十二.記憶の海─狂─
空が低く唸る。ぽつりぽつりと降り出した雨は、やがてまとまった豪雨となった。ぐしゃぐしゃにかき乱された泥に、足を取られる。
視界が悪い。戦っている相手の顔など、見えるはずもなかった。ほとんどその気配や殺気を頼りに、極力かわす。出来るだけ相手を斬らないでいたかった。そんな甘い考えは捨てなければならないと、解っている。生き残りが居れば、いつ己を打ちに来るか解らない。
それでも──と思う。
一人斬る度に、己の人間的な部分を切り捨てている気がして、恐くなる。いつか、血に狂う、戦場に狂う修羅になってしまうのではないかと、恐怖の波に呑まれそうになる。
──結局己のことばかりじゃぁないか
生暖かい朱色を浴びながら、自嘲した。もしかすると、もうすでに、私は人ではないのかもしれない。
「椿ッ」
雨と敵兵の中に、城の奥に走る神夜の背中が見えた。
「神夜ッ──」
名を呼び、心得たことを伝える。
──一気に片を付ける気だ
奥に行くと言うことは、大将を討ち取りに行くと言うこと。
神夜の後に着いて走り抜ける。彼の通った後には、私と屍しかなかった。
途中、逃げ遅れたのだろう、小さな子供を抱いた煌びやかな衣を纏った女が視界の端に映った。
──斬らなければ
そう思い、一瞬足を止めた。しかし、一瞬の後、私はまた走り出した。自身も恐くてたまらないはずなのに、強い眼差しを私に向けてくる女を、私は斬ることができなかった。
値が張りそうな内装を泥で汚しながら、私達は目的の部屋へ辿り着いた。
一瞬顔を見合わせて、その襖に顔を向けるその刹那に、一気に斬り込む。
手に鈍い感覚がして、見ると、襖の側に控えていた男二人が倒れていた。
神夜は敵将の前に控えているもう二人の男など、まるでその場に居ないかのように、ひたと敵将だけを見つめた。
「さるお方の命につき、貴男を斬らねばならぬ。許せとは言わぬが、恨むなら俺に命を下したあの方をお恨み願いたい」
言いながら神夜は、持っていた刀の露を払い、鞘に収めた。そうして、すらりと二本目の刀を抜刀する。
「……清川か」
敵将が、低く唸るように問うと、神夜は軽く頷いて肯定の意を示した。
「なるほど、清川からも儂は怨まれておったか」 敵は自嘲気味に呟いた。
「解った。ならばお前たちを恨むことはするまい。しかしな」
二人の男が徐々に間合いを詰めてくる。
「生きて帰すわけにはいくまいて」
二人の男が斬り私達に斬りかかって来た。しかし、その動きは私達にとってあまりにも遅すぎた。
必死の形相で上段に振りかぶって向かってきた相手に、私は慌てることなく、刀を中段の構えから低く一歩前に踏み込むことで、丁度喉元に狙いを定めて突いた。
朱色が舞う。
神夜を見ると、彼の方も勝負は一瞬であったようだった。足下には、先程まで人であったものが倒れていた。
敵将に目をやると、彼はニヤリと笑った。笑って、懐からおもむろに小太刀を取り出す。
「戦の中ではなく、やっと帰ってきたこの場所でこれを使うことになろうとはな」
「侍の道ってやつかい」
「そのようなものだな」
神夜が言うと、敵将はがははと豪快に笑い声を上げながら言った。
不意に、笑い声が途切れる。見ると、敵は自らの腹に、自らの手で、深々と小太刀を突き立てていた。
それを見て、神夜は 倒れゆく敵の首筋に刀を滑らかに滑らせた。
「帰ろう、椿」
答える代わりに、私は刀を鞘に収めた。
神夜の顔が、酷く悲しそうだった。