十三.記憶の海─別─
それは一瞬の出来事だった。
後一歩で、城門から外に出ると言うところ。
雨の降りしきる中、神夜がゆっくりと膝をつくのが見える。神夜は己の胸を貫く刃に手を触れ、呆然と、べっとりと手のひらを濡らす紅い液体を見つめている。
彼の後ろに影が見えた。私は無意識に抜刀し、その影を斬り捨てた。斬り捨てたそれは、べしゃりと音を立てて地面に崩れる。
それはあのときの女だった。強い目をして、己の子を守っていた、あの女。
──ゆるさない
事切れる直前、女の口がそう告げた気がした。
地面に伏せるように倒れる神夜をそっと膝の上に抱き起こす。
「神夜ッ……」
呼吸が荒い。降り続く雨が彼の体温を容赦なく奪ってゆくのが腹立たしかった。
「神夜、しっかりしろ。目を開けろ」
言うと、彼は薄く目を開いた。
「神──」
「──泣くなよ」
言われて、己が泣いていたことに気づく。
「ごめんな……一緒に、帰れそうに、ない」
「喋るな。私が医者のところまで連れて行くからッ」
言った声は、叫び声に近かった。
「神夜言っただろう。これが終わったら夫婦になるんだろうッ。私には」
無意識に叫んだその声は、どうしようもなく震えていた。
「私には、神夜しか居ないんだ……」
呟くように言ったその掠れた言葉に、神夜は儚げに微笑んだ。
「そんな顔、するな……」
神夜はそう言って、震える右手私の頬に添えた。私は涙が止まらなかった。
「雨は嫌いだ……だって、神夜の顔が、よく見えない──」
──そうして、私の前から神夜を奪い去ってしまいそうだから
「……俺は……好きだけどな、雨。汚いものをすべて……洗い流してくれる、そんな気が……する……」
神夜の呼吸が徐々に弱まってゆくのが解る。私は彼を失うのが恐くて、彼をぎゅっと抱きしめた。
「なぁ椿、俺の罪も──この雨は、流して……くれる、だろうか」
耳元で神夜の泣きそうな声が聞こえる。
「あぁ、きっと。きっと流してくれる。だから──」
抱きしめながら、確実に弱ってゆく彼にそう告げる。
「──いかないでくれ、私を置いて、いかないでくれ。お願いだから──」
微かに神夜が笑った。
「椿」
ふつりと、神夜の言葉が途切れる。
「神、夜」
神夜の顔は微笑んでいた。しかし、目は閉じられたままだった。
「神夜、神夜、神夜ッ」
何度も何度も彼の名を呼んだ。もう優しく応えてくれる、あの愛しい声は聞けないのだと解っていて、それでも私は彼の名を呼び続けた。
「あァァァァァァァァッ」
雨の音に混じる私の絶叫は、洗い流されるようにして掻き消えた。
※※※
はっと我に返る。
どうやら、深く記憶の中に浸りすぎたようだと苦笑する。
窓から光が差していた。いつの間にか、雨は上がっていたらしい。
私は草鞋をつっかけて、表へ出た。雨上がり特有の澄んだ空気が気持ち良い。
見慣れた小屋周りの森の中を突っ切ってゆくと、長い石段の上に佇む、小さな寺が見えてきた。
見えてきた石段の上に、一人の老いた僧が立っていた。この寺の和尚、永斎だった。私は石段を登り、永斎に無言で頭を下げる。
「そろそろ来る頃ではないかと思うてな、暇つぶしついでに待って居った。儂の勘も、まだまだ捨てたものではないわいのぉ」
永斎は好好と笑う。
「お出迎え、傷み入る」
「なに、堅くなるな。早く奴に会いに行ってやれ」
私は軽く頷いて、寺の奥、墓地の片隅にある、小さな墓石の前まで駆けて行く。そして、その墓前で手を合わせた。
「神夜」
あの後私は、雨の中、もう動かなくなった神夜を背負って夜通し歩き、咄嗟に頭に浮かんだこの寺に駆け込んだ。寺の門前に神夜を背負ったまま倒れ込む私を見て、永斎は、一切の事情を聞かず、中に上げてくれたのだった。
震える唇で神夜を救って欲しいとだけ伝えた。永斎はそれで全てを悟ってくれたようだった。小僧に神夜の濡れた身体を拭かせると、経を上げ、丁寧に埋葬してくれた。
永斎は今も私たちの行いについては何も知らないし、聞いてくることもない。
「神夜、どうすればいい。今でも私は貴男を」
──こんなにも想い、慕っている
「私の心は、貴男の側に」
青空の下呟くのは、あの日言えなかった言葉。
「愛している」
柔らかい日差しが、暖かかった。




