42話 終わらない宴
リンデの屋根が見えるより先に、焼いた肉の匂いが風へ混じった。
日が傾き始めた街道を、レティシアは馬上から村の方角へ目を凝らした。畑仕事を終えるにはまだ少し早く、共同倉庫で大鍋を使う予定も聞いていない。それなのに煙は一か所ではなく、家々の間から何本も立ち上り、人の声まで夕暮れの空気へ重なっている。
後ろを進む荷車は、王都へ向かった時より明らかに重かった。着替えや書類に加え、禁固中に届いた手紙の箱が荷台の半分近くを占め、轍を越えるたびに縄の下で低く軋んでいる。
村の入口には、グロムが立っていた。
「それ、全部持って帰ってきたのか」
「わたくし宛じゃからな」
挨拶より先に荷台を見たグロムは、捨てればよいと肩をすくめ、さらに燃やせとまで言い出した。
「おぬし、今それを言うか?」
グロムが声を立てて笑う。
その後ろにも人がいた。道の両側、家の前、共同倉庫の周りまで、仕事を切り上げたらしい村人たちが集まっている。子供は大人の間から顔を出し、山狼衆の者まで村の中へ混じっていた。誰も王女を見て家へ戻ろうとはせず、通りに面した戸も、窓も、開いたままだった。
初めてこの道を通った日には、馬車が進む先から人が消え、ひとつずつ閂が落ちた。
今日は、どの家からも笑い声が漏れている。
「……何じゃ、これは」
「宴会」
グロムは当然のように答えた。なぜ宴会をしているのかと重ねて尋ねると、今度はレティシアの帰還祝いだと言う。
答えを受け取る前に、共同倉庫の方から声が飛んできた。
「レティシア王女! こっちだ、もう始めてるぞ!」
帰還を待つ宴ではなかったのかと抗議したが、酒は待てないと笑い返された。
「それでは、わたくしの帰還は関係ないではないか!」
通りへ笑いが広がった。
言い返している間に馬の手綱を取られ、鐙のそばへ踏み台まで置かれた。自分で降りられると言っても、料理が冷めるから早くしろと急かされる。地面へ足をつけた途端、今度は背中まで押された。
「押すでない! 帰ってきた王女の扱いではなかろう!」
なら自分で歩けと返され、レティシアは歩いていると抗議しながら人の輪へ入った。
広場には長い板を渡した卓が何列も並び、焼いた肉、根菜の煮込み、パン、焼き芋が隙間なく置かれていた。山狼衆と村人が同じ卓を囲んでいるところもあれば、間へ一つ席を空けたまま飲んでいるところもある。全部が昔どおりではなくても、同じ広場で同じ鍋を囲むところまでは来ていた。
その中央で、一番大きな声を出している男がいる。
「前は火、後ろからはガルド兵、沢へ下りようにも逃げてきた連中で埋まってる。怪我人を抱えた俺たちは岩場から動けなくなって、さすがにもう駄目かと思った、その時だ。煙の向こうからレティシア王女が現れて、山狼衆を引き連れたまま火の中を一直線に――」
「待て」
トーマは聞こえていない。
「俺たちを見つけるなり、ガルド兵の前へ立ちはだかって――」
「待てと言っておる!」
ようやくトーマが振り向いた。
「あ、帰ってきた」
「帰ってきた、ではない! わたくしは火の中を一直線にも進んでおらぬし、敵の前へ立ちはだかってもおらぬ!」
卓を囲んでいた者たちが、一斉にレティシアを見る。
「違うのか?」
「違う!」
トーマは少し考え、指を一本立てた。
「でも、助けに来たところは合ってる」
「そこだけではないか!」
山狼衆を連れてきたのも本当だと付け足され、レティシアは残りを好きに作るなと怒鳴った。笑い声はさらに大きくなる。
たまらずグロムへ証言を求めると、煙の中から現れたことも、五十人で四万を退けたことも本当だと、余計な部分ばかり補強された。
「話を増やすな!」
どうやら禁固されていた一か月の間、トーマは同じ話を何度も語り、そのたびに少しずつ育ててきたらしい。続きを求める声があちこちから上がり、別の卓では、王女本人が来たのだから今日は正しい話が聞けると笑っている。
訂正するためにリンデへ帰ってきたわけではないはずなのに、すでに訂正しなければならないことが山ほどあった。
空いていた席へ座らされると、すぐ目の前へ皿が置かれた。肉と芋が載り、その横へ煮込みの椀まで押し込まれる。
「食べな」
まだ何も頼んでいないと訴えたが、一か月も閉じ込められていたのだから食べろと聞き入れられない。食事は出ていたと返すと、では二皿目だとさらに盛られた。
「なぜ増える!」
抗議している間にも、焼いた肉の匂いが鼻へ届く。王都を出てから長く馬へ揺られ、昼も簡単に済ませていた身体は、本人の意地とは無関係に腹を鳴らした。
近くにいた者が黙ってもう一切れ載せる。
「聞こえたぞ」
「今のは馬じゃ」
「もう馬から降りてる」
「細かいことを申すでない!」
笑われながら肉を一口食べると、塩気と熱が空腹へそのまま落ちた。そこで黙ったことまで、食べれば大人しくなる王女だとトーマに語られそうで、レティシアは急いで次の反論を探した。
だが、その向こうではもう話が再開している。
「それでレティシア王女がな、岩場へ上がってくるガルド兵を一睨みして――」
「わたくしの前で続けるな!」
宴は、帰ってきた本人にも止められそうになかった。
*
日が沈み、広場へ松明が足される頃になって、レティシアはようやく人の輪から抜け出した。
自由になったわけではない。皿を三度空にし、四度目を渡される前に、広場の端まで逃げただけだった。
樽へ背を預け、少し離れた場所から宴を見る。
グロムは村人と同じ卓で肉を食べ、隣から何を言われても半分しか聞いていない。道路仕事へ出た山狼衆の男は、以前いったん髪紐を売るのを拒んだ老女と同じ卓にいるが、二人の間には杯一つぶんの隙間が残っていた。それでも老女が立つ時には、男が邪魔にならないよう足を引いている。
許したわけではない。
なかったことにもなっていない。
ただ、同じ場所にいられる距離を、それぞれが自分で決めている。
トーマは別の卓へ移り、また話を最初から始めていた。身振りは先ほどより大きくなり、煙の高さも、追ってきたガルド兵の数も増えているように見える。
その近くに、イルゼがいた。
宴が始まった時から姿には気づいていた。トーマへ飲み物を渡し、話が大げさになるたび呆れた顔をしている。それでも、レティシアの側へ来ることはなかった。
こちらから近づくつもりもなかった。
父親のことを知ったからといって、何か言えるようになったわけではない。王家が処刑し、イルゼはそれを見た。その事実は、トーマを連れて帰ったくらいで消えない。
樽の横に置かれた水差しへ手を伸ばすと、別の手が先に柄を取った。
イルゼだった。
「……飲む?」
「うむ」
杯へ注がれた水を受け取る。
イルゼはすぐには離れず、レティシアも何も尋ねなかった。松明の火が揺れ、宴の声が二人の間を通り過ぎていく。
イルゼはトーマの方へ顔を向けた。ちょうど両腕を大きく広げ、炭焼き道の狭さを説明しているところだった。どう見ても、その幅では人が三人並んで通れてしまう。
しばらく夫の姿を見たあと、イルゼがレティシアへ向き直る。
「トーマを助けてくれて、ありがとう」
レティシアは杯を持ったまま、その言葉を受け取った。
王家を許すとは言わない。
父親のことにも触れない。
トーマを連れて帰った一つだけを、ほかの何とも混ぜずに礼として差し出している。
「うむ」
それ以上は足さなかった。
イルゼが小さくうなずく。
たったそれだけで、二人の間のすべてが変わるわけではない。それでも少し前までなら、同じ水差しへ手を伸ばすことも、この一言を交わすこともなかった。
「レティシア王女! トーマがまた話を盛ってるぞ!」
イルゼがそちらを見る。
「また?」
「やはり盛っておったのか!」
イルゼは最初から盛っているし、面白いから止めていないと平然と答えた。
「おぬしも同罪ではないか!」
イルゼが笑った。
レティシアは一瞬、その顔を見た。だが、広場ではトーマが剣を抜く真似まで始めている。
「今度は何を言っておる!」
「王女が燃える森の中で剣を抜いて、追ってきた兵を――」
「抜いておらぬ!」
杯をイルゼへ返し、広場の中央へ駆け戻る。
人の輪は笑いながら道を開け、レティシアをそのまま話の中心へ迎え入れた。トーマは逃げるどころか、待っていたように手を上げる。
「ほら、本人が来た」
「訂正しに来たのじゃ!」
「では、どこから違うか、最初から聞こう」
「最初から全部じゃ!」
周囲がまた沸いた。
新しい皿を押しつけられ、別の卓からは自分にも火計の話を聞かせろと声が飛ぶ。遠くでグロムが杯だけを上げ、イルゼは水差しを持ったまま笑っていた。
逃げようと一歩下がると、村人に肩をつかまれる。
「まだ帰るなよ」
「わたくしは、もう帰ってきたのじゃ!」
「なら座れ」
「話が違う!」
誰も聞いていない。
トーマはもう次の話を始めている。
「それで、俺たち五十人が四万を前にして――」
「その話、まだ続いておるのか!」
開いた戸の向こうまで笑い声が流れ込み、宴はまだ終わりそうになかった。




