではないと気づいて慌ててしまった。


「第五層、偽装殻」


水面に映っていた別の文字列が、剥がれ落ちた。見えていた術式は表面に過ぎず、その下にはまったく別の構造が隠されていた。遠隔側は、発見されることを前提に偽の術式を被せていたのである。


「第六層、爆縮準備」


核がむき出しになった。


青白い石片のようなそれは、小さい。子供の拳にも満たない。だがその中には広場を吹き飛ばすには十分すぎる魔力が、極限まで圧縮されていた。ほんの少し扱いを間違えれば、爆発する。力任せに壊せば、爆発する。封印しようとして術式が反発すれば、やはり爆発する。つまり、普通は詰んでいた。


「第七層――」


そこでアルトは、少しだけ笑った。


本当に、少しだけだった。


「雑だな」


アルトは指を鳴らした。


今度の音は、さっきの比ではなかった。ぱちん、という軽い音のはずなのに、広場の空気が巨大な鐘の内側に入ったように震え、噴水の水滴一つ一つが小さな鏡になり、その鏡の中に、火、水、風、土、雷、光、闇の七属性が一瞬だけ宿った。だが、それは七色の光が派手に輝くような分かりやすい奇跡ではなかった。色ではなく、温度、重さ、匂い、音、触れた肌の感覚として、七つの属性が同時に存在した。


炎は燃やさずに、核の余分な熱だけを奪った。


水は濡らさずに、暴れようとする魔力の形を縛った。


風は吹かずに、遠隔接続の境界を切った。


土は固めずに、核の重心を抜いて爆縮の方向をずらした。


雷は走らずに、術式が次に行うはずだった演算だけを焼いた。


光は照らさずに、偽装された命令文を暴いた。


闇は隠さずに、不要な接続と残った悪意を飲み込んだ。


七つの属性が、七つの刃として暴れたのではない。七人の職人が、それぞれの持ち場で無言の仕事を終えるように、必要な場所へ必要な分だけ働いた。強大な魔力で押し潰すのではなく、精密な技術でほどく。これこそが、アルト・レヴァンの戦い方だった。最強の魔法使いとは、最大火力を叩き込める者のことではない。最大火力を叩き込まずに済ませられる者のことだと、その場にいた者たちは言葉ではなく光景として理解させられた。


青白い石片が、ことん、とアルトの手のひらに落ちる。


広場には、何も起きなかった。


爆発も閃光も、轟音もない。噴水犬は消え、泥はただの泥へ戻り、水は噴水の中へ落ち、古代文字は霧散し、壊れた石畳の破片だけが現実的な被害として残った。あまりにも静かで、あまりにも一方的で、あまりにも簡単そうに見えたせいで、誰もすぐには歓声を上げなかった。むしろ町の人々は、いま自分たちは何を見たのか、そもそも本当に怪物など出ていたのか、目の前のパン屋が本当にパン屋なのか、という顔で、ぽかんと立ち尽くしていた。


リリアナだけが、杖を握り締めたまま、唇を震わせていた。


「……七属性、同時展開……」


彼女の声は、感動と恐怖と混乱と、あと少しの嫉妬で忙しそうだった。


「しかも、火力ではなく分解に使った……?七属性を全部攻撃ではなく補助工程に回して、古代術式の核だけを無傷で摘出した……?そんなの、そんなのもう、魔法というより――」


「後片づけだな」


アルトは手の中の石片を眺めながら言った。


「ちょうどいいところで止めないと、汚れるし、焦げるし、あとで面倒になる」


「パンの焼き加減みたいに古代術式を語らないでくださいまし!」


「似たようなものだ。目を離すと膨らみすぎる」


「絶対に似てませんわよ!?」


セドリックは、封印布を取り出しながらも、すぐには近づけなかった。王立魔法協会の監査官として、彼はその石片が危険物であることを知っている。しかしそれ以上に、石片を片手にして平然と立っている青年の方がよほど規格外だと理解してしまった。


「アルト殿」


「なんだ」


「今の術式解体、協会の分類では何に該当するのですか」


「知らん」


「知らない?」


「分類したがるのは協会の悪い癖だ。火を消すのに、水属性と呼ぶか、温度干渉と呼ぶか、燃焼条件の剥離と呼ぶかで揉めている暇があるなら、先に火を消した方がいい」


「……実に耳が痛い」


「あと、噴水から出てきた犬を分類するなら、営業妨害だ」


「そこは魔獣ではなく?」


「魔獣でも古代術式でもいいが、俺の店先で暴れた時点で営業妨害だ」


リリアナは、まだ震える手で魔導紙を取り出そうとして、インク瓶を落としかけ、慌てて拾い直した。


「アルト先生、いまの、もう一回ゆっくり見せていただくことは――」


「嫌だ」


「まだ最後まで言ってませんわ!」


「言う前から嫌な予感がした」


「学術的好奇心ですのに!」


「俺の朝市を二回壊す気か」


「それは……困りますわね」


「分かればいい」


アルトは、ようやく前掛けを取りに戻った。噴水犬を消し、古代術式を解体し、自爆寸前の核を無傷で摘出した男が、次に気にしたのは自分の販売台と、まだ売り切れていないパンの無事だった。彼は籠の中を確認し、蜂蜜ナッツ、塩パン、黒麦、林檎カスタードが濡れていないことを見届けると、ほっとしたように息を吐いた。


その姿を見て、リリアナは思った。


この人は本当に、世界最強の魔法使いなのだ。


そして同時に、本当に、パン屋なのだ。


その二つが矛盾せず同じ人物の中に収まっていることが、何よりいちばん理解しがたく、何よりいちばん恐ろしかった。




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