06 欲と価値
豪奢な西洋館へ、夜の刻が訪れた。梟の鳴き声が、何処から聞こえてくる。姦しく騒ぐ人々や雑音は静寂の中に一切なく、自らの存在さえも浮き出ているような気がした。
大きな硝子窓の向こうには、半分掛けた銀色の月が二つ浮かんでいる。付かず離れず、互いに寄り添う魔界の夜空を見上げてから、再び視線を前へと戻し、回廊を進む足をゆったりと運ぶ。昼間は消え、夜に灯るという不思議な蒼白い炎の宿る角灯が、薄暗い洋館を照らしている。煌々とする蒼の色、深まる影、言い表せない焦燥感。灯りがあるだけでも有り難がるべきなのだろうが、ゴシックホラーめいたこの光景はどうにかならないのだろうか。当初に比べれば随分慣れたとは言え、一ヶ月経った今でも心臓に悪く、極力背後を振り返らないよう気をつける始末だった。
桐子の手に掲げられた、壁に掛けた角灯よりも一回り小さなそれも蒼く灯っているので、何だかもうお化け屋敷探検でもしている心地が拭えない。ただ単純に自室へ向かおうとしているだけなのに、この緊張感は如何に。
コツリ、コツリ、踵の音が響く。けれど、本当に静かだ。薄く張り付く緊張に、桐子の背筋が思わず真っ直ぐと伸びる。風が吹いてないのに蒼い灯火が揺れるのは、絶対に考えないようにしよう。棟と棟を繋ぐ回廊を足早に過ぎる桐子であったが、その時――――回廊の向こうの中庭に、人影を見つけた。一瞬身構えてしまったが、恐る恐る窓縁へ近付いて窺ってみれば……。
「……ファブニール様?」
二つの月の下、月影に晒される漆黒の悪魔の姿。長丈のコートの裾からは獅子の尾がゆらゆらと揺れ、横顔は幾らか穏やかなようにも見える。人ではないからだろうか、その景色に張り詰めたような幻想を感じた。
部屋に戻られていたとばかり思っていたのだけれど、休まれる前に一人の時間を寛いでいるのかもしれない。この回廊から中庭に佇むファブニールとの距離は、だいぶ空いている。桐子は邪魔をしない方が良いのだろうと半歩退いた――――のだけれど、月夜でもはっきりと見える紅い目が、桐子へと唐突に振り返った。
「そう構えなくて良い、キリコ。此方へ来てみなさい」
くつくつと、愉快げに告げる声が桐子の耳にも届いた。最初からバレていたらしい。桐子は苦笑をこぼし、一礼する。
「構わん、さあ」声を掛けるファブニールの爪の伸びた指先が、下から上へと撫でるように手招きをする。そうしていると、本当に悪の化身の凄みが漂い実に迫力を感じさせる。桐子はやや恐縮しながらも、彼の元へと急いだ。中庭へと繋がる勝手口を潜り、月光の注ぐ其処へと桐子も踏み入れる。ファブニールは紅い瞳をゆっくりと瞬かせ、桐子を見やる。
「すみません、お邪魔をしてはならないと思ったんですが……」
「私がそうするよう言った、気にする必要はない」
二メートルはありそうな身の丈の天辺で、獣の顔ばせが笑った。機嫌良さそうにつり上がった口角を見上げ、桐子は苦笑を返す。優しい、というより、少しの強引さが強い。それでも、嫌悪がないのだからますます不思議に思うところなのだけれど。
「部屋へ戻る途中だったか」
「はい……てっきり、ファブニール様はお休みになられていると思っておりました」
主人より早くに休むなんて、と暗に声を濁すと、彼は小さく笑みをこぼす。
「私のような魔族の者にとっては、月の見える時刻の魔力が最も身体に合う。こういう晩は、何をするでもなく月明かりを浴びる事が多くてな」
「なるほど……でも、綺麗な月夜ですしね」
桐子は顔を上げた。広がる夜空には二つの銀色の月。異なる世界というものを目に見えて感じるけれど、周囲に邪魔な光がないせいか、なお一層に白く輝いている月光が身体に注がれる。ファブニールの言う魔力というものは桐子には分からないけれど、こんなに綺麗な月であれば、不思議な力が秘められていても全く不思議ではない。桐子の世界でも、よくそう例えられていた。
桐子とファブニールの間に、ふと夜風が通った。涼やかな心地がし、黒髪がふわりと泳ぐ。
「ファブニール様、寒くはないですか? 何かお持ちしますが」
「いや、平気だが……そうだな、時間は今あるか」
「はい! ご用があれば、何でも」
桐子がにっこりと笑うと、ファブニールの目も同じような仕草で細められた。
「なら、少し私の独り言に付き合ってはくれないか」
一人で月夜の鑑賞など、味気なくてつまらないだろう。告げる彼の低い声に、桐子は少し目を丸くしたが、浮かべた笑みと共に頷いた。
「私で良ければ、ご相伴させて頂きます」
「ふ、感謝する。年を取ると、どうにも独り言も多くなってな。話し相手が欲しくなるとは、私もヴェルゴールの事は言えんな」
あれもお喋り好きの年寄りだからな、とファブニールは言った。そんなに年寄りではないだろう、と桐子は思う。ファブニールやヴェルゴールの声は、質は異なるがどちらも壮年を迎えた低い声。桐子よりもずっと年上だが盛りを感じさせる、落ち着いた男性そのものの声だと思う。実年齢は、もしかして桐子の予想とは違うのだろうか。
「ファブニール様もヴェルゴールさんも、お若いじゃないですか」
「くく……そう思うか?」
悪戯を思い付いたような紅い瞳が見下ろしている。違うのですか、桐子が視線で尋ねると、彼は愉快そうに頭を揺らした。月光を受けるたてがみが、静かに流れる。
「私はこの館では最年長だ、これでも、ヴェルゴールよりも年を食っている」
「そ、そうなんですか?」
「人間の年齢と、魔族の時間はある意味では決して交わらない。年齢という概念が、そもそも薄い種族でもある。キリコ、君にはどれほどの年齢として映っているのかは分からないが、私はもう数百は生きている」
「す、数百ゥ?!」
さすがに仰天して、大きな声が飛び出してしまった。慌てて口を塞いだけれど、見開いた目は驚愕に染まってファブニールを見上げていた。百歳生きれば長者になる人間とは比べるものではない……しかも数百と、正確な数字がない辺り覚えていないのだろう。
「そ、そんなに、年上だったんですね……」
「不老不死という事はないが、もう年齢など大した意味はない。魔族は特に、この魔界が内包する魔力の恩恵を強く受けやすいのも理由だろう。魔力は、魔術の行使における源であるが、同時に生命でもある。魔力に働き掛ける事で、炎を生み出したり風を操ったり、生命の糧に変換したり……まあ、万能ではないが多種多様に活用されるもの、と思って良い」
何でもありだなあ、と桐子は関心に息を吐く。ちなみに三割方は理解出来ていない。
「そうだな、魔界に暮らす者は大抵魔力の恩恵を受ける。イシュトやカーミラも、精神年齢はキリコと近いのだろうが、実際に数えた年齢では恐らくあいつらの方が年上だ」
「ひえーそうなんですか……」
桐子の中の常識が、どんどん破壊される。さすがは常識に捕らわれぬ異世界……いやこの場合、異世界は桐子の生まれた場所であるか。
「此処までくると、生きた年齢など大して重要ではない。短命も長命も、どう生きてゆくか、そちらの方がよほど重要性が高く興味深い」
愉快そうに声を震わすファブニールから、貫禄が滲む。ここ一ヶ月余り、桐子が時折感じていた彼の言動の深みは、数百と生きた歳月の裏付けがあったのだと、この時ようやく知った。二十数年なんて、ファブニールからすれば赤ん坊と等しいに違いない。
「なら、ファブニール様は、今までたくさんの事を見てこられたんですね」
その生きた歳月に釣り合う、数多くのものを、きっと。桐子は何気なく、呟いていた。ほとんど無意識の内と言って良いだろう。けれど、そうだな、と漏らすファブニールの低い声には、感慨深げな含みが滲んでいた。
「多くを見て、多くと渡り合った。それなりに長く生きた分、それなりに色々とあったのだろうな」
「ファブニール様……」
ああ、まただ。桐子の全く知らない、恩人の瞳。
赤いたてがみと捩じれた角を持つ、漆黒の獣の悪魔。田舎領主と自らを表現しながら、その姿から感じる気迫や凄みは、時折背筋が震えるほど解き放たれる。異世界に落とされた桐子など、及べない存在だからだろうか。
じっと見上げていると、ファブニールはまなじりを緩めて小さく笑みを漏らした。
「……その長く生きてきた時間で、今ほど愉快な事はなかった。特にここ最近の一ヶ月余りは、実に楽しい日々だったな」
背筋の震える感覚は、もう消えていた。普段桐子が見ている、何処か読めない気まぐれな主人の空気だ。
「君が加わってから、この薄暗い館が、此処まで明るくなるとは思ってもなかった。ふ、中々、面白い誤算だった」
ファブニールはそう楽しげに告げる。桐子の視界の片隅で、彼の持つ立派な獅子の尾が踊るようにくるりと回った。桐子は思わず笑みをこぼすけれど、首を振った。この場所に受け入れて貰っているというのなら、それはありがたい限りであるが、何も全てが私の力ではない。この洋館で過ごす領主と使用人たちが、もとより朗らかで明るい性分だったからだろう。それこそ、余所者の桐子が加わっても蔑ろにしないくらいに。ファブニールは大袈裟に言ってくれているだけだと、桐子は肩を揺らした。
だが、ファブニール本人は至極真面目に言っているようで、かぶりを振るとくつくつと喉を震わす。
「この一ヶ月の館の姿が、君にとっての日常だろう。だが私たちの知る館は、今と比べればお世辞にも《明るい》などとは言い難くてな。君の知らない一ヶ月前の館こそが、私たちの日常であった」
「え……?」
「君は価値を知るべきだ、自らの」
ふわり、と夜風が動いた。そよぐ自然の流れではなく、下から上へと昇り、桐子の前髪が浮いた。
桐子が見上げていたファブニールが、徐々に上がってゆく。寄り添い合う二つの銀月を背に、獣の悪魔は芝生から二メートルほど宙で浮いた。大きな身体に着込んだ長丈のコートが翻り、ゆったりと長い足を組んだ。文字通りの《空気椅子》をぽかんと見やるしかない桐子の頭上で、ファブニールの紅の瞳が笑いながら視線を落とす。
「魔力と魔術の概念が全く無い世界と、魔力と魔術に飽和するこの世界。ある意味相反立場にある場所から来た君は、それだけでもどれほどの学術的価値とこの世界の賢者すら持ち得ぬ知識を持っているのか、計り知れない。それに加え……君は非常に、興味深い」
つい、とファブニールの大きな手が掌を上へと返した。その瞬間、桐子の身体が上へと引っ張られ、足の裏が踏みしめていたはずの芝生から離れてしまった。絶対にないはずの無重力の浮遊感が、桐子を襲う。
「わ、うわ……ッわ?!」
「物体を浮かせるだけの簡単な魔術だ。まあ魔術とも呼べない児戯のようなものだが……おっと、あんまり動くと、頭と足がひっくり返るぞ?」
宙で空を蹴ってもがく桐子の足が、ぴたりと止まる。上下が逆さまになるのは……それは、困る。スカートを穿いているのだから。
スカートを押さえつける桐子の姿を、犯人であるファブニールは楽しそうに見ており、くつくつと広い肩を揺らす。悪戯好きなおじ様だ、と桐子は思わず胸中で呟いた。下ろしてくれる気配がないのでようやく両手足をばたつかせるのを止めたが、何だか慣れない感覚が全身を這っている。細い糸で吊られているような不安定さ、けれどぴたりと止まった身体は落っこちていかない。見下ろす中庭は少し遠く、不思議な光景だった。
宙ぶらりんな足の爪先を見た後、桐子は顔を上げる。其処に椅子があるように腰掛けた姿勢をするファブニールと、同一の視線の高さで眼差しが合わさる。
「君は些細な魔術すら防ぐ事も回避する事も出来ないほどに、術に対する抵抗力がない。即ち、魔術に対して全くの無防備。他者から放たられる魔力を感じ取る事も、恐らく出来ないのだろうな」
「む、無防備、ですか?」
「要するに、君の肉体には魔力の欠片もない、という事だ」
ゆらゆらと浮遊感に煽られながら、桐子はきっぱりと言われた。
魔力の欠片も、ない。
別にショックを受ける必要もないはずだが、妙に切なくなってくるは何故だろうか。ややしょんぼりと眉を下げると、ファブニールの低い声は、だが、と続く。
「……それは同時に、この魔界の摂理と条理に捕らわれる事のない存在という事だ」
ファブニールの紅い瞳が妖しく煌めいたのは、その時だ。日中にも抱いた、ぞくりと震える不可思議な悪寒に、桐子は奇妙な格好で浮いたまま彼を見る。
「魔界という、魔力が恩恵をもたらし同時に支配するこの世界で、その影響を全くと言って良いほど受けない稀有な存在。魔界にも、隣り合う世界にも、全く記録にない異世界からの、来訪者。君が此処にやって来てしまったのは偶然と言えど、この私が此処まで興味を惹かれるとは……」
涼しげな銀色の月を背にして、その紅の瞳には焦熱が宿っているようだ。その揺れる貪欲性が何を示唆しているのか桐子になど分からないけれど、この眼差しは少しだけ怖くなる。紅いたてがみに捩じれた角、漆黒の獣の顔ばせを彩るのは見透かした紅の目。その外見に相応しい、空気の凄みが今、桐子の前にある。
「ファブニール、様」
情けなくやや怯えた声が出たのは、仕方のない事ではあっただろう。ファブニールは桐子の声に一度反応し、真っ赤な眼光を宿した瞳を緩めた。
「……故に私は、君を保護すると領主とし真っ当な理由を付けながら、一個人としては下心しかない。私個人は、異世界の来訪者という価値に惹かれた」
ファブニールの低い声は、困ったように笑う。小首を傾げた拍子に、月光を受けるたてがみが微かに揺れた。
日中の、彼の言葉を桐子は思い出した。優しくするという事は、すべからくその向こうに下心がある。彼の言葉には隠すつもりのない、奪い取るような強欲さが漂っていた。
「幻滅したか?」
これと言って普段と変化はない声に同じく、桐子も別に悲壮感などない。いや、むしろ、ある意味理由がはっきりとした分だけ納得した心地がした。
「いいえ、私を拾って下さった理由が分かって、すっきりした気もします」
まあ、多少は寂しいような気もするが。それでも、あの薄暗い不気味なオカルト儀式の部屋から解放されて、こうして雇われて、本当に良かったのだと桐子は思っている。彼の差し出した手が、異世界人への興味であっても。
変わる事なんて、ないだろう。
じっと見る桐子の目を、ファブニールはそらさない。数秒、そうして無言の視線を交わした後、瞼を下ろした。夜風の音色が、静寂を涼やかに彩る。
「……この一ヶ月で、君がどういう人間であるのかはよく分かった」
膝の上に置かれていたファブニールの黒い大きな手が、不意に持ち上げられた。爪の伸びた人差し指をくっと曲げると、宙に浮いた桐子は引っ張られ、ファブニールの直ぐ側にまで流されてゆく。意思に関わらず勝手に動かされる未知の感覚、桐子は小さく声を漏らして両手足をもたつかせた。ようやく止まったのは、桐子とファブニールの間の距離が僅か数センチとなったところであった。
「危機管理は非常に危ういが、妙に物怖じしない面もあり……何より、真面目で誠実。この場所に懸命に尽くす君の姿に、私に限らずヴェルゴールやイシュト、カーミラも、どれほど救われ……いや、助けられているか」
「! ファブニール様」
「これはキリコ、君の本質だ。異世界人の価値を、軽く凌駕している。誇って良いほどに、な」
告げるファブニールの声は珍しく穏やかさが顕著で、何処か温かみを感じさせた。桐子という人間を、認める言葉と言ってよい。ぱっと喜びで浮上した心が、身の内で温かく灯る。
「……だからこその、忠告だ」
ふっと、ファブニールの声が耳元で潜められた。目の前に近付いた漆黒の獣の顔が、桐子の視界いっぱいに広がる。
「君は、真っ白い紙のようなものだ。どんな色を垂らしても、どんなにそれが薄くとも、一瞬でそれに染まってしまう。魔界の理に縛られない存在だが、他者に染まりやすく、魔力の欠片もない分吸い込みも早い。君は、恐らく気付かないだろうが」
大きな手が、桐子の頬を掠める。手の甲を滑らせただけの、軽やかな接触だった。
紅い目に映っているであろう己の姿は見えないけれど、其処に何らかの渇望感がある事に……桐子は戸惑う。彼の言葉は、時折難しくて理解出来ない。数百と生きる彼の幾つもの声と表情に、どれが彼なのか分からなくなる。けれどその眼光の強さだけは、この月夜でも明確に読み取れる。
「それは……どういう……」
桐子の小さな問いかけに、ファブニールはふっと笑い軽く首を振って答えた。
「君が思う以上に、私も、ヴェルゴールたちも、貪欲で傲慢だという事だ」
「……ますます、分かりません」
「ふ……そうだな、年を取ると面倒な事を口にしてしまう。なに、過ぎた独り言だ、気にしなくとも良い」
ファブニールの手が、桐子の顔から離れてゆく。
「要するに、君が此処に居るのは、当初は保護の意味ではあったが、今は望んで置いていると。そういう事だ」
笑みを浮かべそう告げた後、声音を改めて「さて」と付け加えた。
「少し長く話し過ぎたな……明日も君には活躍して貰う事になる、今日はこれまでにしておこう」
「あ、いえ……そんな」
ファブニールは組んでいた足を解くと、椅子から立ち上がるように宙で背を伸ばした。ゆら、と獅子の尾がコートの後ろで泳ぐ様を見つめるが、桐子は不格好な姿のまま動けない。
「キリコ、立場などはあまり気にせず、気軽に来なさい。知りたい事も、世間話でも、何でも。良いな」
「は、はい、あの、ところで……」
「ん?」
「い、いつ、下ろして頂けるんでしょうか」
ぶらぶらと、足の先が宙を蹴る。落ちないけれど、不安定さは相変わらずなのだ。桐子が懇願するように見ると、ファブニールは「おお」と暢気に両手を合わせて笑った。
「別にそのままにするつもりはない、安心なさい。……ああ、そうだ、面倒な話に付き合わせてしまった礼だ。部屋へ送り届けよう」
「え、ええ?! そんな、放り出して貰えれば一人で歩いて行きますから」
「構うな、ほんの一瞬だ。《送り届ける》のだから」
どういう意味だろう、と桐子が小首を傾げると、目の前でファブニールは呼気を漏らす。笑みをこぼしたような音だった。
「説明するより、体感する方が早い。君に一つ、魔術を披露しよう」
「披露、ですか?」
「ふ、目を閉じてみなさい」
紅い目が、楽しそうに細められる。桐子は要領を得られないが、言われるがまま宙ぶらりんの体勢で瞼を下ろす。ぱっと視界を閉ざした桐子の無防備さへ、ファブニールはやや苦笑いを浮かべた。
「……そう素直に目を閉じてくれるのも不安になるが……信用されていると思う事にしよう」
目を閉じろと言うからそうしたのだが、何か間違ったのか。桐子は瞼を震わせて瞳を開けようとしたけれど、つい、と何かが額に触れる。前髪を押し上げる何か……これは、ファブニールの指先だろうか。
真っ暗な中、気配が動く。温い風が、剥き出しの頬を掠めてゆき。
「……お休み、キリコ。付き合ってくれて感謝する、良い夢を」
とても近い場所で、ファブニールの低い声が響いた。ぴくりと肩を揺らす桐子へ、次いで感じられたのは、自らの額に触れる柔らかいもの。毛の感触だろうか、生温かい風が吹きかけられたような――――。
其処で桐子は、あっと瞼を開けた。ファブニール様、と言おうとし口を開いたが、一気に落下する浮遊感が突如襲いかかり、全身が粟立つ。
――――その瞬間、浮いていた桐子の身体がドッスンと音を立てて地面に落っこち、鈍い痛みが走った。主にお尻へ。
桐子の口からは、噛み締めて声にもならない悲鳴が漏れる。手荒い歓迎をする地面で桐子はしばし痛みに蹲り、打ち付けた尻を庇った。
「……あれ」
桐子は、はたと気付く。額を擦りつけている地面は芝生ではなく、カーペットが敷かれている。
がばりと顔を上げ、周囲を窺った。それまで確かに銀色の月の見下ろす中庭に居たはずだが、今目の前にあるのは……割り当てられた桐子の私室だった。
「……う、嘘ぉ」
床の上に座り込む桐子は、茫然と呟いた。ファブニールの言った《送り届ける》とは、こういう意味であったらしい。彼の言う魔術というのは、大概何でもありだ。桐子は何度目になるか分からない困惑に、しばしぺったりと座り込んでいた。
隣にちょこんと置かれている角灯の蒼白い灯りが、ふわふわと桐子と室内を照らし出す。ファブニールの姿は、其処にはもう当然ないが、耳には彼の低い声で奏でられた笑い声が残っている。
「……お休みなさい、ファブニール様」
小さく呟いて、桐子は額をそっと撫でた。
あの感触は、そう、犬や猫にキスをされた時とよく似ていたが……結局何だったのだろう。
桐子は小首を傾げたまま、寝支度をする事にした。




