終章 まことの令嬢
夕暮れの光の中で、冴斗さまは、わたしの手を取った。あの、あかぎれの残る、荒れた手を。もう、隠す必要も、白粉で繕う必要もない、まことの手を。
「初めての輿入れは」冴斗さまは、まっすぐにわたしを見て言った。「偽りの婚儀だった。お前は玲の名を騙り、俺は、玲を娶ったつもりでいた。……だが」
その眼が、柔らかくなった。
「俺が惚れたのは、玲ではない。その名の下にいた、まことのお前だ。……千代。もう一度、始めさせてくれ。今度は、偽りではなく、まことの婚儀を。……まことのお前を、俺の妻に迎えたい」
わたしは、涙がこみ上げるのを、抑えられなかった。
偽りの令嬢として、この人のもとに来た、わたし。すべてを偽り、この人を欺いて始まった日々。……その偽りの果てに、いま、まことのわたしとして、まことの想いを、差し出されている。
「……はい」わたしは、涙の中で微笑んだ。「ふつつか者では、ございますが。……どうぞ、よしなに。冴斗さま」
冴斗さまが、そっと、わたしを抱き寄せた。
夕日が、二人を、金色に染めていた。
*
それから、幾年かの月日が流れた。
わたしは、いま、氷室の館で、まことの妻として暮らしている。
もう、姫の仮面は要らない。荒れた手を隠す必要も、作った声で話す必要もない。わたしは、わたしのまま。千代のまま、この館の女あるじとして、日々を送っている。
冴斗さまは、あれから変わった。あの、氷のような酷薄さは影を潜め、時折、穏やかに笑うようになった。「整いすぎて死んでいた」と、かつて彼が言った、あの庭にも、いまは季節の花が無造作に咲き、鳥が訪れる。
わたしが、この氷の館に持ち込んだ風は、いつしか、館の隅々にまで、ぬくもりを吹き込んでいた。
冴斗さまは、わたしに、字を教えてくれた。
あの、書けなかった手で、いまは、たどたどしくも文が書ける。初めて、己の名――「千代」と書けた、あの日。冴斗さまは、我がことのように喜んでくれた。「見事だ」と。かつて、書けぬ手を握って、「厭うものか」と言ってくれた、あの人が。
撫子さまとも、文を交わす仲になった。すべてを正直に打ち明けたとき、撫子さまは驚き、そして――泣いてくれた。「玲さまの無念を晴らしてくれて、ありがとう」と。いまでは、まことの友として、時折、都から便りが届く。
時折、わたしは、思う。
あの輿入れの朝。井戸端で水を汲んでいた、あの朝。突然、奥へ引き立てられ、「玲になれ」と命じられた、あの日を。わたしは、あれを、人生で最も不幸な日だと思っていた。
だが。もし、あの日、わたしが偽りの令嬢にならなければ。
わたしは、冴斗さまに出会うことも、なかった。母のまことを知ることも。柏木の無念を晴らすことも。……そして、己が何者であるかを知ることも、なかった。名もなき下働きの娘として、俯いたまま、誰にも知られず、その生涯を終えていただろう。
偽りが、わたしを、まことへと導いた。
仮面を被ったことが、素顔のわたしを見出す、旅の始まりだった。
もう、わたしは、誰の影法師でも、誰の身代わりでもない。
千代。ただ一人の千代として、まことの人生を、まことの人の隣で、生きていく。
その夜も、わたしは、縁側に出て、月を見上げていた。
背後に気配がして、冴斗さまが隣に腰を下ろす。かつて、氷室の館で、眠れぬ夜に二人、月を見た、あの夜のように。だが、いまは、もう、隔てる偽りは、何もない。
冴斗さまが、そっと、わたしの手を取った。わたしは、その温もりに、身を寄せた。
「……何を、考えている」冴斗さまが問うた。
わたしは、月を見上げたまま、微笑んだ。
「……しあわせだ、と。思うておりました」
偽りから始まった物語は。
いま、たった一つの、まことのしあわせに、行き着いたのだった。
(了)




