君が世に
6月の半ば。梅雨の雨が続き、空はどこか重たかった
そんな土曜日の午後、会社員の美優は病院の待合室でそわそわしていた。隣には夫の健太が座っている。2人とも落ち着かない様子で、何度も時計を見ては顔を見合わせていた
「緊張するね」
美優が小声で言うと、健太は苦笑した
「俺なんか昨日からずっと緊張してる」
今日は定期健診の日だった
数か月前、美優のお腹には新しい命が宿った。けれど初めての妊娠ということもあり、不安は尽きない。ちゃんと育っているだろうか。元気にしているだろうか。病院へ来るたびに胸がいっぱいになる
やがて名前を呼ばれ、診察室へ入った
モニターに映し出された小さな命を見て、医師が穏やかに微笑む
「順調ですよ」
その一言に、美優は思わず息を吐いた
「よかった……」
診察室を出る頃には、夫婦そろって顔が緩んでいた
ーーーーー
帰宅した夕方
ポストの中に1通の封筒が入っていた。
「ん?」
差出人を見る
――金曜日に贈る和歌
実は先週、美優は何気なく依頼を送っていたのだ
『妊娠中です。毎日不安ですが、嬉しくもあります。今の気持ちに合う和歌をお願いします』
淡い金色の封筒を開くと、中には白い便箋が入っていた
そこには美しい筆文字で1首
君が世に今幾度かかくしつつ
うれしき事にあはんとすらん
美優はゆっくりと声に出して読む
スマホで意味を調べると、「あなたの人生に、これからいったい何度、こんな嬉しいことがあるのでしょう。本当にめでたいことです」とあった
美優はしばらく黙って便箋を見つめた
健太も隣から覗き込む
「いい歌だな」
「うん……」
その瞬間、美優は気づいた
最近の自分は、不安ばかり見ていたのだと
ちゃんと育っているか。無事に生まれるか。自分に母親が務まるか
もちろん大切なことだ
でも――
「私ね」
美優はお腹にそっと手を当てる
「赤ちゃんがいるっていう嬉しさを、ちゃんと味わえてなかったかもしれない」
健太も同じようにお腹に触れた
「そうだな」
2人で笑う
病院で「順調ですよ」と言われたこと
初めて心音を聞いたこと
赤ちゃん用品を見に行ったこと
小さな靴下を見て笑ったこと
全部が嬉しい出来事だった
そしてこれからも
初めて寝返りをした日
初めて歩いた日
入園式
卒業式
もしかしたら結婚式だって
人生には、思っている以上にたくさんの「嬉しいこと」が待っているのかもしれない
「何度あるんだろうね」
美優が言う
「数え切れないくらいあるといいな」
健太が笑う
窓の外では、雨が少し弱くなっていた
美優はもう1度便箋を見つめる
君が世に今幾度かかくしつつ
うれしき事にあはんとすらん
人生には、不安もある
悲しい日もある
けれど同じくらい、嬉しい日もあるのだろう
そう思うと、未来が少しだけ楽しみになった
美優はお腹を撫でながら、小さく微笑んだ
「いっぱい幸せになろうね」
その言葉に応えるように、お腹の中で小さな命がそっと動いた気がした
和歌
君が世に今幾度かかくしつつ
うれしき事にあはんとすらん
(拾遺和歌集 右衛門督公任)




