十七.廻る、廻る─始─
久々の仕事だ。腕は鈍っていないと思うし、体調も悪くはない。気が進まなくて、滅入るのもいつものこと。かつて、怯えた子供に言われたことのある“バケモノ”の称号が、仕事の前には必ず頭をよぎる。すべて、いつも通り。
ならば、この胸につっかえる不快感は何だと言うのか。言いようのない、この不快な感覚。
今日の獲物である小さな武家屋敷を、夕方の薄闇に紛れて遠目に見ながら、漠然と考える。まるで、この感覚は──
「──ッ」
椿は思わず顔をしかめて舌打ちをした。この感覚、神夜を失ったあの日と同じ感覚──
「くそっ」
短く吐き捨てるように言うと、何だか無性に腹が立って、懐の小太刀を引き抜いて地面に突き立てた。
軽い苛立ちを静めるために、深く呼吸をする。
仕事に感情は命取りだ。面をかぶるように己の感情を隠せ、敵に隙を気取られるな、俺達は戦場の神の傀儡だ、己の直感だけを信じろ、決して視覚に惑わされるな──
神夜の教えを反芻すると、かつての己の甘さが招いた最愛の人の死が脳裏に浮かんだ。忘れてはいけない。戦場での感情は命取りだ。心に刻む。
今回の仕事は、あの屋敷内の男を全て消すこと。全て、と言うところに身の危険を感じないわけではない。男相手の仕事では、やはり体格的にも不利になりやすいのだ。いつも以上に神経を研ぎ澄ましていなければならない分、体力の消耗も激しい。如何に短い時間で確実に終わらせるか、これが今回の仕事の鍵だった。
ふと自らの衣を見下ろすと、鮮やかな朱色が見えた。その毒々しいほどに美しい色を見て、彼女は失笑した。
元々、こんな色の衣など着ていなかった。そもそも、こんなにも派手な色は命取りだ。しかし、戦場で場数を踏むにつれて、かつて着ていた麻の衣はより紅に染まっていった。気がつけば、いつからか“紅の姫”と呼ばれるようになっていた。真っ赤な鮮血で己の衣を染め上げてゆくことから付いた異名。それからだ、神夜に無理を言って紅色の着物を買ってもらったのは。
嗚呼、今日はやけに神夜のことを思い出すなァと独りごちる。これが終わったら、また彼に会いに行こうと自分に言い聞かせるように、軽く頷いた。
日が、暮れる、暮れる。
辺りはもう闇に浸食され始めていた。門前の篝火がちろちろとはぜる音だけが、静寂なその空間を満たしている。
──そろそろ、動くか
不快な感覚を払拭しきれないまま、椿は静かに立ち上がった。
瞬間、辺りを風が駆ける。ざわりと草木の擦れ合う音がして、雲の隙間から月影が覗く。
月が、妖しく微笑んでいるような気がした。