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自由が侵食されていく

「応接室を開けろ!救急車も呼ぶ準備を!」


「ちょっと、歩けますか?」


職員の女性に肩を貸される。立ちあがろうとして、足裏がズキリと痛んだ。破けた皮膚に血が滲み、床を汚す。今更ながら、かなり酷い傷になっていた。


「すみません…」


声が震えた。まるで自分の声とは思えなかった。職員に案内された先は応接室で、柔らかい椅子に押し込まれた。冷房の冷たさが肌を刺す。緊張と恐怖で固まった体から、次第に力が抜けていった。その時、パッと頭の中に後宮での記憶が蘇ってくる。力の抜けた体が、あの後宮の甘い香を嗅いだ時のように感じ、ただただ怖かった。


「落ち着いてください、大丈夫です、ここは安全ですから」


若い女性職員が優しく声をかけてくれる。真珠は差し出された毛布を必死に掴んだ。その手は無様に震え続けていた。


「お名前を伺っても……?」


声をかけられた途端、真珠は目を見開いた。喉が詰まって、何も言えなかった。


(名前を…言ったら…ウルの女だって、后だって、バレたら……)


「……あの、いいです、無理にじゃなくて。落ち着いたらでいいです。お水飲めますか?」


言われて、渡されたペットボトルの存在を思い出した。だが、手が震えて上手く飲めない。震える手を強引に押さえつけながら、それでも無理に口に運んだ。口に入れると、よく冷えた水の味がした。それがあまりに現実的で、涙が滲む。


「大丈夫……大丈夫ですから」


声が優しかった。後宮の女官の声と違った。媚びも恐れもない、ただの人間の声。でも真珠は声が出なかった。必死に言葉を探した。でも出てくるのは、あの後宮の光景。


香炉の煙。

ウルの声。

「后だ」

「お前は俺のものだ」

「逃げても無駄だ」


「……っ」


喉から嗚咽が漏れた。嗚咽が止まらず、真珠は咄嗟に手で口を押さえた。...泣きたくなかった。でも勝手に涙が出る。そんな真珠の様子を見た職員たちは、互いに目を見交わした。真珠を盗み見るようにして、その姿を観察する。


頭にはボロ切れを被っていたが、その下に覗く髪は艶やかだった。首筋には香油のほのかな香り。寝衣の裾は泥と血で汚れていたが、生地は明らかに上等なもの。爪の先まで丁寧に磨かれており、手入れの行き届いた肌は滑らかでほのかに光っていた。


だが、裸足。血まみれの足裏。そして、かすれた声。


「すみません、あの、事情を伺っても……?」


男性職員が小声で問いかけた。優しく、でも探るように。犯罪に巻き込まれたのか。人身売買か。それとも……


真珠は喉を鳴らした。言いたかった。全部、話したかった。


あの後宮に閉じ込められて...勝手に后にされて……

香を焚かれて、無理矢理体を暴かれて……


でも声が出なかった。言葉にしたら、もう戻れない気がした。日本には帰れない、仕事にも戻れない。真珠の普通の人生は、終わる。


震える唇を噛んだ。


職員たちは視線を交わした。明らかに普通の旅行者じゃない。でも助けを求めて来た。その時、女性職員がゆっくりと言った。


「大丈夫ですよ。あなたを誰にも返しません。ここは日本ではないけど、あなたを傷つける場所じゃない。落ち着くまで、話したくなるまで、何も聞きません」


その言葉が、刺さった。あまりに優しい言葉に、真珠は遂に泣き声を漏らした。もう隠せなかった。声を抑えようとしても、嗚咽が止まらなかった。


「毛布、もう一枚持ってきて」


「医療スタッフも呼ぶか」


「靴も用意して」


職員たちの声が遠くで響いた。真珠は顔を覆った。もう泣くしかなかった。


ただその時。頭の中で、ウルの声が蘇った。


「泣け。叫べ。俺が受け止めてやる」


震えが走った。心臓が締め付けられた。温かい場所にいるはずなのに、後宮の檻の冷たさが、まだ離れなかった。


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