帰りたい
応接室はとても冷えて快適だった。だが静かすぎて、真珠の嗚咽だけが響いた。職員たちは少し離れて、でも決して目を離さなかった。若い女性職員が近くに腰を下ろし、そっと毛布を肩にかける。
「大丈夫ですよ。今は話さなくてもいい。ここは安全ですから」
その声が優しかった。でも優しさが痛かった。後宮の中で「后」と呼ばれながらも、香を焚かれて抱かれたあの夜がフラッシュバックする。
「……っ」
もう真珠の感情はぐちゃぐちゃで、声にならない泣き声が漏れた。歯を食いしばっても、嗚咽が止められなかった。
職員は手を伸ばしかけて、少し迷い、それでもそっと手の甲を包むように触れた。真珠はその手に、びくりと震えた。けれど引っ込める余裕もなく、ただ涙を零した。
「大丈夫……落ち着いて」
真珠は首を振った。息が詰まって、喉が焼けるほど泣いた。何もかもが込み上げてくる。屈辱、怖さ、惨めさ、悔しさ、そして諦めたくない必死さ。
「帰り、たい……」
その言葉が零れた。職員が一瞬息を呑んだ。
「帰りたい。日本に、帰りたい……」
声が掠れて途切れた。唇を噛んで、嗚咽を押し殺した。でも止まらなかった。
「でも……帰れない……っ」
「……どうして帰れないの?」
優しい声が降ってくる。でもそれに答えるのが怖かった。怖い。だって後宮に戻される。あの、綺麗で甘くて、そして残酷な檻に、真珠は戻される。そしてあの男に、ウルに、嬲られる。今度こそ、もう永遠に外には出してもらえない。
(嫌だ、戻りたくない。絶対に…戻りたくない…!)
「捕まる……」
真珠はようやく絞り出した。だが職員が眉を寄せた。
「誰に、捕まるの?」
真珠は声を詰まらせる。喉が鳴り、涙で視界が滲む。言えない。でも言わないと、助けてもらえない。
「王……」
細い声が溢れる。やっと聞こえる声量に、職員はさらに近づいた。
「王?…アメニアの、王室の人間ですか?」
その言葉に、堰が切れた。
「やだ…やだ、戻りたくない……っ」
泣き声が上がった。言葉を繋ごうとしても、嗚咽で喉が詰まった。それでも、懸命に吐き出した。
「后だって…勝手に、言われて……勝手に、あそこに…閉じ込められて……」
言いながら、肩が震えた。毛布を掴む手が白くなるほど強く握る。。
「帰国するって言ったのに…仕事があるって言ったのに…ダメだって……帰れないって……」
女性職員が小さく息を呑んだ。そして目が真剣になった。
「あなたを、閉じ込めたのは……王室ですか?」
真珠は首を振った。でも否定じゃなかった。震えた声で、壊れたように笑った。
「わかんない…王族…王太子……后だって……后だって……言うくせに……ただの……」
言葉が詰まった。薄く泣き笑いながら、真珠の喉が震えた。
「こんなのただの、おもちゃ…よ…」
職員がハッとしたように表情を変えた。もう一人のスタッフが静かに立ち上がり、無線で誰かに指示を出す。でも女性職員は真珠から目を逸らさなかった。真珠を真っ直ぐに見つめた。
「大丈夫。大丈夫です。もう誰もあなたを閉じ込めません。帰れます。帰れるように、私たちが手伝います」
その言葉を聞き、真珠は泣きじゃくった。呼吸が荒くて、喉が痛くて、息が続かなない。でも、もう止めることはできなかった。
「助けて……お願い…帰りたい……帰りたい……っ家族に合わせて…」
嗚咽が止まらなかった。声にならないほど泣きながら、でも真珠は必死に言葉を繋いだ。
「もう、戻りたくない……あそこに……戻されたくない……」
女性職員は、そっと真珠の手を包む。その温度が、あの冷たい王宮とは違っていた。
「大丈夫です。帰りましょう。一緒に考えましょう。あなたは帰っていい。帰りたいところへ帰れる。ここは、あなたを閉じ込めない場所です」
真珠は首を振りながらも、泣き声で縋った。香油の香りも、王宮の石の冷たさも、全部拭えなかった。でも、それでも。
「帰りたい……助けて……」
崩れるように泣き崩れた。その声はもう、后でも妾でもなく。ただひとりの女の、必死の叫びだった。




