第25話「お前とやりたくない」
喧嘩の始まりは、些細なことだった。
練習の三曲目、Aメロに入るところで俺と凱のギターがずれた。
「今のお前、走りすぎや」と俺が言った。
「走ってない」と凱が言った。
「走ってる。DEADのカウントより前に入ってる」
「お前がもたりすぎなんや」
DEADが無言で俺たちを見ていた。
「DEAD、どっちや」と俺が聞いた。
DEADはしばらく考えた。
「…両方」
「どっちやねん」とZEROが言った。
「…微妙」
(微妙て。)
もう一回最初から合わせた。
また同じところでずれた。
「やっぱり走ってる」と俺が言った。
「走ってない」と凱が言った。
「凱、もう少し合わせてくれ」
「合わさん」
「なんで」
「このグルーヴの方がええから」
俺は少しイラっとした。
「俺はそのグルーヴやりにくいんやけど」
「お前がやりにくいのはお前の問題や」
(は。)
「俺の問題?」
「そうや。ギタリストが二人おるんやから、俺のグルーヴに合わせてくれてもええやろ」
「なんで俺が合わせなあかんねん」
「俺の方がこのバンドのギターとしてのキャリアが長い」
「キャリアって、同じタイミングで入ったやろ」
「俺の方が先に声かけられた」
(そんな話になるんか。)
ZEROが「まあまあ」と割って入ろうとした。
「ええわ」と凱が言った。スタジオの壁にギターを立てかけて、腕を組んだ。「今日はもうええ」
「なんやねん」
「練習にならん」
「お前が聞かんからやろ」
凱が俺を見た。
目が据わっていた。
「蓮、お前最近変わったな」
「何が」
「レコード屋でなんか教えてもらってから、急に音楽わかったみたいな顔しとる」
(え。)
「そんな顔してへん」
「してる。バウハウスがどうとか、ルーツがどうとか、急に語り始めて。俺はお前のそういうとこが嫌いや」
静かになった。
ZEROも、JUNEも、DEADも黙っていた。
俺も黙った。
凱の言葉が、思いのほか刺さっていた。
「嫌いて」
「嫌いや」と凱は言った。「お前は知識で音楽やろうとしてる。頭で考えて、正解を探して、それを音に当てはめようとしてる。俺はそういう音楽が嫌いや」
「俺はそんなつもりで」
「そういうつもりやろ」
凱はギターケースを掴んだ。
「今日は帰る」
「待てや」
俺は思わず立ち上がった。
「お前に何がわかるんや」
凱が振り返った。
「何が」
「俺がどういうつもりで音楽やってるか、お前に何がわかるんや」
凱はしばらく俺を見た。
「わからんな」と凱は言った。「お前のことは何もわからん。どこから来たんかも、なんでこんな音楽やってるんかも、何を考えてるんかも。わからんから嫌いなんや」
それだけ言って、凱はスタジオを出ていった。
しばらく沈黙が続いた。
ZEROが口を開いた。
「まあ、今日はしゃあないな」
「そうですね」とJUNEが言った。
DEADは無言だった。
俺はその場に立ったまま、凱が出ていったドアを見ていた。
(わからんから嫌いや。)
その言葉が、頭の中でぐるぐるしていた。
練習はそこで終わりになった。
帰り道、俺は一人で歩いた。
凱の言葉が頭から離れなかった。
(知識で音楽やろうとしてる。頭で考えて、正解を探して。)
否定できなかった。
バウハウスを聴いて、ルーツを掘って、「届くのは生きた時間だけや」とか思って、わかった気になっていた。
でも凱から見たら、それも結局「頭で考えた答え」だったんだろう。
(俺はまだ、頭でやってるんかな。)
川沿いの道に出た。
夜の川が、暗く流れていた。
しばらく歩いていたら、前から人が来た。
凱だった。
(え。)
凱も俺を見て、止まった。
しばらく、二人で黙って見合っていた。
「なんや、同じ道か」と凱が言った。
「そうみたいやな」
また沈黙が続いた。
凱が川を見た。
「俺、小学校の頃から音楽やってた」
唐突だった。
「そうか」と俺は言った。
「親父がギター弾くんや。酒飲みながら、夜中にずっと弾いてた。上手くはなかったけど、楽しそうやった」
「うん」
「俺もやりたいと思って、親父のギター勝手に弾いたら怒られた。でも教えてくれた」
凱は川を見たまま続けた。
「親父、俺が中学の頃に死んだ」
俺は何も言えなかった。
「病気やった。あっという間やった。最後に病院で会ったとき、親父が言うたんや。『お前のギター聴きたかった』って」
夜風が吹いた。
「それから俺、本気でギター弾くようになった。
親父に聴かせるつもりで弾いてる。頭で考えてとか、知識がどうとか、そういうことやない。ただ、弾きたいから弾いてる。それだけや」
俺はしばらく黙っていた。
(そういうことやったんか。)
凱が強がってばかりなのも、誰にも負けたくないのも、全部そこから来ていたんだ。
親父に聴かせるつもりで、ずっと弾いてきた。
(かなわんな。)
俺は転生してきた人間だ。知識を持ってきた。でも凱には、知識じゃ絶対に勝てないものがある。
死んだ親父に聴かせたいという、その一心で弾いてきた時間が。
「俺はお前のことが嫌いや」と凱が言った。「でも、お前の音は嫌いやない」
「どういう意味や」
「お前の音には、何かある。何かわからんけど、何かある。それだけは認める」
凱は川から視線を外して、俺を見た。
「でも頭で考えるのはやめろ。お前の体にある音を出せ。そうじゃないと、俺と一緒にやれん」
俺は少し考えてから言った。
「お前も大概頑固やな」
「お前に言われたくない」
「俺の何が嫌いなんや、具体的に言えや」
「全部」
「全部て」
「全部や」
しばらく沈黙が続いた。
それから、なぜか二人で少し笑った。
「まあ」と俺は言った。「俺もお前のことよくわからんけど、お前の音は好きやで」
凱は何も言わなかった。
でも、少し表情が緩んだ気がした。
「明日、練習来い」と凱が言った。
「行くわ」
凱はそれだけ言って、また歩き始めた。
俺もしばらく川を眺めてから、歩き始めた。
(凱。)
こいつのことが、少しだけわかった気がした。
でも全部はわからない。
それでいい気がした。
昭和の夜風が、川面を静かに揺らしていた。




