三章 第5話 凱旋の影
魔王城が崩れたあと、俺たちはしばらくその場を動けなかった。
動く力がなかった、という方が正しい。クラウスは鎧を砕かれ、肋骨を何本かやられていた。セレナは魔力を使い果たし、指先が震えている。エスカは大きな怪我こそなかったが、精神の方が限界に近かった。俺も全身傷だらけで、右肩は上がらず、血が固まって顔の半分を引きつらせていた。
それでも、俺たちは生きていた。
魔王は死んだ。
その事実だけが、何度も頭の中で繰り返された。
近くの岩陰で夜を越すことにした。城が崩れた直後に動くのは危険だった。地面はまだ震え、魔王領の魔力は乱れている。セレナは簡単な結界を張ろうとしたが、途中でふらついた。俺は彼女の腕を支えた。
「無理をするな」
「あなたにだけは言われたくありません」
声は弱かった。
それでも、いつもの返しだった。
俺は少し笑った。
「今は言わせろ」
セレナは抵抗しなかった。岩にもたれて座り込む。顔色は悪かったが、あれだけの術を使ったあとだ。体がついてこなくても不思議ではなかった。
クラウスは壊れた盾を抱えていた。
「捨てろよ、それ」
俺が言うと、彼は不満そうに眉を寄せた。
「長く使った盾だ」
「もう盾じゃなくて板だ」
「板でも役に立つ」
「さすが騎士だな」
「褒めているのか」
「半分くらい」
クラウスは鼻で笑った。口の端に血がついている。それでも笑った。
エスカは少し離れた場所で毛布にくるまっていた。震えは止まっていない。彼女は何度も背後を振り返り、崩れた魔王城を見ていた。
「本当に死んだんですよね」
「死んだ」
俺は答えた。
「本当に?」
「本当に」
「復活しませんか」
「たぶんしない」
「たぶん」
「しない」
俺が言い直すと、エスカは少しだけ安心したように息を吐いた。
「なら、もう帰っていいですか」
「帰るために、まず寝る」
「寝ている間に何か来ませんか」
「来たら起こす」
「起こされても嫌です」
「わがままだな」
「魔王を倒したあとくらい、わがままを言わせてください」
それもそうかと思った。
魔王を倒したあと。
そうだ。俺たちは魔王を倒した。
その言葉は、言えば言うほど現実味を失っていった。あれほど遠く、大きく、重かった目標が、今は過去になっている。俺たちは魔王領の奥で魔王を殺し、生きて外へ出た。あとは帰るだけだ。王都へ戻り、報告し、祝福される。王は褒賞を与え、神殿は祈りを捧げ、民衆は歓声を上げるだろう。
勇者ユリスは、世界を救った者として迎えられる。
その未来を思い浮かべた瞬間、胸の奥が冷えた。
魔王の言葉が蘇る。
お前には、何かが欠けているように思う。
俺に欠けていたものは、一体何だったのだろうか。
思い当たることは、多すぎた。
勇者としての資質か。神託に選ばれなかったことか。すでに人を殺していることか。アルスを。裏彫師を。あるいは、胸に刻んだ偽の紋章のことか。本物の勇者であれば備えていたはずの、何らかの力のことか。
考えれば考えるほど、どれも違うようで、どれも正しいように思えた。
魔王にも分かっていなかった。最後の瞬間、何かに気づいたようではあった。けれど、もう聞き出すことはできない。
魔王は死んだ。
正解を知る者がいたとしても、もうこの世にはいない。
俺は焚き火の火を見つめた。魔王領の夜は暗い。魔王城が崩れたせいか、空を覆っていた黒い雲は薄れ、星がいくつか見えた。こんな場所にも星はあるのだと、妙なことを思った。
セレナが隣に座った。
「眠れませんか」
「今寝たら死にそうな気がする」
「それは重傷者の発想です」
「間違ってない」
セレナは小さく息を吐いた。
「治療します」
「魔力は」
「最低限です」
「自分に使え」
「あなたが死ぬと困ります」
俺は彼女を見た。
炎の光が、セレナの横顔を照らしている。疲れ切っていたが、目はまだ澄んでいた。この女は、いつも自分より役目を優先する。魔術師として。仲間として。旅の途中でそれに何度も救われた。
「俺が死ぬと困るのは、勇者だからか」
冗談のつもりだった。
セレナはすぐには答えなかった。
その沈黙に、俺は少し戸惑った。
「それもあります」
彼女は言った。
前にも聞いたような答えだった。
それも。
それ以外を、俺は聞くべきだったのかもしれない。
セレナは俺の傷に手をかざした。淡い光が滲む。完全な治療ではない。血を止め、痛みを少し鈍らせる程度だ。それでも体が楽になった。
「帰ったら、しばらく休みましょう」
セレナが言った。
「王が休ませてくれると思うか」
「魔王を倒したのです。少しくらい要求してもいいでしょう」
「何を要求する」
「あなたがちゃんと眠る時間です」
「褒賞がそれか」
「私にとっては重要です」
俺は笑った。
セレナも少しだけ笑った。
その笑みを見て、胸が痛んだ。真面目で、融通が利かず、俺の怪我を見逃さず、危ない橋を渡るたびに眉をひそめる。そういうセレナが隣にいる未来を、もう当たり前のように思い始めていた。
だが、その未来は俺のものではないのかもしれない。
王都へ帰り、魔王討伐の報告を終え、しばらく休む。クラウスは騎士団から褒められ、エスカは怖かったと何度も言いながらも、少しは胸を張る。セレナは研究のために魔王領の記録を整理する。俺は勇者として、次の役目を受ける。
その未来は、ありえそうに見えた。
だからこそ、怖かった。
俺は勇者ではない。
その事実は、未来が明るくなるほど濃くなる。暗い場所では見えにくかった嘘が、王都の光の下でははっきり見える。魔王を倒した今、俺はますます勇者として扱われる。称えられ、記録され、歌われる。偽物の名声は、これまでよりずっと大きくなる。
アルスを殺してまで欲しかったものだ。
なのに、それが本当に手の届く場所まで来てしまうと、胸の奥には喜びよりも、後ろ暗さばかりが残った。
「ユリス」
セレナが小さく呼んだ。
「何か、悩んでいますか」
俺は火を見たまま答えた。
「これからのことを考えてる」
「普通は、もっと喜ぶ場面です」
「喜んでる」
「そうは見えません」
セレナはこういうところで容赦がない。
俺は苦笑した。
「終わった実感がないだけだ」
「そうですか」
彼女はそれ以上踏み込まなかった。
俺は少し安堵した。
そして、その安堵を恥じた。
翌朝、俺たちは魔王領を出発した。
帰路は、往路よりも楽だった。魔王の死によって、領内の魔力が弱まっていたのだろう。黒い霧は薄れ、魔物の気配も減っていた。もちろん危険は残っていたが、来たときのような圧迫感はない。
境界石を越えたとき、エスカは地面に膝をついた。
「生きてます」
「見れば分かる」
「人間の土地です」
「そうだな」
「もう絶対に魔王領へは行きません」
「二度と行く用もないだろ」
「絶対ですよ」
エスカは何度も確認した。
クラウスは呆れながらも、少し笑っていた。セレナは疲れた顔で空を見上げていた。俺も振り返った。遠くに黒い山が見える。魔王城はもうない。崩れた影だけが、山の頂に残っている。
終わった。
そう思った。
だが、俺の中では終わっていなかった。
人間側の最初の砦に着いたとき、伝令はすでに走っていた。魔王討伐の知らせは、神殿の通信術で王都へ送られた。砦の兵士たちは半信半疑で俺たちを迎え、魔王の角の欠片を見せられると泣き崩れた者もいた。
勇者様。
その声が戻ってきた。
俺は笑った。
笑わなければならなかった。
砦では簡単な宴が開かれた。酒は薄く、料理も粗末だったが、人々は心から祝った。俺たちは疲れていたが、断れなかった。兵士たちはクラウスの武勇を聞きたがり、若い魔術師たちはセレナに魔王の結界の話をせがみ、斥候たちはエスカの逃げ道の見つけ方を聞いていた。
エスカは困った顔で言った。
「まず、怖がります」
皆が笑った。
俺も笑った。
その光景は、ひどく穏やかだった。
戦いが終わった後の、つかの間の平和。血と死のあとに、人が無理やり取り戻す明るさ。俺はそれを嫌いではなかった。むしろ、こういう時間のために戦ってきたのだと思いたかった。
夜、砦の外へ出ると、クラウスがいた。
彼は砦の壁にもたれ、星を見ていた。
「眠れないのか」
俺が声をかけると、クラウスは振り返らずに答えた。
「お前こそ」
「勇者は忙しい」
「その言い方はそろそろやめろ」
「評判が悪いな」
クラウスは小さく笑った。
しばらく、二人で空を見た。
「ユリス」
クラウスが言った。
「お前は、よくやった」
俺は言葉に詰まった。
クラウスは続けた。
「魔王の言葉が何であれ、俺はお前を見てきた。お前は逃げなかった。仲間を守った。民を救った。魔王を倒した。それは、誰にも消せない」
誰にも消せない。
その言葉は、俺を少しだけ救った。
同時に、奥底を抉った。
消せないものがあるなら、アルスを殺したことも消せない。勇者の証を偽ったことも消せない。クラウスが俺を認めてくれるほど、その認められた自分の下にある嘘が大きくなる。
「ありがとう」
俺はそれだけ言った。
クラウスはうなずいた。
その夜、俺は少しだけ眠った。
夢を見た。
アルスがいた。
あいつは血まみれで、崩れた岩場の下にいた。俺を見ている。怒っているのか、悲しんでいるのか分からない。俺は言い訳をしようとした。魔王を倒した。世界を救った。俺は努力した。勇者であろうとした。けれど、言葉にならなかった。
アルスはただ、俺の後ろを見ていた。
振り返ると、そこにはクラウスとセレナとエスカがいた。
三人とも、俺を信じていた。
その夢で、俺は目を覚ました。
夜明け前だった。
王都へ戻る日は、よく晴れていた。
砦を発つ前、神官が俺たちの前で短い祈りを捧げた。兵士たちは道の両側に並び、何人かは涙をこらえていた。彼らにとって魔王の死は、遠い伝説の終わりではなかった。家族を奪った戦争の終わりであり、明日から生きる理由の形だった。
俺は馬に乗った。
傷はまだ痛んだ。肩は重く、顔の血は洗っても完全には落ちなかった。それでも、人々は俺を見る。勇者を見る。世界を救った者を見る。
なら、その顔をしなければならない。
砦の門が開く。
王都へ続く道が伸びていた。
俺は手綱を握った。
ついに帰るのだと思った。
魔王を倒した勇者として。
その瞬間、心の奥で小さな声がした。
ここまで来てしまった。
今さら、あれは嘘でしたなどと言えるはずがない。
俺はその声を聞こえないふりで押し込め、口元に笑みを作った。
王都へ。
勇者ユリスとして。
その笑顔の下で、最初の罪が静かに息を吹き返していることに、まだ気づかないふりをしながら。




