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02 田舎領地の悪魔


 喉を枯らすほどに叫んでいたのは、桐子であった。そしてそれを嘲笑い、それどころか恍惚として聞いていたのは、濃密な闇に浮かぶ幾つもの眼差しの――異形の者たちだった。

 破られた衣服の所在は、もう分からない。素っ気なく被せただけの布の下は、力の抜けきった裸体の四肢が冷たい石の床に横たわっているだけで、魔法陣と蝋燭の火が迫りくる様をただ見る事しか出来なかった。

 冷たい床。冷たい風。それなのに降りかかる眼だけは重く圧し掛かり。舐め回すように、弄るように、凌辱するように。全身が、戦慄いていた。


 けれど、今は。

 突如として、不気味な闇と甘ったるい妖しげな香の匂いが切り裂かれるように、固く閉じた扉が蹴破られ。異形の者たちから、つんざく悲鳴が上がった。

 誰だろう、目も、上手く動かない。視点が定まらない。誰か、来たのか。誰か。

 久しく見た気がする、目映い白さ。鈍った鼻に、懐かしい緑の匂いが届いた。自分の悲鳴は、何処にも響いていないけれど、布を裂くような悲鳴が聞こえる。あちらこちらから、何度も。



「――――辺境の土地だからと、慢心したか。私の領地を荒す者は、誰であろうと容赦はしない。死を選びたくなる拷問をかけてやろう、心しておけ」



 底冷えするほどの冷酷な声だったけれど。桐子にはその時、これまでの人生でこれほどの喜びを抱いたかと思うほどに歓喜で満ち溢れた。

 「全員等しく連れてゆけ、逃げ出そうとする者は足の一本や二本砕いて構わん」冷たい声、けれど、誰だろう。足音が、近付いてくる。


「……まさか、人間、か? 何故、こんな場所に……」


 騒動の中、やけに浮き彫りになる低い声が耳に届く。

 動こうとした、だが、痛みが走り呻くに終わってしまう。


「動かない方がいい……ああ、酷いな、殴られたのか。こんなに柔らかい頬を腫らして。

安心しなさい、後で同じように……いや、倍にしあやつらを殴りつけておこう」


 誰ですか、貴方は。開こうとした桐子の瞼が、重く下がる。

 ふと、剥き出しの肩に何かが回った。上半身を起こされ、投げ出された両足を同じ感触の何かが持ち上げられるのを、朦朧とした意識の中うっすら理解した。毛皮のような、ふかふかした肌触り。それでいて、無骨な筋の浮かぶ……これは手だろうか。それとも。けれど、はっきりとしないが、唯一つ分かったのは。


「もう、大丈夫だ。人間のお嬢さん」


 優しくて、暖かかった、という事だった。


 ――――異世界に落とされた、最初の記憶である。



 ◆◇◆



 今朝あった乳白色な濃霧は、すっかり消えていた。隠されていた西洋館周辺の、緑深い木々、数百メートル先の眼下に見る街の、物語を形にしたような幻想風景がぐるりと見渡す世界にあった。

 絵具の如く鮮やかな空の下で、桐子は玄関前でホウキをせっせと動かし掃き掃除に勤しんでいた。吸い込む風は清々しく、見事に晴れて降り注ぐ陽の光はぽかぽかと感じられる。これが《魔界》の風景とは、とても思えない朗らかさだ。ふと見た住み込みの職場――――もとい優雅な佇まいの洋館も、イメージに根付くコウモリ飛び交うおどろおどろしさは一切ない。

 桐子にとってはお城に等しいのだが、領主の本邸としては小さい方に部類されるらしい。十分過ぎるほどに立派な佇まいなのに、これで小さいだなんて、桐子の暮らしていたアパートだとか実家だとか目も当てられないのではないかと常思う。

 西洋館の正門から入り口の扉まで、十メートル程度の小さな石細工の道が敷かれており、その両脇は整えられた花壇が飾っている。どれも見た事のない、不思議な花弁と色の花ばかり。けれど美しく誇っており、小さな庭園はいつ見ても見事の一言に尽きる。ホウキを動かしつつ眺めていると、ガシャガシャ、と音を鳴らして近付いてくる黒い鎧が片隅に映った。


「今日は花も機嫌が良いですな、キリコ殿」

「ふふ、そうですね。今日もとっても綺麗です」


 三メートル近い巨大な甲冑は、桐子の隣に並ぶと恭しく言った。目一杯に見上げた先の、天辺に乗せた角の装飾つき兜は桐子を見下ろしている。その向こうに瞳の光はないけれど、そう理解した。

 見た目はこんなに厳つい甲冑なのに、花も機嫌が良いなんて。さすがは、紳士な良い人……じゃなかった、良い鎧だ。ヴェルゴールらしい詩人めいた柔らかな言い回しに、桐子は笑みを返す。


「キリコ殿が声を掛けてくれるからでしょうか。最近はすこぶる機嫌です」

「ふふ、そんな。確かに綺麗だなーっていつも言ってますけれど」

「やはりそれでしょうな。花は気まぐれですが、褒められると嬉しいのでしょう」


 もう、ヴェルゴールさんったら。そんなおだてて。桐子は少しの恥ずかしさにバチリと冷たい金属の腕を叩くと、ヴェルゴールも笑って「いやいや本当ですぞ」と告げる。


「我が輩が褒めても、逆に翌日花を閉ざしてしまうほどで」

「え」

「何故でしょうなあ、我が輩も心より思っているのですが……」

「え、いや、あの、ヴェルゴールさん?」

「何ですかな」


 不思議そうに止まったヴェルゴールに、恐る恐ると桐子は尋ねる。


「冗談、ですよね?」

「と、言いますと」

「いや花が、気分で咲いたり閉じたり、なんて」


 それじゃあまるで、花が生物の《意思》を持っている事になる。さすがにこの異世界でもそんな事は。桐子は自らにも言ったけれど、ヴェルゴールはきょとりと不思議そうにして。


「いえ、この庭に植えられた花は自分勝手に生きているので、閉じたり開いたり気ままですぞ」

「え」

「正確には、この花の本体であり化身の精霊……おやキリコ殿、まるでお伽噺が現実になったようなお顔ですが」


 自分自身がどんな顔をしていたのか、桐子も分からないでいたが。ヴェルゴールのさも常識であるといった声音を察するに、非常識であったのは桐子らしいと彼女は学んだ。異世界はやはり、異世界だった。

 マジか、と茫然と見下ろした花壇の花は、心なしかキラキラと光の粉をこぼしているような気がする。そして、花弁の中心に、大きな瞳の、親指サイズの何かが……。


「おや、今日は本当に珍しい。普段は中々見せてくれないのだが。キリコ殿、それがこの花の本体である精霊ですぞ」


 可愛いものでしょう、とほくほく笑うヴェルゴールに、桐子はどう反応すれば良いのやら。いや、確かに可愛いと思う。桐子の元いた世界で、よく物語などに出てきた妖精の姿そのものだ。けれど、何だろうこの困惑は……。カルチャーショック以上の衝撃である。

 桐子が見下ろす先で、花弁の真ん中に座る精霊はこっくりと首を傾げる。可愛い。それは、やはり間違いがない。ついて出た言葉が、「とっても美人ですね」であった。


 ……この翌日、美人と褒められ上機嫌になった花のおかげで、小さな庭園がビカビカと光り輝く事になるのだが、桐子はこの時気付かないでいた。


「すいませーん、郵便でーす」


 閉ざした黒塗りの門の向こうより、配達屋の鳥人が手を振った。ヴェルゴールはガシャガシャと甲冑を鳴らして近付き、手紙の束を受け取る。その背を見つつ、桐子はとりあえず集めたゴミをちりとりで集め、花壇の中で笑っている小さな精霊に会釈をした。キュルキュル、と不思議な高い声を上げたかと思うと、精霊は消えてしまった。


「……異世界って分からない」

「キリコ殿、手紙を主殿へ届けて頂いても宜しいですかな」

「あ、はーい」


 戻って来たヴェルゴールは、二十通近くある郵便物の束を器用に紐解いて選別し、半分ほどを桐子に差し出す。残り半分はヴェルゴールの大きな手の中に納まったままだ。恐らく、見せるまでもない郵便、という事だろう。桐子は受け取った手紙をしっかり握り、ホウキとちりとりを脇に抱えて洋館へ戻った。道具を片付け向かう場所は、領主の仕事部屋に当たる執務室だった。


 正面の入り口から入り、広い玄関ホールと広間のある中央エリア、左側エリアは厨房や貯蔵庫などの雑務設備が揃い、領主の私室や執務室、書庫などが揃うのはその反対である右側エリアだ。頭の中で道順を思い浮かべつつ進む桐子は、執務室の扉の前で立ち止まった。コンコン、とノックすると、その向こうから「入ってくれ」と低い声が響き、桐子は扉を押した。

 失礼します、と一言断りを入れて踏み入れる先には、大きな執務机に向かう主人の姿があった。厚さから大きさまで様々な蔵書を積み立て、その隣でカラスを彷彿させる真っ黒な羽根ペンをゆったり動かしている。ただし領主様サイズなので、桐子の指先から肘までの全長を持つ、やたら大きなペンであるが。


「少し待ってくれ、もう少しで書き終わる。入ってくれて構わない」


 視線は、机上を見下ろしたままだ。桐子は一つ頷いて、そっと扉を閉じ隅で待った。邪魔にならないよう口を閉じて立っていたが、薄ぼんやりと領主であり主人である彼を眺めた。


 何処か獰猛な気配を宿す、貫禄ある獣の顔立ち。

 長身な肉体を包む獣毛は黒く、頭から首に掛け生え揃ったたてがみは紅色で。

 顔ばせの横から突き出ているのは、立派に捩じれた深紅の角。

 見るからに人間とは程遠く、不良も暴力団も我先に逃げ出すだろう凶悪なお姿をしているのに。

 執務机に向かう姿勢と、濃い紅の瞳は、妙に穏やかで外見に反する理性的な空気がある。


 桐子の雇い主であり西洋館の主人、そしてこの一帯の領主であるという魔族――――ファブニール。


 外見こそは実に凶悪で魔族らしいものの、見慣れた今となると、恐ろしさは大分薄くなったと思う。むしろ、とても好印象だ。この世界に来てから、ずうっと彼には救われているからだろう。

 カリカリ、と羊皮紙の上を走っていたペン先が、ふと止まる。次いでこぼれる呼気に、書き終わったのだと桐子は理解して数歩近付く。


「旦那様、郵便を届けにまいりました」

「……」

「……ファブニール様、手紙ですよ」

「ああ」


 ただ少し、扱いに面倒な時がある。

 桐子が堅い言葉を使うと高確率で嫌がる姿は、領主とも魔族とも見えないものの、尊大に振る舞われるよりかは気軽かと思う事にしている。

 はい、と十数個の郵便を差し出してファブニールに受け取ってもらった後、桐子はふと尋ねた。


「そうだ、ファブニール様。お庭の花なんですけど」

「ん? 花が、どうかしたのか」

「花って、精霊が宿っているんですか」


 親指くらいの、こーんなサイズの。桐子が指でジェスチャーをしたところ、ファブニールは合点がついたのか「ああ、あの花か」と呟いた。大きな椅子に深く凭れ、笑うように広い肩を揺らす。


「正門前の、植え込みの花の事だろう。あれは特殊でな、小さいが精霊を生み出す希少な幻花の一種だ。知人が『友好の証に』などと言って勝手に植えていったのだが、あの花も此処を気に入ったようでのびのび暮らしてる」

「は、花の妖精、ですか?」

「ふむ……正しくは、花が精霊という形で目に見える具現化を果たした、というところだが……」


 ファブニールは、しばし考え込む仕草を見せた。それから「少し、話をしようか」と桐子へ告げる。

 でもお仕事が、と桐子が呟くより早くに、ファブニールは長い指をパチンッと鳴らした。瞬間、机の上に散らばった羊皮紙や判子と言った文房具などが独りでに動き、綺麗に机の脇へ片付けられてゆく。そして、室内の本棚から一冊の蔵書が、綺麗になった机上へふわふわと飛んでくる。勿論、これも誰が支えているわけでもなく、勝手に、だ。

 驚いてそれを茫然と見上げる桐子に対し、ファブニールは愉快そうに声を漏らす。


「ああ、そうだったな。君の世界は、魔力も魔術の概念も無かったか。花の精霊化も、およそ信じがたいものなのだろうな。それも面白いが、さて、この世界の植物について話そう」

「あ、ありがとうございます。でも、良いんですか?」

「さすがの私とて、机に向かってばかりでは疲れる。さあ、座ると良い」


 引っ張り出された小さな椅子に、桐子はおじぎをし座った。目の前の机もお尻の下の椅子も、ファブニールサイズの為、桐子には余るほど大きく内心笑ってしまう。

 さて、とファブニールは一言置くと。手紙を放り、蔵書をぺらぺら開いた。鋭い爪が生えているのに、器用だ。


「すべからく、動植物というものには命が存在する。その命に宿る強さは、環境と生まれ持った出生により多種多様。草花は良い例だな、あれらは本来生えているだけで精霊化する事はないのだが……」


 ページを捲る黒い獣の指の指が止まる。蔵書を引き寄せ、それを桐子へ見せた。何が書いてあるかさっぱりだが、とりあえず挿絵らしきものが目に付いたので、それを眺める。庭先の、親指サイズの妖精によく似ていた。


「幻花……要するに力を秘めた、特殊な花だ。あんな小さな姿をしても、それなりに力を蓄えている。その力を具現化させると、キリコが見た精霊の姿を稀に取る。うちの庭には、精霊化する植物はせいぜいあれくらいだが、この世界には霊樹だとかもあり、そういうものは力と年齢によって精霊も外見が違う。あの花は、それらに比べてしまえば赤子みたいに可愛いものだ」

「へえ……」


 桐子の声は、思った以上にぼんやりとしてしまった。此処では常識であっても、一ヶ月程度しか過ごしていない桐子には、未だ未知の世界である。

 ファブニールが、くっと、笑みを噛んだ。


「不思議そうな顔だな?」

「少し、実感が」

「ふ……だろうな。だが、此方とて驚いてはいるのだぞ」


 笑みを含んだ声が、頭に落ちてきた。桐子が顔を上げると、ファブニールの赤い瞳と視線がぶつかった。


「ああいう力のある植物というのは、共通し滅多に他者へ精霊の姿を見せない。気まぐれな節もあるが、だが同時に精霊化するという事は、自由に動き回れる分力が顕著になる。まあつまり、凄く敵意剥き出しの時に見せるものなんだがな、多くは」

「攻撃体勢だったんですかあれ!」

「まあ、はっきりと言ってしまえば正しくそれだ。だが何もされなかっただろう? 気に入った相手には、その姿を見せてくれるらしい。良かったな、懸命に褒めそやしているヴェルゴールは何故か気に入られないのに」


 多分きっと、あの厳つい外見である甲冑のせいだろう。

 とは口にしなかったものの、そうか気に入られたのか、そう思うと単純に嬉しくなった桐子が居た。今度は水をあげて、もう少し声を掛けてみよう。


「この世界では珍しい事ではないが、キリコの居た場所ではそうもいかないとは。実に面白い」

「私からすると、もう毎日が異文化交流ですよ」


 ただでさえ、同僚は巨大な鎧とウサギと犬。上司兼恩人は、獣の悪魔なのだから。

 桐子は苦く笑って、ふと、背後にある窓へ視線を向けた。透き通った硝子の先にはバルコニー、そして周囲を取り巻く美しい自然。日本とは違う、海外のそれとも違う、異質な世界。美しいのに、何か隙間風が心に吹くような、寂しい気配を覚える。


「――――キリコが来てから、もう一ヶ月近くも経つのか」


 ファブニールは、獣の顔へ静けさを浮かべる。そうですね、と桐子は返した。そうか、もう一ヶ月くらいは経っているのか。最初は本当に、ただ茫然とするばかりの日々だった気もするが……こうして、まさかメイドとして雇われるなんて思っていなかった。


「感謝しています、本当に。ファブニール様には」


 視線を、彼へ戻す。獣の横顔、赤い角、赤い目、たてがみ。何処を見ても桐子と同じものはない、それどころか魔族という悪魔とほぼ同様のイメージを寄せる種族らしいのに、今の桐子はその姿へ安堵を寄せるほど、まごう事無き感謝の念を抱いていた。


「私は、責を果たしただけだ。この地を治める者として」


 何でもないように告げるファブニールへ、桐子は微笑んだ。こうやって笑う事だって、もしかしたら出来なかったかもしれないのだ。現状の全ては、彼のおかげであると、桐子はずうっと思っている。




 ――――そもそも、桐子がかつて暮らしていたのは日本であった。

 特筆すべき点は特にない極々平凡な家庭で生まれ育って、極々平凡に過ごして大人になって、社会人となり働いて。

 当然、周りに動きまわる甲冑や頭がウサギの人物など居るわけがない。

 そういった、ありふれた生活を送っていたはずなのだが、一転したのはある日の事。交通事故に巻き込まれた。唯一あげるその頃の人生の衝撃と言えば、それだろうか。桐子が何をしたわけでもないが、歩道を歩いていると突っ込んでくる自動車があったのは覚えている。仕事帰りで少しふらふらしてはいたとはいえ、歩道から飛び出したわけでも信号を無視したわけでもない。ただそこを歩いていた。歩いていただけだった。


 一度目の前が暗転し、そして気が付いたら。


 桐子はオカルト儀式のような、魔法陣を描いた冷たい床の中心に横たわっていた。


 唐突な事態に、桐子はしばらくきょろきょろしていた。だがその後、気付く。自分が幾つもの視線を浴びている事に。閉ざされて真っ暗な部屋、広さも何も分からないが、床へ立てられた蝋燭の灯りはぼんやり何かを映し出した。その影は――――異形の者だった。

 二本脚で立ち上がった獣や、蛇に近い目を持つ者、或いは何かの細長い尾や翼が、ぼんやりと見えた。どう見ても、人間とは程遠い。パニックにならない方が、可笑しい話だ。押し寄せる恐怖と事態の混乱に、桐子はこの時ようやく悲鳴を上げた。それはもう、喉を枯らすほどの悲鳴を、だ。だが、近付いてきたその異形の影に一度頬をぶたれ、体温を奪ってゆく冷たい床へ押しつけられて、最初で最後の抵抗は呆気なく終わった。その後、直ぐ側に甘ったるい匂いを振りまく香を焚かれて、五感と思考がぼやけていったのはさらに間もなくの事。時間の経過も曖昧に溶けて、周囲の闇とささめく声に彼女は飲み込まれた。

 身を投げ出して横たわる桐子の耳には、時折、言葉が届いた。成功した、別次元の人間、異世界の。断片的な単語しか拾えなかったが、この異常な状況下で桐子が悟ったのは、自分は後少しで死んでしまうのだろうなという事だった。桐子の日常が崩壊し、突然降りかかる非日常、どう見ても人間でない者が自分を見下ろしている。結構、本当に……死を覚悟した。

 動けない桐子の服は、気が付いたら下着ごとむしり取られてた。何だろう、何をするつもりだろう。裸の肉体に布を掛けられ、大きな手が時折触れてきた。物珍しそうに、ぺたぺたと、指先、手のひら、上がってゆき二の腕。

 いよいよ食べるのかな、私を。桐子は揺れる蝋燭の火を見つめ、何故か涙の出ない瞳を力なく閉ざした。


 ――――それから、直ぐの事だっただろうか。

 不気味な空気の静けさが急に震え始めて、慌ただしい気配が近付いている気がした。

 今度は何だろうな、また増えたのかな。ぼんやり思う桐子の視界は閉ざされた事で、さらに色濃く闇に覆われたのだが。


 訪れたのは、扉を蹴破る音と、瞼の裏側まで染めるような、久しぶりの光だった。



 それから、自らやってきた領主ファブニールが、集団を摘発。その後どうなったのかは聞いていない。ただ、あの時底冷えする声で言い放った言葉が実行されていたのなら……聞かない方が、利口だろう。

 桐子は保護されファブニールのこの西洋館で看病などを受けたが、しばらくは呆然自失といった状態だった。後から聞かされた事だが、桐子が居た場所は召喚儀式を秘密裏に行っていた集団の隠れアジトであったという。そして、桐子は見事、その集団に召喚された、と。

 まさか本当に、この場所は桐子の知っている土地のない場所だなんて。身に降りかかる事態を受け入れるのは無理な話だ。

 それでもなお、献身的に世話をし、案じ、叱咤してくれた館の使用人たちや、恩人に……ようやく、現実と向き直るだけの勇気は、得られたと思う。


 あの事件から、一ヶ月も経っているのか。不思議なものだ、時間の流れは早いのに、かつての生活よりもずっと心が穏やかだ。郷愁の念は片隅に残ったままだけれど、以前よりは、上手に受け止められていると桐子は思っている。

 ただ。


「……驚きました、此処が魔界と呼ばれる世界で、ファブニール様がその一角を治める領主様だったなんて」


 桐子の隣で、ファブニールは広い肩を竦めた。


「といっても、隅っこの隅っこ、地図を広げてあるかないかの田舎だがね」

「私には、凄く素敵なところですよ」

「そう言って貰えるのであれば、ありがたいな」


 不意に、ファブニールは立ち上がる。二メートルに及ぶ身の丈は威圧感が特盛りであるけれど、背を屈めて手を差し出す姿は不思議と気品があった。「少し来てくれるか」と低い声で言われ、桐子は一つ頷き立ち上がる。そろり、と手を伸ばすとファブニールの長い獣の指が捕え、くっと引いた。歩き出す彼の足はバルコニーへと向かい、硝子扉を開いた。吹き込む風に桐子の髪が揺れる。ファブニールはそのまま、バルコニーへと踏み出た。

 其処から望む風景は、ファブニールが治める領地の、自然豊かな景観だ。蒼い空に豊かな木々、数百メートル先の街。ここ一ヶ月で桐子も覚えた、周囲の風景である。ファブニールは桐子の手を離すと、バルコニーの縁へ両腕を掛け凭れた。はたはた、と彼の身に纏う漆黒のコートの裾と紅いたてがみが風にそよぐ。


「最初はね、此処は、私の自己満足と欲求の末に拓かれた地であり、作られた街だった」


 桐子は目を丸くする。思ってもない単語を、耳にしたせいだ。自己満足と、欲求。奇妙な違和感を抱く所以は、これまでの彼の物静かで穏やかな姿を見ていたからだろう。

 ファブニールは桐子を見て、ふっと笑う。


「君はこの世界が、悪魔や魔族の暮らす世界――――広い意味での《魔界》と知った時、大層驚いていたな」

「ええ、まあ……」


 桐子の魔界イメージは、昼夜問わず空は紫色で、コウモリ飛び交う、血の饗宴或いはサバト的な、ゴテゴテのテンプレートだった。そしたら実際の魔界は、昼は蒼い空で夜はきちんと藍色、太陽の陽射しを浴び夜少しはしゃぎつつもきちんと眠る、朗らかな悪魔たちの姿があった。むしろ、とっても健康的。身体にも優しい自然派生活を送っているではないか。これなら、桐子の世界の社会人たちの方がよっぽど不健康な生活を強いられている。万人の抱く魔界の想像は、ものの見事に破壊され尽くした。

 逆に桐子が、「魔界って常に血でギラギラしてるんじゃないんですか」と聞けば、「やだ何それ怖い!!」とカーミラたちに返されてしまったくらいだ。(魔物が怖いって……)

 ただ、ファブニールは笑って、「あながち間違ってはいない」と付け加えていたか。今もそう、彼は、桐子の前で肩を揺らしている。


「魔界で暮らす者の大半は、総称して《魔物》と呼ばれる。悪魔だとか夢魔だとか、その手のは《魔族》と呼ばれるな。私も、その魔族であるが。

キリコの世界で我々がどういう話で存在しているか定かでない。が、欲望に忠実で享楽的という点では、その通りと云う他ない。無論、この私も」


 桐子をついと見た目は、それまでの物静かな理性的な眼差しではなく。何処かぎらついた、凶暴性を想起させる紅の瞳をしていた。ぞく、とメイド服の下で、桐子の肉体は震える。


「……そろそろ、心身共に落ち着いた頃だろう。この世界の事を、もっときちんと話す事も必要になるが……」


 ファブニールは、ふっと、目尻を和らげる。


「急ぐ必要もない、か。なあ、キリコ」

「は、はい」

「せっかくだ、私にも一つ教えてくれ。君は私の事を、どう思っている?」


 先ほどの凶暴な瞳は、無くなっていた。いつもの穏やかな、優しい領主、優しい恩人であった。まだ背筋に残る戦慄きを誤魔化し、桐子は告げた。


「最初の頃から、変わってませんよ。あの変な儀式で召喚されてからずっと、私はファブニール様に感謝しています」


 この人が、どうやら悪魔に含まれる人物であったとしても。今こうして桐子が立っていられるのは、彼のおかげである。

 心より、常抱いていた思いを告げれば、彼は少しだけ自嘲するように笑い声をこぼし、片腕を伸ばしてきた。桐子の頭を包めるような、大きな手のひらが頬を掠める。ふわ、と触れた感触のこそばゆさに肩を竦めると、ファブニールは楽しそうに笑った。


「此方の世界にも人間は居るが、君は実に面白い。メイドとしてもよくやってくれている」

「あ、ありがとうございます」

「……けれど、一つだけ、忠告しておこう」


 ファブニールの長い指が折り曲げられ、指先が頬を撫でた。鋭い、獣の爪。くすぐるような、或いは、蠱惑するように。桐子はくすぐったさに耐えて顔を上げると、目の前の紅の目は妖しく瞬いた。


「此処は片隅の田舎といえど、魔界の一角。暮らす者は皆、悪魔や魔物であり、君は誰よりも脆弱で壊れやすい。しかも、《君》という人間はたった一人しかいない、恐らくな。

あまり魔界の住民に……懐かない方が良い。いつ、何処で、食べられてしまうのか分からないぞ」


 囁く低い声に、桐子は驚いて目を見開いた。


「……ファブニール様も、そうですか?」

「ふ、さて、どうかな」

「え、えー……?」

「冗談だ、私は私の許容範囲に収まるものを蔑ろにはしない。少なくとも、この街の住民は皆無体を強いる事もない、安心しなさい」


 花の精霊よりも、旦那様の方が気まぐれなんじゃなかろうか。桐子は目の前で笑う、長身な悪魔を見上げる。頬に触れていた手は、いつの間にか離れていた。


「……ただ、そういう者が確かに存在しているという事は、覚えておいた方が良い。此処の世界の連中は、等しく皆、飢えている。他者との繋がりに、温もりに。すべからく、優しくするという事は、その向こうに下心があるものだ」

「え?」


 尋ね返した、その時だ。

 バルコニーの真下から、カーミラの優美な声が響いた。


「キリコちゃーん、シーツ洗いましょう~今日は良い天気だわ~」


 桐子はバルコニーに縁に近づき、見下ろす。犬耳と尻尾の生えた、深紅に染まった美しい美女、カーミラが手を振っている。そうだ、話し込んではいけない。仕事があるのだ。桐子はカーミラへ手を振り返し大きく返事をした。カーミラは甘く微笑むと、視線を横へ動かし、ファブニールを見た。


「旦那様、キリコちゃんが可愛いとはいえ、長時間捕まえないで下さいます?」

「ああ、すまない」

「全く、坊やが黙っておりませんわよ? 私もですけれど。ともかくキリコちゃん、旦那様は放っておいて良いから、中庭へいらっしゃいね」


 カーミラはにっこり微笑み、歩き出した。随所に滑らかな毒が見え隠れした気がするが……あまり深く考えない方が良いだろう。直ぐにその姿が見えなくなったので、桐子はファブニールへ向き直り一礼した。


「ファブニール様、すみません、お仕事へ戻りますね」

「いや、良い。すまないな、引き留めて」

「いえ、こちらこそありがとうございました」


 笑みを浮かべ、ぱたぱたとバルコニーを出る。そして、もう一度振り返って頭を下げた。ファブニールは紅の目を細めて「いつでも来なさい」と言葉を告げた。其処に先ほどの妖しさはなかったものの……少しの困惑を桐子へ植え付け、何となく急くように執務室を去った。




「……本当に、気を付けた方が良い。私も、例外ではない」


 ファブニールがそんな呟きを漏らしていたのを、桐子は気付かなかった。




各キャラにスポットを当て迫る。一人目は、領主ファブニール。

良い人だけど、もう5枚くらい顔がありそうな人。

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