立ち別れ
7月下旬。学校が夏休みに入り、蝉の声が朝から賑やかに響く頃
大学生の琴葉は、部屋の隅に置かれた大きなキャリーケースを見つめていた
来月から半年間、海外へ留学することになっている。ずっと憧れていた留学だ。語学を学び、知らない文化に触れ、今まで見たことのない世界を見る。合格通知を受け取った日は、飛び上がるほど嬉しかった
――けれど、出発が近づくにつれ、楽しみより寂しさのほうが大きくなっていた
「半年かぁ……」
琴葉はため息をつく
両親や友人と離れることも寂しい。けれど、一番気がかりなのは、祖父母の家で飼っている柴犬の小春だった
「小春、私のこと忘れないかな……」
子犬の頃から可愛がってきた、大切な家族だ
そんな琴葉に、母が「金曜日に贈る和歌」というサービスを教えてくれた
「別れの歌をお願いしてみたら?」
「別れって……縁起悪くない?」
「でも、昔の人だって旅に出たでしょう? いい歌があるかもしれないよ」
その言葉に背中を押され、琴葉は申し込んでみることにした
『半年間、海外へ留学します。家族と、可愛がっている犬と離れるのが寂しいです』
ーーーーー
金曜日
届いたのは、夏の若葉を思わせる緑色の封筒だった
中には松の枝が描かれた一筆箋。そこには、深い緑色の文字で一首が記されていた
立ち別れいなばの山の峰に生ふる
まつとし聞かば今帰り来む
琴葉はスマホで意味を調べる
「あなたたちと別れて因幡国へ行っても、稲羽山の松のように、あなたたちが私を“待つ”と聞いたなら、すぐに帰ってこよう……」
遠くへ行く人の歌なのに、不思議と寂しくない
別れることより、その先にある「帰ること」を詠んでいるからだ
「そっか。帰ってくればいいんだ」
半年間離れる。でも、永遠の別れではない
ーーーーー
出発の日
祖父母の家へ挨拶に行くと、小春は琴葉の足元をぐるぐる回り、尻尾を振っていた
「小春」
琴葉はしゃがみ、その体をぎゅっと抱きしめる
「半年だけ待っててね」
小春は意味など分からないだろう。それでも琴葉の頬をぺろりと舐めた
祖母が笑う
「小春も、私たちも待ってるからね」
琴葉は一瞬だけ泣きそうになって、それから笑った
「うん。ちゃんと帰ってくる」
待ってくれる人がいる
それだけで、遠くへ行くことが少し怖くなくなった
キャリーケースには、あの一筆箋を忍ばせてある
――まつとし聞かば、今帰り来む
新しい世界へ向かう琴葉の背中を、千年以上前の「いってらっしゃい」が、そっと押してくれているようだった
・和歌
立ち別れいなばの山の峰に生ふる
まつとし聞かば今帰り来む
(古今和歌集 中納言行平)




