01 此処は片隅、魔の世界
私――桐子は、至って平凡な人間の女であるのだけれど。
住み込みで働かせて頂いている場所は、少し、いやかなり、変わった人の集う場所だった。
桐子の仕事は、朝早くから始まる。
紫がかった深い藍の空に太陽が昇り、夜明けを迎える頃。太陽が沈み銀色の月の浮かぶ夜間にのみ活動するという三つ目の魔鳥が、目映い朝日を浴びて断末魔の如く鳴き叫びながら何処かへ飛び去る羽音と悲鳴を、窓の向こうに聞いて桐子は目を覚ます。今日も元気よく朝を告げる、さしずめニワトリの声代わりなそれは、ようやく聞き慣れた音であるが本当に肝の冷やす鳴き声である。
桐子はしばし目を瞬かせ、枕元に置いてある、黒い蜥蜴の装飾をあしらったゴツい時計をゆるりと見る。時刻は、朝の五時半。大体前後するが、これがほぼ桐子の起床時刻だった。柔らかい枕とシーツ、上掛け布団に包まれていると睡魔が再び押し寄せるものの、桐子は緩慢に動き出す。もそり、と上体を起こして室内を一瞥。半分開けた黒いドレーンカーテンからは朝日が伸び、天井と寝台を柔らかく照らしている。今や見慣れたこの私室は、ドレッサーやクローゼット諸々の家全て含んで、《主人》が与えてくれたものだ。(ちなみに、洗面台やトイレも完備というとんでもない部屋)ありがたい限りを噛み締めつつ、寝台から起きた桐子は、その足で窓辺へ近付きカーテンを全て開く。
シャ、と音を立て左右に割れたカーテンの向こう。乳白色ともいえるような濃霧に包まれた、それは物語のような幻想的な西洋の風景があった。薄ぼんやりと仄蒼い空に、行き渡る太陽の光。霧に抱かれ浮かび上がる輪郭は、西洋館の広大な敷地や、その向こうの小さな街だ。
今日は晴れるだろうか、と思いつつ、桐子は昨晩の内に用意しておいたいつもの衣服に着替える。一繋ぎのワンピースタイプの寝間着を肩から滑らせて落とし、拾い上げて机へ置く。白い長袖のシャツを持ち上げて腕を通し、その上に黒のチョッキベストと、ロングスカートを着込む。そうして最後に白いエプロンと、膝上丈の黒のストッキング、ブーツを履けば仕事着の完成である。所謂、メイド服。といっても、フリルが沢山あるとか異様に可愛らしさをアピールしているとか、そういった要素はなく実にシンプル。おっと忘れてた、赤いリボンをきちんとシャツの襟の下に巻いて結び、今度こそ完成である。
「……よし」
手早く顔を洗って、歯磨きをし、髪を整える。それから、桐子は与えられた私室を出て、早速朝の仕事へ出るのである。
まず桐子が向かうのは、厨房と隣接した使用人たちが集まり休憩する部屋――所謂、事務室のようなもの――だ。
厳かな城にも等しい、美しい内装の大きな西洋館の中は、まだ朝早いという事もあって静まり返っている。まだ仄かな暗さの残る広い回廊に、青白い火を灯すカンテラが浮かび上がる様は中々のゴシックホラーめいたものを彷彿とさせるが、もう慣れた桐子には綺麗な光景で済んでしまう。なにせ此処の《使用人》たちの方が、インパクトが強いのだから。
幾つかの角を曲がり洋館の奥へと進む桐子の前には、目的地の扉が現れる。扉の造形自体はダークブラン単色に染まるありふれたものだが、縦横二メートル超えの、大層立派な扉だ。その前であふ、と欠伸を一つ零してから、取っ手を握り力を込め引いた。ガチャリ、と大きな音を立てて開かれた先へ足を進める。
「おはようございます」
扉を引いたまま桐子が告げると、部屋の中から複数の声が返って来る。
「おはようございます。良い朝ですな、キリコ殿」
すかさずガシリと扉を支えてくれたのは、それ以上に大層立派な身の丈の漆黒の甲冑である。正確な数字は定かでないが、三メートル前後である事は間違いない。桐子は顎を上げるほどに、ぐっと目一杯見上げる。
剣撃を受け止めたらしい傷が至るところはっきりと見て取れる鎧に、緩く巻きつけた銀鎖、天辺に乗っかる兜は前に突き出た角の装飾付きだ。全身甲冑という外見の物々しさを随所で際立たせる威圧感が滲み出ているのに、頭部の兜の向こうより響く声は穏やかそのもの。気品を放つ、壮年を迎えた男性の低い声音だ。少し眠さの残る耳には、心地よすぎるくらいである。
第一の使用人は、今日も紳士的な物腰が光っている。
「ありがとうございます、ヴェルゴールさん」
「お気になさらず、騎士の務めなれば。キリコ殿は、今日もお優しく美しい限りで……」
桐子が踏み入れると、その扉を丁寧に閉じる黒の甲冑。ガシャリ、と音を立てながら胸に手を重ねお辞儀をした、のだが。
その頭がずるりと傾き、次の瞬間――――派手な音を立てて兜ごと床へ落ちた。牛の角、というより、悪魔の角のような装飾を施した兜が床を転がる。
「やや?! 頭が急に軽く……おっと、これは失敬。本当に頭が軽くなっておりましたな」
言いながら、黒の甲冑は兜を丁寧に拾い上げる。桐子の見上げる先の、本来頭部のある場所には、何もない。強いていれば、青白い霊体といおうか、靄が其処から漏れている。
最もそれも当然で、この甲冑の中身は霊体、つまり――――何も、ないのだから。
「今日もよく取れますね、やっぱり留め具で固定した方が良いのでは」
「うーむその通りではありますが……何だか恰好がつきませんので、それはあまりしたくないのであります」
兜を丁寧に頭の上へ乗っけると、霊体の靄が兜の中身を満たし、顔当ての格子から鈍く青白く光る細長な目のようなものが見下ろした。恰好悪いも何も、小脇に頭を抱えて動き回る首なし甲冑の姿よりかはマシな気もするが……。
と、これを言って彼、騎士の魂が宿った甲冑――ヴェルゴールがそうした試しは一度としてないので、桐子はそれ以上告げなかった。
だが。
「かっこ悪いも何も、アンタ既に死んでる身でしょうが」
そう悪態を付く若い青年の声は、部屋の奥の椅子に座る人物……第二の使用人のものである。
首を目一杯上げてもギリギリ天辺の兜が見えるか見えないかという、この黒い甲冑から視線を下げて、彼へと移す。ギ、と音を立て椅子を器用に傾ける様は、少々だらしないものの、それは彼のいつもの事なので特に気にはしない。桐子よりも年下な声――十八歳程度だろうか――に相応しく、背丈も体格も細身なすらりとした青年の身体つき。あれでいて、この西洋館の厨房全てを預かる料理人なのだから凄い。まあ声音から察する若さもあるけれど、彼の容姿は言うなれば……ウサギなのもので。
くあ、と欠伸をする時は全てをコケにしたような顔つきになるものの、それを戻せば桐子も見てきた、ウサギの顔だ。少し灰色がかった白い毛はふわふわで、二本の長い耳はピンと立ち、紫色という不思議な色だが丸いつぶらな瞳は、確かにウサギなのだけれど。その雰囲気は愛玩する可愛らしさではなく、野性の鋭さと妙な肉食性を抱かせるものだった。可愛さの欠片を何処かへ捨ててきた、ウサギの獣人……それが、彼だ。
第二の使用人は、今日もとても澄ましている。
「おはようございます、イシュトさん。約一名、まだなんですね」
「はよ、まあ何時もの事だし。どうせ朝礼間近になって来るさ」
そうして、イシュトはまた一つ欠伸を零す。全てをコケにした顔で。
それからしばらく経って、部屋の時計が六時を指す、ほんの数分前になった頃。
桐子もやって来たあの扉が、再び開いた。うとうとしていたイシュト、コンパクトに背を折り曲げてしゃがむヴェルゴール、そんな彼と談笑していた桐子は視線を扉へと向けた。
まず最初に飛び込んだのは、赤だった。鮮やかな薔薇、或いは、唇に乗せる艶やかな紅を彷彿させる、美しさの香る赤。それを纏ったような、第三の使用人の姿が各々の視界に入る。
「ふわ……今日も皆早い事。私が最後なのね」
言葉の節々から仕草まで、色香を滲ませる彼女は、ゆったりと部屋へ入り扉を閉めた。緩やかに毛先の波打つ髪は艶のある真紅、こめかみのやや横に丸め束ねた団子から、こぼれた長いそれは首筋から胸の前へと流れている。ぴっちり、ではなく、少々乱雑で手櫛で纏めたようであるが決して見苦しくなく、むしろ彼女の雰囲気をより艶やかにさせている。同じ女の桐子から見ても、羨むほどのプロポーションの持ち主で、開いたシャツの向こうの豊満な胸やら、その割に細くくびれた腰回りやら、色白なきめ細かい肌やら、何食ったらそんな肉体になるのか甚だ疑問だ。彼女もメイド服を着ているが、桐子の着る黒いそれとは違い、ワインレッドに染められている。服の造形自体は一緒なのに、この空気の違いは如何に。
さすがは年上、欠伸一つ噛む仕草すら艶があるが、決して鼻にはつかない。むしろ、それどころか。
「おはようございます、カーミラさん」
「おはよう、キリコちゃん。……あら、リボンが曲がっているわ」
「え、あっ」
「ふふ……ほら、直してあげる。いらっしゃいな」
むしろとても、優しい。
そう言って、彼女は白い手を桐子の胸元へ伸ばし、格段に綺麗な蝶々結びを施した。白い手に映える、綺麗な爪の形。何色にも染められていない、素肌の淡い桃色の浮かぶ爪先の動きに、ドキドキする桐子の前には彼女の豊かな胸の谷間があり、同性でもやや気恥ずかしさを感じる。年上の色気……と思っていると、頭の天辺を撫でられる。もう子どもではないものの、そうやって笑う彼女は艶やかなのに母性が滲み、優しげに微笑んでいるので何も言えなくなる。姉のような、母のような。
ただ、彼女はこの奇妙な面子の中に居るだけあって。
本来あるはずの人間の耳はなく、代わりに頭の天辺でピンと立つ――――犬の耳が。
そして、羨むほどの美貌と肉体を持つ下半身の後ろには――――犬の尻尾が。
イシュトとは異なるものの、獣の要素を持つ女性……それがカーミラである。けれど今日も今日とて、第三の使用人は美しい。
「カーミラ殿、おはようございます。今日も大変お美しいですな」
「あら、ありがとうヴェルゴール」
「世辞に決まってんでしょ、おばさん。毎回何で朝礼ギリギリなんだよ」
「お黙り坊や。いつかその耳引き千切ってくれるから、覚悟していなさい」
「やってみなよ、女だろうと容赦なく顔面ボコボコにしてやる」
……カーミラの美しい顔ばせが、可愛らしいウサギの顔が、悪魔のような表情を浮かべた。何だろうな、この二人の喧嘩腰は。ウサギと犬という、草食と肉食の所以なのだろうか。
「まあまあ、お二人とも。落ち着いて」常識人(……いや鎧?)のヴェルゴールが背を曲げ、どうどう、と両手を伸ばして宥めるが、二人の鉄拳は互いの顔ではなく、仲裁に入ったヴェルゴールの鎧へと向かう。三メートルの甲冑から吹っ飛んだ兜が、部屋の天井に弾丸の如くゴリッと突き刺さるのを桐子は見上げた。(角のせいだろう)
「ああッ?! 我が輩の頭が!」
「アンタの頭は既に無いだろ!!」
「なんと無慈悲な……。年長者にはもっと優しくして頂きたい、イシュト殿……。カーミラ殿まで、何も一緒にならずとも」
心なしか声に涙を浮かべ、ヴェルゴールはガシャガシャと飛び跳ねて、突き刺さる兜を回収し始める。
「はあ、お子様は朝から失礼で嫌になっちゃう。私の癒しは、キリコちゃんだけだわ~」
カーミラはほっそりした両腕を桐子へ伸ばし、その頭を抱きかかえる。顔面から遠慮なく押しつけられる柔らかい肉の感触とくすぐる香りに、世界中の男子の夢が我が身に降りかかっていると思うと、何とも言えぬ気分になる桐子だった。
「さて、とにもかくにも」
ガシャリ、と兜を天辺に乗っけて、ヴェルゴールが声を改める。
「使用人一同集まったところで、早速今朝の打ち合わせとまいりますか」
時計の示す時刻は、朝六時。毎日行われる使用人同士のミーティングが、ようやく始まろうとしていた。
この大きな館には、三人の使用人が働いている。
一人、魂の入った動く漆黒の甲冑……敷地内の守人、ヴェルゴール。
一人、白色のウサギの獣人……厨房全てを取り仕切る料理人、イシュト。
一人、真紅の犬耳と尻尾を持つ美しい女性……西洋館のメイド、カーミラ。
ついでに桐子も、服装の通りメイドとして使用人たちの中へ加わっているが、この三人が西洋館の全ての使用人であり先輩であった。使用人と言うには少々、ただならぬ気迫と言おうか、普通の一般人とは異なる凄みを感じさせるものの、皆、桐子にもよくしてくれる存在だ。決して、外見が人間ではないからという安直な理由ではない。
使用人たちの長は通常、館の主の他にその執事、或いは側近らしいのだが、この館に主人以外の長は居ない。何でもそれが、主の決めた事であるとか。桐子には元々ピンとこないところだったので、皆仲が良いからそれでいい、と思っていた。
各自の仕事と、主の今日のスケジュールを確認し合った後は、早速仕事に入る。
と言っても、主人が寝ているのでガシャガシャ煩く動き回らず影の如く静かに行動をする、というのが先輩談だ。主にこの時間帯は、朝食の支度と部屋のセッティング等がメインとなる。イシュトは昨晩の内に仕込んだ料理を仕上げに掛かり、ヴェルゴールは何分あの図体と甲冑なので外で薪割りという力仕事をする。カーミラは皿や銀食器を丁寧に磨いて、身内が食事を取る為の部屋«食堂室»を整えたり茶を用意したりする。さて、桐子の仕事はというと、カーミラと共にその支度をするのだが、重要な役目を仰せつかっていた。それは。
「――――キリコちゃん、坊やが準備出来たって。そろそろ旦那様を呼んで、朝ごはんにしましょう」
「はい」
およそ五メートル以上ある大きなアンティークテーブルから、埃という埃を漏れなく駆逐する勢いで拭きまくっていた桐子。カーミラからそう声を掛けられ、タオルを片付け直ぐに向かった。
桐子にとっては、大きなお城のような西洋館。お手製の地図と迷子を繰り返した経験から、ようやく配置を理解はしたものの、本当に広く豪奢である。
さて、西洋館のその作りであるが、立派な玄関ホールに立った時、正面には客を招いての正式な食事の場、或いはパーティーの会場となる«広間»と、食後の団欒に主に使用された«応接間»があり、此処を中央のエリアとする。食堂室はこの中央エリアにあるが、ちなみにこの時点で、かなりの規模を取る。そして、この主要階となる中央の左側が半地下の貯蔵庫や厨房、洗濯場といった諸々の裏方作業場の集まるエリアとなる。桐子たちが最初に集うのは、このエリアの一室になる。その反対に位置する右側が、書斎や執務室といった部屋が集まる西洋館の主であり領主である人物のエリアだ。それぞれのエリアには階段が設けられ、二階部分は寝室など個室が幾つも並んでいる。
これら三つのエリアが、絵画や美術品の飾られた回廊で繋がり、中庭を囲んでいるのだ。改めて思う……本当に、お城のようである、と。
上質な赤いカーペットが広い廊下に敷かれ、緩やかな傾斜の階段へと続いてゆく。壁に掛けられた青白い不思議な炎の灯るカンテラは、朝日と共に薄くなり、今は淡く灯っていた。ふと窓から見えた景色は、あの乳白色な霧がだいぶ薄れ、その姿を陽射しのもと浮かび上がらせていた。今日はよく晴れそうだ。一人小さく笑い、階段を昇り切り、奥で静かに佇む扉の前に立ち止まる。一拍呼吸を置き、扉をノックする。失礼します、と声を掛けても返って来ないので恐縮しつつ入室した。
中はぴったりとカーテンが閉ざされ、薄暗かった。広い室内の真ん中に、キングサイズの寝台が横たわり、其処はこんもりと膨らんでいる。まだ眠っているだろうか。寝ていても必ず起こせ、というのが主人の言葉なので、てくてくと桐子はカーテンに近付く。それを躊躇なく左右へ割り光を導くと、薄暗い部屋は明るく染められた。寝台に埋まっている影が、ぴくり、と震えるのを肩越しに見る。
「おはようございます、旦那様。今日は良い天気ですよー」
衣擦れの音がし、次いで掠れた声が聞こえる。朝弱いのは《彼ら》の特徴で、また直ぐに寝息が聞こえるという有様だ。桐子は苦笑をこぼし、寝台へ歩み寄る。枕元に佇んで、両腕を伸ばしユッサユッサとその塊を揺らしに掛かる。
「旦那様、旦那様、陽は出ました。朝食の用意も間もなく整いますよ」
「ッう……」
黒い布団の下で、身動ぎが多くなる。そろそろ起きるかな、と桐子が見下ろしていると。
「……事務的でつまらないな」
「はい?」
「他人行儀だ、いつものように言ってくれないか……」
普段はもっとキビキビと話すのだけれど、寝起きのせいかやや気の抜けた響きが感じられた。吐息混じりの低音には妙な色っぽさがあるものの、桐子は溜め息をついて仕方なしに彼へ告げる。
「――――起きて下さい、ファブニール様。朝ごはん一緒に食べましょう?」
やや砕いて言えば、寝台に埋まる大きな塊は再び動き始める。
「やっぱり、そう言われる方が良い。キリコ」
緩慢に起き上がった塊――――もとい、使用人たちの雇い主であり西洋館の主、そして小さな領地の主は、ようやくそのご尊顔を見せてくれた。
カーミラの犬耳とも、イシュトのウサギ顔とも、威圧感で一線を画す――――獰猛さを宿した中々に鋭い獣の顔立ちが、桐子の瞳に映り込む。
白から黒へと染まる獣毛が全身を覆い、寝間着の向こうから覗く喉元と胸はふかふか。獣人、といえばそうなのかもしれないが、少なくともこのお顔の上から生えた角を見る限り初見でもそう思わないだろう。濃紅色のたてがみの中から突き出た、捩じれた赤黒い角。獣の角とは、既に見てくれが違う。
けれど、欠伸を一つこぼした仕草は。外見の恐ろしさに反して穏やかそのものである。
「もう、私は使用人なんですから良いじゃないですか。いつもこれ言ってますよ」
「私は使用人たちとも近しい場所に並んで居たいだけだから、気にする必要はな……う、本当に良い天気だな」
寝台から出たファブニールは、眩しそうに目を細めた。たてがみと同じ、深紅の色。
すっと立ち上がったその身体は、何処となくイシュトのしなやかさを彷彿させるが、それよりもがっしりとした線は浮かび上がっている。女の、それも人間という種族の生き物と比べれば、最早論じるレベルでない。わりと標準的な160センチの身の丈な桐子を、彼は楽々と超えて佇む。する、とシーツから抜け出た彼の尾――――獅子に似た尾が、桐子の隣で揺れていた。
「さて、支度をするか……」
言いながら隣接する洗面所へ向かう大きな姿を見送って、いつもの長丈なコートをクローゼットから取り出す。ぐるぐる抱えないと裾を床に引きずってしまう有様なのだから、身長160センチには到底辿り着きそうにない長さである。
直ぐに戻ってきたファブニールは、身なりも着替えてきて白いシャツとズボンの姿をしていた。先ほどよりはしゃっきりした顔をしているものの、目は眠そうである。彼の種族――――魔族ゆえの朝の弱さだろうか。
ボタンは三つくらい外れて豪快に胸が見えるけれど、ふかふかな毛しか見えないので恥ずかしさ皆無。はいどうぞ、とお衣装を広げて差し出すも、この離れた身長差のせいでどんなに頑張ろうとせいぜい広い背中に届くか否かというところだった。が、ファブニールは気にせず後ろを向いて背を見せ腕を通す。
「キリコ、君はあれだな、あまり異性の身体は気にしない性分なのだな」
「え? いえ気にはしますが、ファブニール様より、カーミラさんの胸にいつもドキドキしてます」
「……本当、君は自然体だな」
何とも言えない声音でくつくつ笑うと、ファブニールは振り返った。白いシャツに映える、黒の上質なコート。ベルトは緩めに腰に巻きつけるが、いつもコートの前を合わせる金属の留め具は外しているので、動くたびに裾が恰好よく翻る。
「今日も悪の化身みたいで素敵ですよ、ファブニール様」
「ふむ、善良なる領主でありたいのだが……まあ、前向きに受け取っておくとしよう」
「ふふ……ああ、スカーフを巻きますね」
これを付けて、主の身支度は終了だ。桐子はさっとスカーフを取り、両手に持つ。ファブニールは赤いたてがみを少し垂らして、顔を下げた。上から突き刺さりそうになる捩じれた角を横へ回避し、桐子は数歩近付いて腕を伸ばす。爪先立ちで太い首にスカーフを回し、シャツの襟の下へ通す。この作業も我ながら上手になったなと、桐子は内心でほくそ笑む。
ゆったり緩く結んでいるその間、目の前の獣の口が開いた。
「やはり、君に起こして貰うのが一番良い」
「そうですか?」
「ああ……あの三人は、ろくでもなくてな。ヴェルゴールは起こすというか、私をそのまま小脇に抱え運んで行くだろう? 鎧と鎖がな、地味に食い込んで痛い。イシュトは酷い、起きていようがなかろうが飛び膝蹴りだ、仮にも主である私に向かって。カーミラはまともそうに見えて、耳元で『あと五秒で起きないと、ナイフを一本ずつブッ刺します』と、本当に手にナイフを握って立っている。……はあ、まあ良いんだが」
良いのか。その姿勢が誘発しているんじゃないのか。
とは思ったが、目の前の角を持つ獣の顔はさして気にした様子もなく笑っているので、口には出さないでおいた。
「だから、キリコの優しさは、実にありがたい」
そう告げたファブニールへ、桐子はかぶりを振る。
「……いいえ、それは私こそ、ですよ。ファブニール様」
何の取り柄もない、ただ存在だけが珍しい《人間》の女を、メイドとして救い上げてくれて。
口にはしなかったが、桐子の目はそう語っていただろう。ファブニールの目が細められた。笑った時の、彼の仕草だ。
「多くの魔族……悪魔たちが、持つ事を難しいとし、それでいて焦がれるものだ。誇って良い」
「ありがとうございます。さ、朝ごはんを食べに行きましょう」
桐子は扉へ駆け寄り、さっと開いて立ち止まる。ファブニールは小さく息を吐いていた。
「……惜しむべくは、君が自らの価値を正しく捉えていない事か」
「え?」
「なに、こっちの話だ。さて、行くとしよう、あまり遅くなると、イシュトの鉄拳が飛んでくる」
ファブニールは長い足を進ませ、コートの裾を翻し扉をくぐり出た。桐子は丁寧にそれを閉じて後ろに続こうとしたが、振り向いた先には、大きな手があった。黒い毛の覆う、二十センチ以上はありそうな、それは立派な無骨な手。人間とは異なる、人ならざる者の大きな手のひらだ。鋭い爪が生え揃う五本の獣の指は、桐子へ向いている。えっと、と桐子は差し出された手のひらと、見下ろしてくる主人を見比べる。ファブニールは少し頭を傾け、赤いたてがみを揺らした。ぴすぴす、と鼻が震えている。
「手を」
「え?! いやあの、私は……」
「構うな」
言うや、ずいっとファブニールの手が近付いた。おろおろし空中をさまよっていた桐子の手は、長い指に容易く捕られられる。人間のものとは違う、さらりとした毛の感触。指先一つで潰れそうな自らの手の小ささと、主人のそれの大きさに驚きつつも、ぐっと引っ張られてしまい前のめりになる。
「わっファブニール様」
「人間の手は本当に小さいな。柔らかくて、直ぐにでも壊れてしまいそうだ」
ファブニールは声を笑わせており、すいすいと進んでゆく。桐子の困惑など余所に。こういうところが、妙に魔族らしいというか何というか。ファブニールの隣へ並ぶよう手を持たれ、桐子は困ったように眉を下げる。
「私は、このお屋敷でも一番の下っ端なメイドです」
「仮にそうだとしても、主である私が気にしていないのだから、君が気にする必要はない」
「そんな無理やり……」
ファブニールはやはり気にせず笑っているので、桐子も仕方なく諦めた。どうせ剥がそうとしたって、桐子の力など彼らにとってはぺちぺちしてる子猫くらいなものだろうから、負けは最初から見えている。
「……テーブルに着くまで、ですからね」
「勿論だとも」
告げた瞬間、ファブニールの指先がぎゅっと桐子の手を包んだ。すっぽり覆われた手は、ふかふかの感触に包まれ温かな心地があった。魔族――悪魔やら魔神やらを統括してそう呼ぶらしい――にも、体温があるらしいと桐子は再確認した。
「良い匂いがしてきたな、今朝の食事は何だろうな」
「さっき斑模様の大きな卵にガンガン拳ぶつけて割ってましたよ、イシュトさん。あんなアグレッシブな割り方初めて見ました」
「……斑模様……コカトライスの卵か。何処で手に入れてきたんだろうな」
身長差およそ五十センチ以上、手の大きさ十センチ以上という、デコボコの主人と使用人は、仲良く肩を並べて回廊を進む事になった。
そうして、朝食の支度の整った食堂室に辿り着くと、長いアンティークテーブルに料理が並ぶ風景が映り込む。ほかほかと湯気を立て、美味しそうな香りを放つその側には、三人の使用人が並び一礼をし主人を出迎えた。毎日の事ながら、中々圧巻の光景だ。桐子は委縮しつつ、ファブニールと共にテーブルへ向かう。ヴェルゴールは上座の椅子をそっと掴み、静かに引いた。
「あと数分遅れたら殴り込みに行くと、イシュト殿が言っておりましたぞ。主殿」
「……頼むからお前は、直ぐに手を出すのを止めてくれないか」
「その俺を雇ったのはファブニールさんでしょ。文句言わないでくれる」
「……ほら、これだ。全く本当、優しいのはキリコだけだ」
はあ、と溜め息をついて、ファブニールは椅子へ腰掛けた。ちなみに手は、未だに桐子のそれを握ったままだ。もうそろそろ離してくれないだろうか、と桐子が解こうと苦心していると、イシュトの目がそれを見つけ、急に鋭さを増した。
「ちょっと、何時まで握ってんの」
「え、いや、ファブニール様が離してくれな……」
「悪いな、イシュト。私はお前と仲良くおててを繋ぐ趣味はない」
「俺もないわ、そんな趣味!」
ウサギとは思えない怪力で、ベリリッと繋がった手を解く。何をするんだ、と言わんばかりに目を見開くファブニールと、睨みつけるイシュトの間に火花が散っているようにも見えるが、桐子は助かったとカーミラへ近付く。
「ふふ、坊やは本当に分かりにくいようで分かりやすいわ~」
「?」
「何でもないわよ。さあさあ、朝ごはんを食べましょう。キリコちゃん」
カーミラの手に背を押され、桐子は椅子に座った。その隣へカーミラも上品に腰かけ、やや不機嫌な顔をしたままのイシュトも同じように腰掛けた。
「今日も美味しそうな朝ごはんですねー」
「当たり前でしょ、誰が作ってると思ってんの」
「うむ、我が輩も口に出来れば良いのですが……匂いだけでも、しっかり味わおうと思います」
机の側に立つ漆黒の鎧は、ほくほくとした様子で見下ろしていた。「死んでるから味わうも何もないだろ」とイシュトのつっこみが入るものの、機嫌はもう治っているようだ。
「……さて、頂くとしようか」
ファブニールの一言を切っ掛けに、ぱちり、と彼らは両手を合わせた。そして静かに「頂きます」と告げ、フォークを取る。桐子の教えた、由緒正しきジャパニーズ流食事挨拶がすっかり浸透している。豪奢な西洋館に浮かび上がる祖国の香りは、ミスマッチの何ものでもなかったのだが、桐子は馴染んでいる挨拶を自らもしてフォークを取った。
この西洋館には、面白い決まり事がある。それは、朝食だけは必ず全員で取る、というもの。普通は主人が先に食べて使用人は後、というのだと思うのだが(実際聞いたところそれで当たっているらしい)、主人ファブニールはこれを拒否。良いじゃん飯くらい皆で食べようぜ! という宣言のもと、この決まり事が確立されたとか。昼と夜についてはばらける事が多いので各自取るが、朝については全員が同じテーブルに座って食べるらしい。
旦那様は寂しがりなのだろうか、あの顔で、と桐子は薄ぼんやり思ったが、誰かと一緒にとる賑やかな食卓は楽しくて。この時間が、改めて桐子の朝の仕事であり、一つの楽しみであった。
さて、時刻は朝七時。朝食はのんびりと進み、七時半を指そうとする頃に食事を終えた。本当に料理は美味しかった、特にふわふわ柔らかなスクランブルエッグが。
これからが、桐子の仕事の本番だ。
「――――よし、お腹も膨れたし、稼ぐとしますか」
桐子は柔らかい芝生の覆う中庭に出て、真っ青な空を見上げた。何処か鮮やかで、何かが違う大きな空。予想の通りの澄み渡る晴天に恵まれ、清々しい陽射しが視界に煌めく。洗濯物がよく乾きそう、と思う桐子の眼差しの先で、竜の陰影が流れてゆく。
「……本当に此処は――――異世界なのね」
呟き、桐子はシャツの袖を捲くり上げる。主人の腕とも、使用人たちの腕とも、根本的に異なる質を持った自らのそれを見下ろし、改めてこの場所において桐子はとても《稀有》な存在であり、《異形》の存在なのだと思うのだ。
……ああ、一つ言い忘れていたが。
桐子の住み込みで働く場所は、とても変わった人達が集っている。
動く空っぽの鎧に、二本脚で歩くウサギ、犬耳と尻尾の生えた美女に、極めつけた実に悪魔らしい容姿の主人。誰も彼も、桐子の日常にあったはずの人の姿をしておらず、全て《人ならざる者》ばかりであった。
……まさかこんな事が起きるとは、という体験をしたのが、つい一ヶ月前の事。
人でない感じがする者たちに囲まれているのは、仕方ない事と云おうか。
――――どうやら自分は、異世界、それも悪魔だとか魔物だとかが暮らしている土地へ、旅立ってしまったらしい。
という、明るい悪魔たちに囲まれて過ごす日常系異世界トリップ。
バトルもシリアスも多分薄口風味、メイドとしてもみくちゃにされながら頑張っていこうぜ!をスタンスに展開予定です。
宜しくお願いします。




