↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
偽りの令嬢 ~下働きの娘は、消えた姫君に成り代わり冷徹な婚約者を欺き続ける~  作者: 智珠


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
47/47

終章 まことの令嬢

 夕暮れの光の中で、冴斗さまは、わたしの手を取った。あの、あかぎれの残る、荒れた手を。もう、隠す必要も、白粉で繕う必要もない、まことの手を。


「初めての輿入れは」冴斗さまは、まっすぐにわたしを見て言った。「偽りの婚儀だった。お前は玲の名を騙り、俺は、玲を娶ったつもりでいた。……だが」


 その眼が、柔らかくなった。


「俺が惚れたのは、玲ではない。その名の下にいた、まことのお前だ。……千代。もう一度、始めさせてくれ。今度は、偽りではなく、まことの婚儀を。……まことのお前を、俺の妻に迎えたい」


 わたしは、涙がこみ上げるのを、抑えられなかった。


 偽りの令嬢として、この人のもとに来た、わたし。すべてを偽り、この人を欺いて始まった日々。……その偽りの果てに、いま、まことのわたしとして、まことの想いを、差し出されている。


「……はい」わたしは、涙の中で微笑んだ。「ふつつか者では、ございますが。……どうぞ、よしなに。冴斗さま」


 冴斗さまが、そっと、わたしを抱き寄せた。


 夕日が、二人を、金色に染めていた。


   *


 それから、幾年かの月日が流れた。


 わたしは、いま、氷室の館で、まことの妻として暮らしている。


 もう、姫の仮面は要らない。荒れた手を隠す必要も、作った声で話す必要もない。わたしは、わたしのまま。千代のまま、この館の女あるじとして、日々を送っている。


 冴斗さまは、あれから変わった。あの、氷のような酷薄さは影を潜め、時折、穏やかに笑うようになった。「整いすぎて死んでいた」と、かつて彼が言った、あの庭にも、いまは季節の花が無造作に咲き、鳥が訪れる。


 わたしが、この氷の館に持ち込んだ風は、いつしか、館の隅々にまで、ぬくもりを吹き込んでいた。


 冴斗さまは、わたしに、字を教えてくれた。


 あの、書けなかった手で、いまは、たどたどしくも文が書ける。初めて、己の名――「千代」と書けた、あの日。冴斗さまは、我がことのように喜んでくれた。「見事だ」と。かつて、書けぬ手を握って、「厭うものか」と言ってくれた、あの人が。


 撫子さまとも、文を交わす仲になった。すべてを正直に打ち明けたとき、撫子さまは驚き、そして――泣いてくれた。「玲さまの無念を晴らしてくれて、ありがとう」と。いまでは、まことの友として、時折、都から便りが届く。


 時折、わたしは、思う。


 あの輿入れの朝。井戸端で水を汲んでいた、あの朝。突然、奥へ引き立てられ、「玲になれ」と命じられた、あの日を。わたしは、あれを、人生で最も不幸な日だと思っていた。


 だが。もし、あの日、わたしが偽りの令嬢にならなければ。


 わたしは、冴斗さまに出会うことも、なかった。母のまことを知ることも。柏木の無念を晴らすことも。……そして、己が何者であるかを知ることも、なかった。名もなき下働きの娘として、俯いたまま、誰にも知られず、その生涯を終えていただろう。


 偽りが、わたしを、まことへと導いた。


 仮面を被ったことが、素顔のわたしを見出す、旅の始まりだった。


 もう、わたしは、誰の影法師でも、誰の身代わりでもない。


 千代。ただ一人の千代として、まことの人生を、まことの人の隣で、生きていく。


 その夜も、わたしは、縁側に出て、月を見上げていた。


 背後に気配がして、冴斗さまが隣に腰を下ろす。かつて、氷室の館で、眠れぬ夜に二人、月を見た、あの夜のように。だが、いまは、もう、隔てる偽りは、何もない。


 冴斗さまが、そっと、わたしの手を取った。わたしは、その温もりに、身を寄せた。


「……何を、考えている」冴斗さまが問うた。


 わたしは、月を見上げたまま、微笑んだ。


「……しあわせだ、と。思うておりました」


 偽りから始まった物語は。


 いま、たった一つの、まことのしあわせに、行き着いたのだった。


  (了)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。