7話4 助長
お風呂上り、玄関の鈴が鳴った。
「私が出ます。先生はお待ちください」
蝶二さんは私の返事を待たずに玄関に向かい、足早に戻ってきた。
「生徒さんが来ているのですが、通してもいいでしょうか」
「とりあえず、入ってもらってください」
「分かりました」
玄関まで下りると、訪ねてきたのは梢だと分かった。学校帰りのようだけど、いつもより疲れているように見える。それと、頬が少し腫れている。
「どうしたんですか?」
身をかがめて話を聞こうとすると、梢は顔を真っ赤にした。
「大変! お熱が」
「違う、違うの! 今のはちょっとど……息が切れてただけなの……」
事情がありそうなので、リビングのソファに座らせて話を聞くことにした。
「お風呂上りにごめんなさい……あのね、家出してきちゃった」
「「「え?」」」
私と鹿の子さんと、蝶二さんの声が重なる。
「頬の傷は?」
蝶二さんが聞くと、梢は頷く。梢は、今日あったことを泣きそうになりながら話してくれた。私の判断と蝶二さんの許しで、今日は梢をうちに泊めることにした。夕飯の時間が近いので、鹿の子さんが支度を始める。
「急に来ちゃったのに、夕飯なんて……」
「大丈夫ですよ」
鹿の子さんが声を掛ける。
「うっかり猪目さんがいるときの量の食材を買ってしまったので、食べていただけるとありがたいです」
猪目さんは大人だけど、育ち盛りの運動部の男の子くらいたくさん食べる。初めの頃は遠慮していたみたいだけど、鹿の子さんが察して段々量を増やしていっても喜んで食べきっていて、そのことが発覚した。猪目さんの食べる量に慣れた頃、蝶二さんが代わりにやってきて、料理が余るようになった。蝶二さんはそこまで食べないというのが分かっていても、鹿の子さんはうっかり多く作りすぎてしまうらしい。余りはアレンジされて次の日の朝食になるから問題はないんだけど。
そう話しているうちに梢は落ち着いたみたいで、鹿の子さんの手伝いに行った。良い子だな。
食後のお茶を飲みながら、梢の話を聞いていた。
「日頃からお母さんが厳しくて、心も体も休まらないんですね」
「うん……きっとまた、帰ったら怒られる……」
梢はまだ十四歳なのに、人間界にいた頃の私くらいか、もっと疲れている。カモミールのお茶を飲んで、ふうっと息をつく姿は大人びている。
「あなたが体調管理をできていないのではなく、あなたの母親が体調管理を許していないんです。それであなたが責められるのは間違っています」
蝶二さんはきっぱりと梢のお母さんを否定した。
「でもお母さんも、あたしに色々覚えさせたくて……」
「しっかりと技術を身に付けたいのなら、そのことに集中するべきです。二兎を追う者は一兎をも得ずと言いますが、十兎を追う者も一兎を得られません。もちろん、少しずつ様々な体験をするのも良いことですが」
梢はつらそうな顔をする。
「とりあえず、今日こちらに逃げて来たのは正解ですよ。梢がこれ以上嫌な思いをしなくて良かった。明日から、私たちでご家族や学校にお話しをしますから。今日はゆっくり休みましょう」
私がこう言うと、梢の表情が和らぐ。多分、梢に必要なのは肯定してくれる人だ。蝶二さんは間違ってないけど、お母さんのやり方を完全に否定してしまえば、今まで生きてきた梢も否定することになる。全てを受け入れられるほど私は強くないけど、少しでも多くのことを認めてあげたい。
「梢、私の部屋に来ませんか? 眠くなるまでお喋りしていましょう」
「いいの?」
「先生がよろしいなら」
蝶二さんが言った。
「何で蝶二さんが答えるんですか」
「は?」
蝶二さんは真面目だけど、たまに何を考えているのか分からない。私を守ろうとしてくれているんだろうけど……
私のベッドの横に布団を敷いて、パジャマ姿の私と梢はベッドに並んで腰かけた。私が妖精界に来た次の日、緊張していた鹿の子さんと並んでソファに座ったのを思い出す。梢はあのときの鹿の子さんよりも打ち解けていて、たまにどぎまぎした様子を見せるけど、どちらかというと落ち着いている。何だか、私の方が色々なことを喋ってしまいそう。
それで私は、心配していたことを聞いてみた。
「もしかして、補講なんて開いたから疲れさせてしまいましたか?」
梢は首を横に振る。
「ううん。……あたしが勝手に夜更かししたの」
「どうして?」
「勉強しようと思って」
「中学校の?」
梢はまた首を横に振る。
「塾の」
やっぱり、私のせいだった。今まではぎりぎりのところで耐えられていたのに、私が勉強に力を入れたせいで、耐えられなくなってしまったんだ。
蝶二さんの言う通り、放っておけば良かったんだ。無理な手助けはその稲を枯らしてしまうって、当たり前なことなのに。私は人間界で何を学んで生きてきたんだろう。
「ごめんなさい」
「先生のせいじゃない! あたしが、塾の勉強が楽しいって思ってしただけ。他の習い事よりも楽しいから、ちゃんと取り組もうと思って……」
梢は慌てた様子で言う。私が目の前にいるからついた嘘なのか、本当なのか。私は梢のことを知らないから、判断がつかない。私、なんて頼りないんだろう。せっかく頼ってもらえたのに、情けない。せめて梢を不安にさせないようにしなくちゃ。
「そう言っていただけて嬉しいです。梢がやりたいことを目一杯できるように、私も頑張ります。解決には時間がかかるかもしれませんが、待っていてもらえますか?」
梢は戸惑うように、私を不思議そうに見上げる。
「先生さ、なんでそこまでしてくれるの? あたしが勝手に頼っただけだから、それ以上に助けてくれなくてもいいのに」
「私は人間界からここに来て、鹿の子さんや猪目さんや、蝶二さん、皆さんに助けてもらって暮らしています。とても幸せです。だから、この世界への感謝を行動にしたいんです」
「あたしは何も……」
「梢もこの世界の一員です。あなた一人が苦しむ理由なんてありません」
恥ずかしいことを言った。でもこれは、本当に思っていることで、私が聞きたかった言葉。
どうせ五年もいない世界。だけど日に日に愛しくなってきて、認められたいと思ってしまう。知らないものだらけの世界で怖がっている自分を、もっと愛してほしいと思ってしまう。多分、成績の低い生徒を出したくないというのも、今梢を助けたいっていう気持ちも、そんな欲の裏返しだ。




