07 言い聞かせ、生きていく
黒いチョッキベストと同色のスカート、それとリボンの付いた、今や見慣れたメイドの制服は脱ぎ、丁寧に壁へ掛ける。寝間着である薄手のワンピースを取り出して身に着け、その上からカーディガンを羽織った。此処へ来る前に既に湯浴みは終えていたので、明日の支度をし後は寝るだけであるが……その前に。
桐子は角灯を手に持ち、ダークブラウンの机へと歩み寄り、椅子を引いて腰掛けた。蒼白い灯りは机の隅へコトリと置いて、ペンと紙を取り出す。勿論、ボールペンやコピー用紙などではなく、羽根ペンと黒いインク、羊皮紙といった、一昔前の道具である。元々、机へ完備されていたもので、以前ファブニールへ確認したところ「自由に使って良い」と言われたので、それから桐子は活用させて貰っている。
自らの前に、羊皮紙を一枚広げる。何も書かれていない其処へペンを走らせ、残るのは桐子の持つ文字……日本語だ。
メイドとして雇われてからの、桐子の毎夜の日課であった。今日はどんな事があった、こんな事があった、箇条書きで書き残し記録しておくのだ。今まであった常識が通じない場所ゆえに、毎日頭が追いつかない事ばかりで、思考の整理整頓も兼ねている。少々不格好な文字をしているが、これでもペンの扱いは上手くなっている。読み返すたびに、思わず自ら笑ってしまう不格好さであるが。
角灯の照らす部屋の中、カリカリとペンの走る音が響く。
今日は、ヴェルゴールさんと一緒に初めて街へ行った。魔界ゼヘラの一角にあるというこの場所は、ギリスタスと呼ばれているらしく、街の名もそれらしい。魔界の古い言葉で《虚実を暴く者》という意味を持っているらしい。
《反逆者の街》だなんて呼ばれているらしいけれど、長閑な素敵な街だった。
イシュトと少し仲良くなれた気がする。今までさん付けだったが、敬語を使わず呼び捨てで話す事を許して貰った。
彼を含む使用人たちは、私と同じで何かしら理由があって此処に居るみたいだ。
カーミラさんは、相変わらず掃除が斜め上に凄かった。何でもそつなくこなすのに、不思議な人だ。
何でも聞いて良いと言ってくれた彼女も、理由があって此処に居るみたいだ。とても楽しそうに笑い出したのが気になる。
夜、旦那様と少し話をした。日中、庭に咲く花の精霊の事を聞かされた時も思ったけれど、旦那様はやはり不思議な人だ。
優しいけれど、何処か冷たくて、時折怖い瞳をする。彼は魔族、悪魔だからそうなのだろうか。私の知る悪魔はあの人だけだし、判断は出来ないけれど、恩人であると。今日も変わらず思う。
この館に居る彼らには、感謝が絶えない。本当に、こんな私を……――――。
カリ、とペン先が止まった。
桐子は羊皮紙を見つめ、しばし動きを止める。
本当に、こんな私を。
その続きは書くのを止め、綴った文の上へビッと線を引き、ペンをそっと置く。
椅子から立ち上がり、静かに窓辺へと近付いた。夜着を纏う桐子に、二つの銀色の月から放たれる煌々とした月光が降り注ぐ。黒のドレープカーテンを緩く開いて、何となしに見上げた。
本当に綺麗で、幻想的な月夜だ。星屑がさんざめき、夜天に浮かぶ寄り添う二つの銀色の月。余計な明かりが周囲にない分、よりその美しさが際立っている。魔力を放つと言うが、確かに不思議な力を持っていても何ら可笑しくないほどだ。魔力なんて言われピンと来ずとも、その気配は何故だか分かる。
……だから余計に。
本当に此処は元の世界ではないと、思い知らされてしまうのだ。
桐子は、こつりと額を硝子窓へ押し付ける。冷たい感触に、少し落ち着く心地がした。
昼間は良い、何かとわいわい騒がしく、余計な事を考える必要がない。けれど夜は、音がなくて静かで、奥底に隠れていたものが覗く。無意識に溜め息をつくと同時に、寂しさが過ぎった。
一ヶ月だ。一ヶ月も経てば、否が応でも現実にぶち当る。元の世界には戻れない事も、この世界が人間でない人々の暮らす場所である事も、色々と。桐子だって大人だ、受け入れざるを得ない現実を理解し、此処で働いている。そうして此処での暮らしは、存外穏やかな心地にしてくれて、最近では嘘偽りなく楽しいのだ。何処か間の抜けて、ぶっ飛んだ、騒がしいこの日常が。
ただ……消し去れない、捨てきれない、望郷の念。
気にかけてくれる、獣の悪魔ファブニール。
話し上手で優しい、漆黒の甲冑ヴェルゴール。
手厳しいが必要な事を気付かせる、ウサギの獣人イシュト。
手本を見せてくれる姉のような、犬耳と尻尾を持つカーミラ。
魔界に暮らす、異形の人々。桐子とは違う、人間ではない人々。だが彼らからしてみれば、桐子の方こそがこの世界に落とされた《異物》であるというのに、それでもこんなに良くして貰っている。感謝の念は絶えない、絶えないでいるのに。
桐子は、カーテンを知らず内に握りしめた。硝子へ押し付けていた額を離し、再びその向こうで煌々と輝く銀色の月を瞳に収める。
――――君は価値を知るべきだ、自らの
ファブニールの低い声が、脳裏で響く。紅い角とたてがみを持った漆黒の獣の頭が、はっきりと浮かんだ。
召喚儀式の部屋から救われ、目覚めた時。何一つとして声も出せず状況すらも飲み込めない桐子に告げられたのは、ファブニールからの痛烈な一言だった。
もう二度と、元の世界には戻れない。
あの時桐子は、心底、この館に居る彼らを恨んだ。だがその後、人並みに回復した桐子に差し出されたものは、この館でメイドとし働いてみないかという、二つ目の救いであった。どうしてゆけば良いのかなど、桐子に分かるわけがない。それでも、死ぬ覚悟だって無かった桐子は、差し出したそれを手に取った。あれから一ヶ月、今は彼らに対し厚い感謝しか抱いていない。けれど。
ファブニールの幾度か口にする、価値という言葉も、その内の然りである。桐子は、踏み込めないでいるのだ。彼らの事も、自らの事も、知るべきであろうはずなのに。
駄目ね、弱気になっちゃう。
そうして振り払うのも、別に今夜に限った事でなかった。今まで何度も、そうしていたから。
《反逆者の街》と呼ばれる、ギリスタス。それを治める領主に、彼に仕える使用人たちの、まだ見ぬ何か。其処に拾われた、己が価値と立場。
思考だけは立派なのに、もっとあらゆる事を吸収しようという勇気が、実際のところ桐子の中に見当たらないのだ。
「……知っていかなきゃ、いけないんだから」
ああ、でも。言い聞かせなきゃならない異世界人を、いっそ誰か笑ってくれないかな。
などと思い、桐子は直ぐにかぶりを振って力なく笑う。それこそ情けない話だ、これ以上の甘えなど抱いてはならない。
あの噎せ返る甘ったるい匂いの充満した儀式の部屋で、死を覚悟した一ヶ月前。救い出され、働かせて貰って、これ以上の幸福などないのだ。
桐子は、カーテンを握りしめたまま、魔界の二つの月を見上げる。明日もきっと晴れるのだろうと、思い浮かべながら。
「……大丈夫、私は、やっていける」
私は明日も、この魔界で……生きていくのだから。
誰に言うでもなく、敢えて言うならば自らへ、桐子は小さく呟いた。
西洋の豪奢な部屋に、一筋の月光が伸びる。それに照らされた桐子の顔は、懸命に自らを奮い立たせようと必死に前を向いていたけれど。影を負った細い背中は、暗がりの中頼りなく佇んでいた。
まだまだ主人公、気を張っている感じです。
実際のところ、自らの価値観や概念が全く通用しない場所で暮らしていく事をあっさり割り切って適応するなんて相当難しい技だと思う執筆者です。
少々もどかしい速度かもしれませんが、こんな感じで主人公は頑張っていきます。




