母子同室が、夢、だった
夜が来るたび、胸の奥がちくりと痛むようになったのは、きっと母親になった証拠だろう。
真珠は、眠る前のほんのひとときを――小さな我が子を抱き締める時間に費やしていた。腕の中で、ふにゃりと温もりを宿した小さな命は、さっきまでぎゃあぎゃあと泣いていたのが嘘のように、今はすやすやと寝息を立てている。
「……ねえ、今日こそ一緒に寝かせてくれない?」
ベッドの端に座ったまま、真珠は思いきって隣の男に目を向けた。
だが、その男――ウルは眉一つ動かさないまま、ゆっくりと紅茶を置き、ただ一言。
「駄目だ」
冷静な声音。だけどその奥に、狂おしいまでの嫉妬と執着がちらついていた。
真珠は思わず肩を落とす。
そりゃあ、最初から無理だとは思っていた。けれど、赤ちゃんと夜を一緒に過ごしたいのは、ごく自然な気持ちじゃないだろうか。
「だってさ、私――この子の母親だよ?夜くらい、一緒に……」
「俺の女でもある」
言い切られた。
その瞬間、過去に何度も経験したこの人に逆らっても無駄という確信が、喉の奥までせり上がってきた。どんな理屈を並べようと、どれだけ母親としての権利を主張しようと、ウルはウルの論理でしか動かない。
しかも今回は、その論理がより厄介だった。
――赤ん坊に嫉妬している。
――しかも真顔で、本気で。
「昼は子といることを赦している。だから夜のお前は、俺だけのものだ」
低く、抑えた声でそう言われたとき、真珠はもう反論する気力すらなくなった。
つい昨日のこと、寝不足の頭で「産後はしばらく触っちゃ駄目って医者が言ってたよ!?」と叫んだのだが、それすらウルの中では“しばらく”は終わった、とカウントされているようだった。意味がわからなかった。
だが真珠は知っている。あまり強く出れば、ウルはその苛立ちを「より強固な支配」へと転化する。身をもって、何度も学ばされてきた。
だからせめて。
「……おやすみ、坊や」
唇を寄せて、小さな額にそっとキスを落とす。
その後ろでは、乳母が恭しく待機している。赤子の寝具とお世話道具一式を手にし、深々と頭を下げながら、静かに赤子を受け取った。
「また明日ね。ママが絶対、朝一番に迎えに行くから」
頬を寄せ、名残惜しさに涙が滲みそうになる。けれど、部屋の扉が閉まり、赤子の気配が遠ざかったとたん、後ろからぎゅっと抱き締められた。
「……ようやく、静かになったな」
耳元に囁かれる、甘く低い声。
ぞくりと背筋が粟立つ。
――ああ、やっぱり今日も、夜の真珠は、母じゃいられない。
そして后ですらない。ウルにとってはただ、独占されるべき愛しい女なのだった。
そして、運命の産後三日目。
まだ身体は鉛のように重く、熱っぽさも抜けきっていない。会陰の縫合痕がズキズキと疼き、歩くのもままならない。けれど、それでも今日は一応「経過良好」との診断をもらい、ようやく少しベッドから起き上がれるようになった……それはいい。問題はその夜だった。
真珠の頭には、産前に聞いた恐るべき言葉が蘇っていた。
《坊っちゃまは『出産直後は体を労るべき』と仰っていました。『最長でも三日』》
「……まさかとは思うけど」
ベッドの上で慎重に体を起こしながら、真珠は恐る恐る尋ねた。
「今日はもう寝る、んだよね?ね?」
返ってきたのは、背後から聞こえる低く乾いた声。
「三日、待った」
低く、硬く、断定する声。真珠は背中をぞっとさせながら振り返る。そこには、まるで飢えた獣のような静かな気配で立つ、王太子ウルシュガの姿。
濃紺の瞳に揺れるのは、焦がれる情欲でも、愛しさでもない。
──執着。
「……いや、三日って。三日しか経ってないんだけど!?」
真珠はベッドの毛布を思わずぎゅっと掴んだ。目を見開き、ゆらりと振り返る。
そこには、いつもの衣ではなく、漆黒のゆったりとした室内着に身を包んだウルが立っていた。髪を結わえず肩まで垂らしたまま、顔には静かな微笑――いや、あれは笑みではない。欲望を包み込んだ、静かな“開封宣言”だ。
「俺は我慢した。だから、お前の番だ」
「……ごめん、なにそれ。禅問答?」
だが冗談で済ませられる雰囲気ではなかった。部屋の明かりは既に落とされ、キャンドルの灯りだけがゆらゆらと揺れている。香炉の奥から、懐かしくも忌まわしいあの香がわずかに漂ってきていた。
「え、嘘でしょ……あの香やめてって言ったじゃない、医者に止められてるんだよ!?産後は――」
「医師には口止めした」
「うわ、やっぱり!?」
真珠は叫びながらベッドの反対側へ這うように移動した。毛布を引きずりながら避難する姿は、もはや小動物。それを見て、ウルはひとつだけ、ゆっくりとした足取りで近づいてきた。
「お前の身体は問題ない。経過も良好だ。血も止まり、傷もふさがっている。すでに抱いていい状態だと、俺が判断した」
「ちょっと待って!それ、医者じゃなくて!?……あなたの判断!?」
ウルは頷いた。何の迷いもなく。
「俺だ。だから問題ない」
(問題しかないっ!!)
声を限界まで上げそうなところで、真珠の身体が再びズキリと悲鳴を上げた。「あいたたた……」と呻いたその瞬間、ウルの表情がふっと変わる。微かに眉を寄せ、毛布ごと彼女を抱き寄せた。
「痛いのか?」
「……そりゃ痛いよ!傷だよ!?裂けたんだよ!?」
「知ってる。だから、ゆっくりにする」
「そういう問題じゃないのーー!!」
しかしウルの抱擁は緩まず、むしろ静かに、当然のように囁いた。
「三日。お前と子を取り戻すには、長すぎた」
真珠は絶句した。――何を言ってるの、この人は。取り戻す?どこから?誰から?いや、そもそも「三日」って、休養は私の身体のためで……。
「……赤ん坊に、嫉妬してる?」
その問いに、ウルは――答えなかった。ただ、ぎゅっと腕に力を込める。その行動が何よりの肯定だった。
「……あなたさあ」
真珠は、全身ぐったりしたまま、もはや反論する気力も残さずに言った。
「産後は八週間は休ませましょうって、日本じゃ常識なんだよ……?」
するとウルは、平然とこう答えた。
「ここはアメニアだ」
「やだもう……!」
ウルは目を細める。
「お前は生きている。美しく、肌も熱い……俺を拒む理由には、ならん」
「いや、なるよ!?バリバリなるよ!?」
すかさず布団を引き上げる真珠。けれど次の瞬間──
ごそっ。
隣に滑り込んできたウルの体温に包囲され、あえなく包囲完了。
「ふざけてない?ねぇ、産褥期って知ってる!? 妊娠・出産は病気じゃないって言われるけど、これもう限りなく病後なんだよ!?ていうか、下、裂けて縫ったからね!?笑えないからね!?」
「……寝言は寝て言え」
「起きてるよ!!」
真珠の絶叫もむなしく、ウルは布団の中でそっと真珠の身体を撫でた。傷を避けるように。だが決して手は離さない。
「……俺が抱いて、お前が満たされる。それで体調が悪くなるなら、俺の腕が未熟だったということ。改めればいい」
「その考え方、間違ってるとかそういうレベルじゃなくて、倫理的も医学的にもあり得ないから……!!」
それでも。
彼の手は優しい。ゆっくりと。だけど、決して退かない。真珠はもう知っていた。この男の「優しい」は、逃がさないという宣言だということを。
「……ねえ、ほんとに、今日は……」
「黙れ」
ウルの唇が、真珠のうなじにふれた。
そこには──終誓の聖針の、刻印。
「……ヒッ」
びくん、と背筋が震えた。産後だろうがなんだろうが、身体は問答無用で応じてしまう。刻まれたその印が、そうなるように作られているから。
「また……ずるいこと……して……ッ」
「お前の身体に、俺が刻んだ」
「だ、だからって……こんな、夜に……!」
「夜は、俺のものだ。産後も、政務も、赤子も──すべてだ」
「ちょっとだけ!ほんのちょっとだけでいいから分け合ってよぉ……!」
切実な真珠の訴えは、ベッドの軋む音とともに飲まれていった。
──そしてその夜、ウルはスローという言葉を「長い時間をかけて焦らし続ける拷問」と解釈し、真珠は「全然穏やかじゃないスローセックス」の意味を骨の髄まで叩き込まれることになるのだった。
こうして、産後三日で夜の儀式に復帰させられる王太子妃、その戦いは、まだ始まったばかりである――。
※絶対に真似はしてはいけません




