1章 To tell me the truth
この星に生を受けてから2日目の夜。今日も今日とてホワイトスネイカーの拠点で過ごしている。この生活にはもうなれたと言いたいが、時間の経過を考えてみるとまだ2日であるということに驚きを隠せない。新しい事を色々経験すると、頭で収集がつかなかった物たちが「今日の記憶」という一つのものにまとまって、ずしーんとのしかかってくる気がする。そう。そういう感じがする。今、僕は初めて自分の五感が機能している状態で寝に入っている。なんか2日間の自分の記憶が液体らしきものとなり、僕の脳をドロッとしたゼリーのように流動しているかのように感じる。なんかうまく形容できない。でも、この感覚はやはり「変」なのだ。全く寝れそうにない。さらに、ベットの上で寝るという(スネイカーいわく)贅沢な行為が今日初めてであり、全てが不思議に感じ、睡魔と言われるものはもう残っていない。
このベッドはスプリングベッドというタイプらしい。ベットに内蔵されているバネ一つ一つが人の体をちょうど良い位置に支えて寝やすいように設計されているというのだ。バネというのは人間が力を加えたら、そっくりそのまま同等の力が帰ってくる物体とデタウム上では記されている。確かに、動くと僕の重さに合わせてバネの高さが変化している。という気もする。結局、僕にとっては、まだバネがこのベッドに内蔵されているものとしかわからないが、一物体としての形はいかほどだろうか。今度スネイカーにでも、バネというのはどういうものか聞いてみようかな。なんて思ったり。結局、自分が考えてもわからないものは他人に聞くのが一番手っ取り早いのだ。
と短絡的に僕は断言してみたい。が、言葉すら知らず、大部分は想像でこの世界を定義していた無知な自分には、今はもう手にすることができない透明感がある。まだ、誰にも毒されないような「自分」が。それと比べて今の僕は酷く濁っている。いろんなことを知ってしまった。見てしまった。聞いてしまった…
そんな事を考え、僕は仰向けとうつ伏せを繰り返した。それに飽きたら、天井の壁を理由もなくただ、ぬぽーぉと見ながらただ染みの数を1,2…と数える。暇だな〜と、時間を無駄にした後、ふと前から気になっていたことを思い出した。昼の景色はここから見たことがあるけど、夜の景色とはいかほどかということだ。寝ても意味がないと悟っては、ベットから横たわっている体を無理矢理起こして、すっと立ち上がった。そしたら、白塗りの壁の、6畳位の広さの部屋に部屋に小さな小窓があるので、そこをめがけて大あくびをかきながら2,3歩歩き、僕の身長ちょっと上くらいにあるそれから覗いた。この拠点では2階に位置するここから、砂漠のを見下ろすと、見渡す限り平坦で味気ない土地が広がっており、曇天で月すら見えない。というか、まずこの景観を「景色」と期待した先程の自分を裏切ってしまったと思う。それくらいただの「砂漠」だったからだ。
少し遠くを見渡すと岩山が見えた。嘘か真か。岩山の岩壁にジスク卿の奇襲により僕が、思いっきりふっ飛ばされた跡が色濃く残っているのがくっきりしている。確か、この拠点から結構離れたところではずだったのだが、平坦な土地に不自然に砕けた壁が残っていた。つまり、自分が思ったよりこの戦いが激しかったといえる。
2日前、ジスクの急襲前に対する僕の警戒心のなさに少し苦笑してしまうほどだ。当たりどころが悪かったら死もありうる凹み具合である。あまりの凹みの大きさに驚いたのか、2日前、地雷を踏んでしまった自分の左足先が僅かに震えた。 痛々しく、万全なはずの身体がズキズキし始めたのだ。
思い出したくもないので、僕のは自分の過去に背を向け、西の方を見ることにした。この地帯をたまにこの通商路を通る行商人と馬と思わしき動物の足跡が残っていた。つい最近、彼らはこの砂漠を通ったと思われる。ここは町から町へ2時間はかかる不便な地域なので、最近はここを通らず、東の舗装された道路を使う人が多い。だから、行商人ではなくこの一帯を拠点として活動しているヘドウィンとカメリかと予想する。(真偽は定かではない)
夜空を見上げると、曇天だが数えられるほどの一等星とか二等星が誰にもみられずただ輝いていた。それに気づいたから、この質素で簡素でなにもない砂漠も、天気が晴れだったら「景色」になるのかもしれない。と期待してしまう。でも、今は無限に連続したフィルムのうちの無駄な一枚だ。僕の頭はすぐに忘れるだろう。ただ、もし天気が晴れていたら、それは生涯忘れることはない一枚になったかもしれない。と淡い期待を抱くのだった。
僕は、この2日間で撮られた場面を一つずつ思い浮かべる。その中で1つ頭の中でこれだと思ったものがあった。まだ言葉を知らない時、ガラガラヘビのガラガラという音を聞いたときのものだ。日に照らされた砂漠でガラガラヘビが奏でた、単調でありつまらない音、それでいて耳に残る特異な音、それは僕の鼓膜を刺激し生命力を芽生えさせた。それと同じように今見ている夜の砂漠は色をなくしているため、多くの者ががここで生きていることにすら疑問を浮かべたがる。だから、1日目は夜というものが今過ごした一日の反省会のようなものと解釈していた。僕にとって嫌なものだという認識だった。が、今日までいざ少し高い目線で見下ろしている星が、僕達がギリギリ視認できない範囲で瞬き続けており、夜は、活気に溢れた昼よりも生命力に富んでいるのかもしれない。と思うのだ。
実際それは日常の様々な事象と同義だと思う。例えば、行き場を失った者共は上に神像や玉座を作らなければ、生きれない。そして、自分の行き場や最終地点が分からず観念に縛られて藻掻く。だが、自身の活動範囲を知っているは自分の姿形を理解でき、自らの理想像を目指し、虎視眈々と足掻く。きっと、彼らはは目がチカチカするほど生命力に富んでおり、誰よりも「自由」なのだ。
まあまだ、生まれてから2日なので、これが他人に伝わる例えではないと熟知しているつもりだが。
私の未来はわからないことが多い。右も左をわからず行き先も現状不明だ。今は全てが複雑怪奇だ。ただ生きるにつれて、希望と絶望がこれほどまでに密接にリンクしていて、生きたという経験もどんどん薄れてしまうだろう。結局、今は周りが暗闇だから、自分の感覚しかわからないということだ。やがて、自分が感覚として捉えていたもの全てが意味になってしまうし、自分という可能性の大きさを、実質全てをわかってしまう。それはとてもかっこいいことだろうけど、現時点では怖さが勝る。もう少し夜を経験する必要がある。無理に背を伸ばしすぎることはないのだ。そう思った。
さて、10分少々立った頃スネイカーに今朝「デタウムが脳に定着し、2日前のことを思い出したら手記を取れ」と、命じられていたのを思い出した。僕たちの記憶というのは便利なんだけど厄介なもので、思い出したいときに忘れて、どうでもいい時にふと思い出す。今回は後者だ。眠気は正直なくなってしまったし、かと言ってどうでもいい景色をまじまじと見ているというのは癪なので、部屋の明かりを渋々つけ、課題に取り組むこととした。
思うと、僕の部屋は、ツクモが持っているような遊び用具も、スネイカーが持っていたような高性能なPCもなく、ひどく閑散としている。まあ仕方ないか。と重い腰を上げながら机に向かった。机上にはスネイカーから渡された人差し指ほどの2Bの鉛筆と、サーキットで大量買したであろう占めて100パルのノート、消しゴム、簡単に鉛筆で書けるようになるからとツクモからと渡された謎の発明品。スネイカーの机はいつも、普通であったら机に広げずファイルに閉じる重要そうな紙が広がっているのに対し、僕の机はまだ新品の状態で、机になる前の木の木目が顔に見えるような余裕がある。
まだ鉛筆を使って文字を書くことに慣れていない僕は、ツクモが1時間で作ったと自信満々に宣言した自信作とやらを鉛筆にはめてみた。が、持ち手が太くなった鉛筆があまりに持ちづらく、結局、デタウムで「文字が書きやすい体制」というオプションがあったので、それを使い自分の身体を脳で矯正しながら手記をとることにした。(結局もらった発明品は引き出しの肥やしになった)
なれない鉛筆をデタウムで矯正された右手で持ち、ノートの表紙を左手で開く。1ページ目の紙は、新品の紙特有の匂いがほんのりと香り、表面を触ってみると、思ったよりすべすべして気持ちよかった。この純白のキャンバスに文字を書くことに少しの罪悪感を覚えたが、まあ所詮は紙である。書かねば意味がない。だからとりあえず、ものは試しということでど真ん中に線を引いた。書き心地は最高で、黒鉛と紙の肉眼では見えないであろう、僅かな繊維が擦れてシャーッという音を奏でた。とても気持ちがよかった。しかし真っ直ぐに書いた線がまっすぐに書く、どころか線は右へ左へと曲がっていたため、これではどうやっても自分が書いた手記を後で見返した時に、きちゃない字になるぞと覚悟した。
1本の線が書かれた表紙を見るやいなや、少々もったいないと思いつつも、消しゴムで消す時間がもったいないので、しぶしぶ紙をちぎってゴミ箱に入れた。2枚目のページに手を取って文章を書いてみようと思ったのだが、1枚目のページのほうがなんか綺麗だったように感じ、1枚目から書き始めなかったことを後悔した。一枚目をゴミ箱から取り出して、実質的に一枚目から書くということも考えたが、一枚目はもうゴミ箱でシワクチャな状態になっており、絶対2枚目より書きづらい。だから、消去法的に2枚目に書くしかないのである。僕は腹をくくることにした。
では、書き始めはどうしようか。と少し悩んだが、あくまでこのノートはスネイカーに見せる用の手記兼レポートであり、日記ではないため、ひねらず無難に始めることにした。
そうあれは、2日前この世に現れたところ・・・・
自分が何者であるか、いつ、どこで、なんのために、どうやって生まれてきたのかなどは、通称:究極の質問である。そんなことどうでもいいと思える人、それだけを追求するために生きている人。僕はどちらかといえば後者の兆候が生まれた当初かがあった。言葉を知らなかった僕にとって「そこにあった」暗闇の中から、光が漏れ出してきたあの感覚はぼやけながらも覚えている。自らが視認できるものすべてがわからないものでできており、その場の光景に圧倒されていた。この場合の圧倒は都会の夜景を見て感動するような類のものとは似て非なるものであり、何が起こっているのか理解も説明もできず、ただ、そこから湧き水のように溢れ出てくる情報に、ぼう然しているような状態だった。
また、自分の身体の構造すら、どのようなものかもわからなかったので、しばらくの間、正面の砂漠を見るだけの直立不動の状態だったと言える。しかし、僕の動かない体に反して感情は昂っていた。他方から見れば、その時の僕は、とにかくわけも分からずただ前に広がっている荒野を見ている異常者だった。と思う。でも内側は無尽蔵の生命力に溢れていたのだ。
生物、特に人間は生存欲求により発生するエネルギーが、我々の生命エネルギーの根幹を担っていると考える。僕の場合も例に漏れず、試しに前に進んでみようという好奇心と、ここから、どうやったら移動できるのだろうという戸惑いが叫んでいた。それに呼応するかのごとく膝が前に突き出て、それに引っ張られた僕の身体が前傾姿勢に変わり、そのまま地面に五体投地で突っ込んだ。今思うと、階段などについている歩くことを補助してくれるような手すりなどといったものがあったら僕はもうちょっと早く歩けるようになったと思う。
そもそもの話、どうやったら自分一人の力で身体を起こせるかも分からないのだから、地面に倒れている時間もとても長かったように思う。やっとの思いで体を起き上がらせると。今度は膝を曲げたまま固定し、ももを上げて自らの足全体をゆっくり下ろそうとした。しかし、今度は、近くにあった小石に躓き、背面方向に派手にころんだ。これは流石に不運でしかないが、僕は歩こうとして、バランスが掴めず転び、起き上がって…を繰り返すことで1歩、2歩と歩ける距離を着々と伸ばしていった。
このようにして、僕は歩き方(どちらかといえば歩くというよりもも上げに近い)を独学で習得し、自分で立つこともできるようになった。これが僕史上後にも先にも匹敵するほどの成長に感じる。
この経験を通じて、人体というのは頭で考えていても、体が思い通りに動かせない時がある、という点以外は適応能力が生物の中でも群を抜いて高く、我々の身体はよくできているのだと改めて感心した。
それから3時間ぐらい経ったところ、日は南中して、直射日光が僕の背照りつけていた。2日後の今だったら自分の装備全てを脱ぎ捨てていたくらいには暑かった。と思うが、この時は暑いという感覚がまだつかめていなかったため、なんか体がモワッとして少し動きづらい程度のものだった。暑さよりも、川にたどり着くまでに水を飲んだり、空腹を満たす場がなかったので、何かを食さなければとい衝動に駆られながら、理由なく歩いたということが一番きつかった気がする。
・・・
砂嵐に遭遇したりした。天気は晴れていたがやや西寄りに強風であったのが強まった結果起こったようだ。ただでさえ僕の足は疲労困憊で、感覚は鈍くなっており、このままでは嵐に飲まれてふっとばされること思った僕は、最初こそ砂が入ってこないように口を閉じるのが精一杯だったが、私達の感覚は辛ければ辛い状況になるほど活性化するもので、このまま死に至るまいと本能による、自分の行く手を阻むもの(しかも無駄に体力を消費する)に対する行き場のなく、言語化ができない、悶々とした怒りにより、なんとか耐えることができた。まだ誰も僕を見ていなかったのを理由に視界を開ける必要がなかったというのは不幸中の幸いだ。また、怪我の功名というべきか、身体の重心の位置が漠然とわかるようになり、2足歩行におけるバランスの取り方も分かってきた。特に身体全体を使って砂嵐を凌いだことにより、手が持つ感覚がなんとなく理解できるようになった点が一番大きい。やはり四肢が一番体を支えるうえで重要なのだ。
僕にとって、砂嵐は成長するための重要な布石だったといえる。これを経験しないと後々、僕はゼイデンという貴重な人材であることから、帝国の捕虜兼帝国最終兵器(WOD)になる可能性が非常に高かったことも踏まえると、ここまで生きている自分は運が良い方なのだ。強運ではたりない。豪運なのだ。でも生まれてきてすぐ死ぬ可能性もあったとも考えると大凶なのかもしれない。どう捉えるかは聞き手しだいだし、この話を結論付けられるのは僕のさじ加減である。僕は、この経験を通じて、今ある命に感謝してこの場を生き抜いていこうと改めて思った。そっちの方がこの世界に感動できる気がして。
ところで、余談だが、あの時の僕の装備はひどく砂まみれでよく外さず着ていたな。と感心する。ひょっとしたら、歩けたのはいいものを、普通の人の歩き方とは少々逸脱していたから、気持ち悪くなかったのかもしれない。デタウムで諸々常人と同じように強制されている今だったらあるきづらいことこの上ないだろう。服の繊維に砂がこびりついているガサゴサしたあの感じをなんとも思わなかった方が奇跡かもしれない
太本格的に西に沈んでいくまで、僕は休まず未知の「砂漠」を歩き続けていた。訳も理由も所以も目標もなしに。
太陽が地平線と溶け合っている時、僕はついにただ広いだけの砂漠を脱した。たんこぶのような砂丘を抜けたとき、僕の目を赤茶色以外の色覚が脳を刺激した。僕が見た「景色」は真っ赤な夕日に照らされていて、ここが桃源郷だと確信した。初めて木というもの、川というものを見た。特にあの川は「蒼」を見せてくれた印象深い場所だ。(スネイカーにこの川について聞いて聞いたところ、古くから栄えていた古代文明があった世界有数の最大の川で名前はナーラ川というらしい。また、僕がみたのは川の中流とのことだが、下流に行くと、古代文明の跡地やピラミッド型の墓などの多くの歴史的遺産があることから、最近では、先進国から多くの観光客が来るとのことだ)
しかしその時の僕にとって川に歴史的価値があるかどうかなど至極道でも良かった。重要なのは、僕が水と触れ合った初めての場所である。水というのは世にも不思議な物体で、手で掬ってみると透明だが、離れてみると、絵の具の「青」ではなく、透き通った「蒼」色に見える。また、思いっきり叩いてみると鉄板のように固く、持ってみると手のひらからするっと落ちる。いくら掬ってみても、物を持った感触はなく、初めて液体は非常に興味深い性質があると思った。でも、そう思ったのも一瞬だ。一番は4時間少々飲まず食わずの状態だったので、川の水をがぶ飲みした。これが結局一番でかい。しばらく僕の口は水面から離れなく、呼吸は数えられるほどしかしていなかったと思う。
満足感を得た僕は、しばらく川の流れをじーっと見ていた。大きい川の中流ともなると、流れは非常に緩やかで、僕は心に一時の安らぎを得た。ここまでの道中、発狂したことは何度もあった。全部を知らず全部が恐怖であった。行先はわからない。読み書きはできなく、言葉さえ知らない、謎に生きてた僕にとって、あの常日頃から「在る」川は初めて僕に優しさといたわりを与えてくれた。いや川だけでない、そこで出会った森、風、その時の太陽、何の変哲もなくただただ削られて丸くなった石、そこに「在る」全てが僕の存在を受け入れてくれた。認めてくれた。そこには何とは断言できない優しさがあった。安心しきったからか、初めて深呼吸ができた。ゆっくり吸って、吐く。吸って、吐く。吸って、吸って、吐く。吸って、吐く。誰よりも空気を味わった。
でも、こうまでしても得られるのは心の安らぎ程度であり、まだ、僕にとって安心という言葉からは遠いものだと思った。ただ、僕にはなかった居場所というか外界と自分を断絶するためのシェルターをようやく作り出せた気がした。
このようにして、僕は生まれて初めて自らを休を静かに眠ったのだった。
人が眠っていたら、ついつられて自分も眠りたくなるように、僕も2日前の僕が気持ちよく眠っている様子を書いていたら眠りたくなってしまった。ひょっとすると、眠気とは空中に漂っている分子とか微粒子とかで、私達が見えないだけで本当は「ある」小さな物なのかもしれない。まだこの回顧録の1/3にも満たないというのに。まあそもそも論、今日手記を書いた理由は、僕が眠くなるためだったのでヨシとしよう。人間、眠いと思ったら寝た方がいいに決まっている。僕は今書いたページに鉛筆を挟んでノートを閉じた。僕の目がさっきより細くなっている気がした。
寝るという決心がついた僕は、2,3歩歩いてベッドに潜った。歩いている途中、小窓から一階をちらっと除いてみたら、まだ電気がついている。ツクモはもう寝てるから、スネイカーが今日の患者のカルテでも作ってんのかな?就寝前の挨拶でもしようかと思ったが、仕事で切羽詰まっている時に、挨拶のためだけに僕が部屋に入ってきたら、スネイカーにとって迷惑この上ない。彼は、命の恩人だから気を使わないと。ただでここに止めてもらっているんだし。日常挨拶を使える良い機会だ。とも思っていたけれど、明日「おはよう」って言えば十分か。今日は自分自身にでも言っておこう。
おやすみなさい。
・・・
「そろそろ起きたほうがいいのではないかな?」
人に起こしてもらうのは有り難いのだが、起こし方的になんか事が悪い方向に傾くような気がする。案の定というべきか、その予感が的中してしまい、身体を起こそうと思っても身動きが取れない。 これが俗に言う金縛りとやらなのか?若干の恐怖を覚えていたが違った。いやまだ金縛りであったほうが良かったのかもしれない。なぜなら、朝起きた途端に、自分の手足が手錠で拘束されているからだ。まだ四肢はともかくとして、首まで拘束されていた。(流石に首はやりすぎだろ。)身体の自由が全く認められておらず、それはひどい惨状であっただろう。
でも人情を全く考えず、人の自由に生きる権利を容赦なく踏みにじるような人相が腐敗しきった奴は、僕が知る限り一人しかいないから、容疑者の宛はついている。ただ単純に対等な目線で交渉しようとすると、彼女と会話するにあたっての課題を増やしかねないから、ここは(いつもの様に)プライドを捨てて、へりくだることに徹しよう。
「ああ。ツクモ様。私のような愚民にもお願いしますから。ええ。汚れた欲求なのは百も承知です。ですから、私の身体にかかっています手錠を外していただけないでしょうか。」
1階から笑い声がする。この声を聞いた時、僕は堪忍袋の緒が切れる擦れ擦れにいた。嘲笑という言葉の説明のお手本みたいな笑い方をした怪物ではなく、神でもない、半分死体の、ゼイデンであられるツクモ様(容疑者)が堂々と証言台に向かっているようだ。裁判所のドアを開けるかと思ったが、彼女は階段付近で立ち止まり、被害者である僕の様子をドアの覗き穴から見て、こういった。
「最初に誤解を解くとね。ボク的には拘束をしなくても良かったんだ。君がなにか悪いことをしでかしたら、拘束なんて面倒くさいことはせずに君のことを殴るし。でも、今日は違う。博士が、いま君に一階に降りてもらっちゃ困るからって、ボクに命令したんだ。ボクと君とが面と面で向かい合って話し合ったりなんかしたら、初めてであった日には、すでに築かれていたボクと君の主従関係が崩壊しちゃうから、それちょっと癇に障るなあと思って、苦肉の策で、可愛そうだなあと思いつつも、君を拘束したまま収監しただけ。もう少しというか、後2時間くらい待ってれば自由の身。わかった?眷属くん?」
情状酌量の余地なしである。逆に腹以外に立つものが思いつかない。だが3つほど僕がどうしても彼女に勝てない理由がある。1つ目に、僕の部屋はスネイカーが、僕達ゼイデンが自身の戒の暴発のリスクを減らすために発明した、周囲のマを吸収する塗料が壁一面に塗られている。加えて僕が自分の戒をまだ制御30%未満程度でしか操れないことを考えると、現状、この部屋での戒の放出は難しいと言える。それに対して、彼女は能力の発動を、自分の体内に元々在る潜在的なマを利用しているため、壁に塗られた塗料の影響をほぼ受けないのである。2つ目に彼女は自身の戒具を常に常備していること。というか、彼女はゼイデンの中でも戒具に関してはイレギュラーなものであり、なんと戒具が自分の手と合体しているのだ。それに対して僕の戒具は、地下室の武器庫に厳重に保管されており戦闘自体がかなりアンフェアなのである。3つ目にそもそも互いに戒を使わなかったからといって、彼女が人との近接戦闘の手練れである。特に彼女は間合いの詰め方に関しては世界で5本の指に入るくらい上手く、僕みたいな遠距離戦闘を得意とする相手ですら彼女からダウンを取るのは難しい。以上この3点により、僕が今彼女に逆らって主従関係を逆転させるため下剋上は、実質不可能であり、彼女の奴隷になるしか選択肢がないのだ。
それでも、さっきの高慢な態度は我慢がならなかったので、なんとかしてこの手錠を外したいと思い、力を入れたり顎と首で噛んで鎖を切ろうとしたが、どれだけ力を入れようと、ねじろうと開脚しようと、手錠にはヒビすら入っていなかった。手錠の跡が体の至る所に残っただけだった。手錠状態での、戒の放出も一応は試みたが、案の定、壁にマが吸収されここからの脱出は不可能なことを悟る。なのでハンガーストライキならぬ、スリーピングストライキを決行し始めた。昨日は夜更かしをしたので、二度寝することは容易だ。そう思った僕は目を閉じて
1,2,3,4,5,6,7,8,9,10・・・・・・
僕の手錠は外れた…外れた…外れていない…
僕が寝かけた次の瞬間、"ガゴーン"という音が僕の耳を刺した。それは僕にとって聞きたくもなかったし、聞こえたくもなかった音で、開けまいと必死だった僕の目を完全に覚醒させたのである。僕の部屋で変わったことはない。と、信じたい。いや。ないよな。しかし、僕の願いは叶わず。部屋のドアが前向きに倒れた姿を発見した。しかも蝶番が偶然外れてしまったのではなく、中央付近にクレーターみたいな穴がぼっかり開いている。つまりドアの開け方を完全無視して、あの極悪犯罪者がドアにドロップキックをぶつけた結果である。
「すまんすまん。少々びっくりさせてしまったか。ボクは引き戸でしかドアを開けたことがないもので。このドアの開け方がいまいち分からなくてな。」
この女はドアノブすら知らないらしい。まあ無知なのは百歩。いや千歩譲ってわかるとして、開かないドアは壊すという考えを持つ彼女の脳筋ぶりに、僕はこれから、彼女の俗称を暴虐の帝王とすることにした。このような馬鹿げた行動を、陛下が僕と居候をさせてもらっている身分で毎日しでかしていることが驚きを隠せない。もしかしたら彼女は自分が外した蝶番の修理費を自分の金で工面したり、ミジンコのような頭脳を駆使してドアに空いた穴を埋めたりしたりするのだろうか。いやスネイカーの仕事が増えただけだ。ひょっとしたら、「九十九式」というかっこいい名前は芸名みたいなもので、[ハイリスク・ノーリターン」が彼女に刻まれている戒の正式名称なのかもしれない。
帝王は僕の部屋を闊歩しながら歩き、僕のベッドのすぐ側に来た。
「ちょっと耳貸して」
と言われたので、彼女がが自分の顔を僕の耳に押しつけると、
「貴様に寝る権利はない。黙って時が来るのを待てばいいのに」
と、真顔でとんでもないことを耳打ちした。
いや。怖すぎ。
確かに彼女は僕と同じゼイデンであるが、僕よりも遥かに汎用性の高い戒を持っている。よって真顔で常に行動している。(スネイカーいわく彼女のような系統のゼイデンは他にもいて、全員が生まれてからそれなりの強さを持った縛りが課せられている。(逆に僕のように詠唱が不可欠だったり、戒の発動が自身のマを使うのではないようなゼイデンは、その身に課せられた縛りが少ない)彼女も例外ではなく、生まれてから瞬きをずっとしていなくがん開きの状態にあるというのだ。だから、顔を鼻と口しか動かせなく、常に真顔の状態となっている。)
しょうがないのだけれど、彼女の顔を間近でみていると、僕の身体全体の毛細血管が滞った気がした。
しかし話はまだ終わってないらしい。彼女には彼女の言い分があるようで、彼女は僕に尋ねられる前に早々と話を切り込んだ。
「さっき話したと思うんだけど、ここに監禁したのをボクの仕業だとまだ思ってない?この僕が?理由も脈絡もなしに?ちょっとー。最近ボクに対する信頼度が低すぎだと思うんだよね。どこぞの暴虐な魔王とボクを同じ人と知って扱うのやめてよ。というか。さっき言った通り、もし、僕が君に対しての恨みつらみがあるようだったら、そんな手錠で固定せずに一撃で頭を葬ればいいハナシでしょ。ボクはあくまで博士の言うことに忠実に従っている、従者なだけだよ」
ふぇ?なんと何の悪気もなく、ただ僕の動きを制限したいがために、五体不満足の状態で監禁したというのか。なるほど。ツクモは根は優しい良い人なのかもしれない。度が過ぎ過ぎな部分はあるが、まあ、彼女が二回も言うんだったら、錠はともかく、監禁されたことに関してはスネイカーの指示だと確信できる。ともかく、死にやしないんだし、言われたことには素直にしておくべきだ。
「ツクモ様、僕が悪かった。そなたを情がない者だと勝手に考えていた僕は間違っていた。それは素直に謝りたいです。ごめんなさい。」
ツクモは満足そうな顔で鼻を伸ばし、僕を見る。むかつくなあ。
「ところで、話は変わるのですが、スネイカーが僕を監禁した理由についてなにか知っていることはありませんか。まあまあまあ、そなたと同じように、僕も彼に従うしかないのですが、訳ありでしょうか?僕は何時間ここにいればいいのでしょうか?お願いします。二度寝するかどうか決めかねているんです」
彼女はどうのように事の経緯を説明しようかと、顔を45度に曲げながら
「なんかね。博士がお前に見せたいものがある。けど、まだそいつを未完成の状態で、お前に見られたら危険が伴うから、お前を部屋からなるべく出さないようにしてくれって言われて、説得するのは面倒だからこのように監禁したってわけさ。僕も厳密に何時何分にこの錠を外せるのかとかについてはボクもわかっていない。でも、博士からはもうじき交渉が終わるから、身体を起こさせてくれと言われた。」
まずスネイカーの名誉のために言っておくと、スネイカーは今僕の真正面で仁王立ちをしているポンとは違い、配慮ができる人なのだ。これを踏まえて、さっきの彼女の声明に僕なりの解釈を入れておくと、
今朝、スネイカーが彼女に僕を起こして、事の経緯を説明してくれといった。彼女は2つ返事で了承し、2階にあがって僕を起こそうとしたが、説明をするのがめんどくさかったので自身の戒で錠を作った後、それを使い僕の手足を直接縛って満足し、1階に戻ったということだろうか。A級戦犯じゃねえか。ちなみにこの砂漠地帯は通年気温が高く、暑いのに我慢できずドアの鍵を閉め忘れてしまったことが僕のミスである。(鍵を閉めていたら、彼女が僕の拘束をしに行くのを諦めたかもしれないため。仮に開けたとしてもドアを破壊する音で、起きて、拘束を未然に防げたかもしれない。)
「さようでございますか。。。」
「ちょっと待ってください。あの。ツクモさん?私の。その。排便行為について何か考えはあるんですか?このままではこの部屋で漏らすということになりますよ」
ふぅー。危ない。これを聞いておかないと後々まずいことになる。もしかしたら脳筋は、いっさい考えがなく、物理的に僕を固定することしか考えていないのかもしれない。そうでないことを祈りたいが。少しまごまごした後に、何かを決断したという表情で彼女はこういいった。
「スゥーーー。モーン?」
なにか不吉な予感がする。まさかツクモ様が人の排泄行為について一切考えていなかったということはありまい。きっと仮設トイレとかを用意しているんですよね。頼む。今僕が考えている最悪の未来にはならないでくれ。まさか。まさかな。料理も作れる清楚脳筋系のツクモ様が。な。ソンナコトナイヨナ。
「なんですか?」
「漏らすか。」
的中。
この前の僕の例えを訂正するとしたら、こいつは暴虐の帝王ではない。脳筋でもない。ただのポンである。ただ一つ、殺されるかもしれないという僕の身に潜む恐怖が、便を漏らしながら殺されるかもしれないという僕の尊厳に関わる問題とドッキングすることになってしまった。
何度も頭に念じ続けた。スネイカー早く僕を呼んでくれ。もうこれは希望ではないのだ。切望である。正直要件の内容などどうでも良い、今考えていることそれは絶対に僕のあれ(パンツ)をウェットに、そしてエクスパンドしてはならないという確固たる意志を持つ必要がある。モーン。腹を括れ。
しかし、頭では排便・排泄をしてはならないと自分を戒めていたのに対し、僕の腹は食べることをご所望だった。確かに、意識不明の重体でこの拠点に運ばれてきたので、今までで食べた料理は、点滴と栄養サプリ、あと温野菜を食べただけであり、実質、ないといえる。僕はまだ、この地域で有名な主食であるエイシュなどのパンや羊肉を使った料理・魚料理といった主食を一口も口にしていないのだ。
「あの〜ツクモ様。お手を煩わせるようで申し訳ないのですが、僕、ここの拠点に来てから一度も飯という飯を食べたことがないのです。ええ。最初は瀕死の状態だったから全然構わないのですが、今、左足が完治していないだけで、食欲があるくらいは私の身体は心身ともに健康体なんですね。何か私に「料理」を作ってくださると嬉しいのですが。
「ふ〜ん。承った。これで、モーンは一つボクに飯を作らせるという貸しを作ったということになる。それでも構わないと。それよりも君はボクが作った飯を食いたいと。そういうこと?」
「ありがとうございます。せめて、手を使わないと食器を使って食べることが難しいので手の手錠を外していただけると思うんですけど」
「確かに、お前に「あ〜ん」ってやるのも気が引けるから別にいいよ。あとカラスが漁るように飯を食うのを見るに耐えなそうだから首輪も取ってあげる。ボク優しいから。」
「ちなみに足は」
「それはダメ。一応何が起こるかわからないから縛っておきたい。漏らしたかったら…漏らせばいい。僕に被害が及ぶわけではないし」
「左様ですか」
残念ながらまだお◯らしの恐怖とは戦う必要があるらしい。まだまだ信頼が足りていないようだ。ちなみに、貸しを作ったということはそんなに怖くない。なんせ、二人分の飯を毎日三食作ってるし、この拠点のお手伝い兼弟子である代わりに家賃無しで居候しているとスネイカーから聞いたから、人のために飯を作ることは彼女にとって造作のないことなのだ。味についても期待している。まあ人のことを全く信頼せずに、天邪鬼でいることはこの世界を生きる上で他人との不都合が色々起きるし、自分にとって気持ちが良いとはとても思えない。素直に彼女に頼むべきだ。よな?
「じゃあ、ツクモ頼んだよ」
と僕は言った。
「はぁ?このボクちんに向かって「頼んだよ」というの?礼儀がなってなくない?「お・ね・が・い・し・ま・すは?」
おっと地雷を踏んでしまったようだ。爆発寸前の状態ではなくもう爆発済みである。あと余計な一言を、たった一回、口にするだけで、この頸動脈がスパッと切れているかもしれない。一応手刀で切れていないか確かめるため、僕は手首足首をこねくり回した。幸いなことに、大丈夫そうだ。手先、足先の感覚はいつも通りである。シーツもガシッとつかめているし。だから正常だ。たぶんね。
「オネガイシマス」
詰まった声で僕は彼女に謝罪した。本当は土下寝をしないと命が危ないのだが、身体が鎖に固定されていたので仰向けでの謝罪になった。彼女は舌打ちをしながら
「まあいいでしょう」
と言い、優越感で溢れた彼女は部屋から出ていった。
こうして、数少ない同居人との会話が終わった。いったいこれから僕は何をされるのだろう?と。また天井を見ながら考える。なんかスネイカーが僕に話しておきたい重要なことでもあるのだろうか?今やスネイカーとはただの恩人ではなく僕にとって、良い人生を送るための道標なのだ。
そういえば彼は僕が初めて見た僕以外のゼイデンだった。だから今、人生の先輩のように彼をみなしている。最初に彼とあった時だ。彼は必死の形相で僕に
「自分がゼイデンであることを誇ってはならない。そして、基本的には公衆の面前で自身の戒を使ってはならない。それは我々が破ってはいけない暗黙の掟である」
と忠告されたのを僕はまだ鮮明に覚えている。博士はこの発言をふまえて、僕にアガパトの人々が自衛のために習得している武術を学ばせるのかもしれない。しかし、この拠点は都市の郊外にあり、僕達は年に数回しか他の人々と交流する機会がない。つまり他人を助けるための武具は必要ないと思われる。彼は自身の治療を商売道具にしている。もしかしたら自分を被検体にして新しい研究を始めるのかもしれない。いや、それはない。この世界は大規模な国際戦争・国際紛争によって、すでにゼイデン研究の境地に達したとされている。もちろんまだ未知なことはたくさんあるらしいが、彼自身、自身の研究によりあらゆる戦争の戦況を変えたあげく共和国に厄介払いされている。そして、ここサーキットで医師としての個人事業を立ち上げた彼が、今更、自身の研究をあらたに始めることはない思う。昨日、
「研究者は辞めたんだ。だから博士と呼ばないでくれ」
と、ツクモにため息混じりで懇願していたのが記憶に新しい。じゃあ一体何で・・・
・・・
「もしかして三度寝してんの?」
彼女の眼光により僕は目を覚ました。今度はドアが倒れるという破壊音ではなく、人間の、「人を睨む」という誰だって一度はやるような普通の仕草である。しかし、彼女の冷徹な眼光は明らかな殺意を持って、私の血管を瞬時に凍らせた。すなわち眼光(物理)とである。幸いにも僕の食事を運ぶお盆により、彼女の両手が塞がっていたため、僕の首が手刀で切れるなんてことは免れた。ちなみに第二の選択肢として、顔面パンチで歯が吹っ飛ぶ可能性もあった。初めて合成樹脂でできた、70パル程度のの盆に感謝した瞬間である。いかにも安そうな物が敵の攻撃を未然に防ぐとは盆ながらあっぱれである。
「まさか。ツクモ様が丹精を込めて料理を作ってくださる時に、寝ているなんて言語道断。滅相もないことでございます。」
彼女は僕なんてどうでも良さそうに
「あっ。そう。」
と、素っ気なくいいながら彼女は盆ごと僕のベッドの上に置き
「感謝なさい」
と相変わらずの高慢な発言で僕を見下した。
ただ、次の瞬間、僕は驚愕した。彼女はコンマ数秒で自身の手を、使い古されたような短剣に変化させ、到底人には破壊できない手錠を真っ二つにした。切る対象が人だったらと考えるとすえ恐ろしい。
僕は彼女の戒についてあることが気になったので聞いてみた。
「そういえばこの手、手錠の鍵穴に合わせたような鍵に変化できるのではないのでしょうか?」
彼女がリスクとリターンを加味できるような「普通の」人だったならば、手から鍵と鍵穴を出すはずだ。ひょっとしたら彼女が持つ戒の、僕がまだ知らない隠された制約というものがあるかもしれないが。
「それは形状とか決めるのがめんどくさいからね。日頃から使っている短剣のほうがある程度のイメージが固まっているから楽なんだよ。しかも、鍵で開けたり締めたりするのって誰でもできることだから、満足感が出ないというか。まあでもこれはボクの感想に過ぎないな。結局、ボク達、ゼイデンだからさ。ボクの戒について端的に話すと、使われてからそれなりに経っているもので、それにボクが愛着が湧いたら、そのものをマに分解し手で吸収してそれに近しいものを「カッテ」に作り上げることができる条件が面倒くさい能力なんだけど、やっぱりこの世に元々なかった物を作ることは限りなく「キンキ」に近しいものだからさ。自制してんだよ。鍵とか鍵穴とかで99年経っているものなんていくらでもあるし、それを吸収すれば色んな種類の鍵を僕は作れると思うよ。でも鍵を創ることはまだやったことないから、マを調節したりするのが大変なんだよね。ボクの戒って、いくら自分が使いたいものを具現化しようと思っても、それを創るときにボクの五感全てで感じていないとなんか変なやつを作ってしまうからさ。まあいろいろ込み込みで難しいんだよ。」
彼女には彼珍しくちゃんとした理由があるらしい。大気中のマを使って戒を放出している僕からしたら、虚から物を引っ張り出せば良いので、新しいものを創ることは正直お安い御用といった感じだが、自分の戒を使う場合、発動条件は緩いとはいえ融通が効かないときもあるそうだ。
残念ながら僕の腕が切られてなくなるというリスクは継続中のようである。まあそんなことは正直どうでもいい。重要なのはただ一つ、ついに僕の手、そして首の自由が担保されたのだ。今僕は、自らの身体が思い通りに動かせることの素晴らしさを実感している。まさかこんなに身軽になるとは。寝たきりの状態がこうも人生を無駄にしているとは思わなかった。自分の身体というのは動かせるうちに、たくさん動かさないと後々後悔しそうだ。これは、我々人類がいくら外界との交流を拒もうとも、ある程度外に出て、太陽のもとで体を動かす必要があるという僕に対する神の啓示かもしれない。
博士によると、「まだモノは完成してないようだし交渉も佳境のようだ。今、君に動かれるとさっきより困るらしい。」
ちょっと前だったら、ツクモのこの報告に愕然としていたのかもしれない。しかし、眼の前に食事が置かれている今、そんなことは微塵も興味がなかった。というか彼女の忠言も聞き流す程度だった。僕の目の前には「欲」が輝いているのだから。
僕の食欲は眼前の朝食によりただの「欲」から抑えがたい衝動に変わった。朝食の内容としては乾燥そら豆の煮込みと薄いパン3切れ。それとラテだった。普通の朝食といった感じだが僕にとっては初めての「料理された食事」である。ジュルリ。食べてないのに唾液が止まらないや。まずはコップを右手にとってカフェラテを1杯流し込む。最初はミルクの甘さが口全体に広がったが、後からコーヒーが持っているほのかなコクがやってきた。さっきまでの食欲により獣と化した脳が、平静を取り戻した。乾ききっていた喉が潤いを取り戻してきている。そういえばこの拠点はスネイカーが、手動式のコーヒーミルで豆から深煎りのコーヒーを作るくらいのコーヒーガチ勢であり、ツクモが自身の祖国のラテを全て飲んだと自称し、サーキットへ行くと毎回500mlペットボトルのラテを2ダースくらい買って帰るくらいのラテガチ勢の二人にいるのだ。スネイカー曰く、この拠点のコーヒーは市販のブラックコーヒーにありがちな泥水のようなえぐ味がないらしい。道理で豆のコクをラテをほぼ飲んだことのない僕ですらうっすら知覚できたって訳だ。
右手に薄切りのパンを取り、煮込みをスプーンで掬ってパンに載せようとした時、ツクモが
「この国の国教により、左手を料理で使うのは御法度で暗黙の了解。次からキヲツケロ」
と言いながら僕にしっぺをした。私の心の用意ができておらず通常のしっぺより痛いと思った。だからせめて言ってから行動に移してほしかった。
「くぁああ」
悶絶してつい、悲鳴を上げてしまった。外傷としては、手首が若干腫れただけで痣にはならなさそうで良かった。次、なにかの間違いでスプーンを左手で持ってしまったら、骨ごと逝く可能性があり僕の戒の生死に関わりそうなので、自分が右手をこれから使うことを指差し確認してから、スプーンを持ち煮込みを取った。今にもこぼれんばかりの量をパンの上に載せたあと、口を大きく開け、突っ込む。匂いが漏れ出てきそうなにんにくのパンチが、胡椒やクミンなどの香辛料によって引き立てられた。そして、これらを優しく包んでいる乾燥そら豆の優しさ、まさにベストマッチといったところか。その3つの食材の合わせ技は僕の身体中の神経に、活力を与えた。それは身体中の全細胞が活性化したような感じ。最高だ。そこから歯止めが効かなくなった僕は、食べることが止まらなくなり3切れを全て一口で、残った煮込みすらも2口で搔き込み、たった5口でツクモの30分を食べ終えてしまった。
幸せとはこういうことか。満腹とはこういうことか。僕は恍惚状態に陥っていた。貧血気味だった身体の血糖値は急上昇し、僕の胃液はこれまでとは違い活火山のごとく、激しく動いている。これをどうやったら説明できるのだろう。「料理」が舌に触れた瞬間ビビッときた。
僕は、これまででは知るはずのない「味」という世界とその奥深さにわずかに触れたのだ。ソレはただ僕にとって気持ちの良いものというわけではなく、快楽の真髄と言えるようなもっと漠然としてて、僕ではとうてい言い表せない存在だった。はぁ。僕は今こんな贅沢を味わうに値する人間なのだろうか。僕のような人間はもっと森林とかに住処を構え、食材を2日に一回見つけるくらい生きづらい土地で常に飢えており、ギリ食べられなさそうなものを食べては、腹を下しながらもなんとか生きている生活を、身体面・精神面において常にカツカツな生活を送るべきではなかろうか。」
あっ。そういえばツクモに対して一つ言い忘れていたことがある。僕は慌てて思い出した
「ツクモ様。ご馳走様でした」
と(ツクモには到底出来なそうな)人としての礼儀を見せた。彼女にとって、僕が基本的な挨拶を自分にすることが、意外だったようで反応に困るといった感じだ。2,3秒沈黙があった後に彼女はいつもと同じ様子で、ぶっきらぼうに
「ご粗末様でした」
といい食器を洗いに行くため、1階に降りていた。残念ながら、ドアが粉砕しているので、両手が塞がっている彼女のためにドアを開けるといった気遣いをすることで、さっきの貸しを返すみたいな芸当ができなかった。というか、僕の足はまだ鎖で固定されており、歩くことすら不可能だった。ツクモが階段を降りている時、いつも冷徹だった彼女の目の色が、初めて暖色に染まったように見えた。食事・挨拶・人との会話。今のところ全部が充実している。完璧だ。完璧すぎる。
・・・
幸せな時間が永遠に続くことは人生にとってまずないだろう。今僕は我が身をもってそれを体感している。みぞおちが刺すように痛い。この様になった理由としては、ツクモが理不尽な理由で癇癪を起こして、僕の腹を殴ったというわけではなく、自分の腹が勝手に暴れているだけである。初めての食事だったから、本来は柔らかい物をゆっくり咀嚼しながら食べることが一般的だが、割と硬いパンを一気に食べたことの弊害が出てしまった。胃液や脳は喜んでいたが、腸は胃で消化できなかった食べ物がドバッと溢れ出たから、びっくりしたのだ。
まあ普通に考えたらわかることだが、さっきまで人生における絶頂を浴びていた僕に取っては想定外の出来事だった。完全に自業自得である。しかも副産物として、ミルクコーヒーのカフェインにより股間あたりがそわそわしている。さっきまで太陽かのように暖かかった身体は氷河期のごとく冷たい。汗ドバドバである。実はそんなに不自由と思っていなかった鎖が、ここに来て急に我が行く手を阻んでくる足かせに早変わりだ。だれか。頼むからこの鎖を解いてくれ。と懇願するしか方法がない。生まれて初めてベッドで寝たことから始まり、囚われの身となって、今。お漏らしをするかしないかの綱渡りの途中にいる。僕の名誉としてなんとしてでもお漏らしは防ぎたい。
ここで危機的状況を脱せられるかもしれない打開策が頭をよぎった。自分自身が持っているマを放出することでこの鎖を焼き切ることが出来るのではないか?ということである。確かに僕が今まで通り周囲からマを集めて戒を発動するのは、マを再構築している時にその一部が壁の塗料に吸収されてしまうため難しい。しかし、僕はさっきと違って大気中のマを自在に操るための根源・コアである手を使えるのだ。
計画はこうである。手が使えることを利用し、再構築中あえて戒の詠唱を中止して、その瞬間僕の近くに漂っているはずの多くのマを手から放出しながら足の鎖を焼き切るという策である。善は急げ。とりあえずやってみるかと意気込んだ。「うん」の第一波も終わりかけているし、今が僕にとってトイレに行く最良のチャンスなのである。
まずはいつも通り、周囲に「在る」ありったけのマを手の平に集約させ、詠唱を開始した。
「有の門解放、空に落つる虚の鳳凰よ。この手の先にうつりし鎖を虚のものとせよ。」
僕の戒のために再構築されているマの量が少しずつ大きくなっているのを感じる。しかし戒の再構築をしている中で僕はあることに気づいてしまった。壁の塗料にマが吸収される量が思っているように少ないということだ。もしかしたらぶっつけ本番でマを放出するより、少し抑え目になっている戒を使ったほうが効率的だったりするのではなかろうか。後、難しいことに練習なしで挑むことはやはり怖いので、「いつもの」に戻ることにした。これらは私達人間の性というもので、無難な行動の方を選ぶのだ。再構築前のマを放出する試みは、また今度にしよう。結論として、僕は自分の計画を変えることにしたのである。
詠唱からしばらく立つと、さっきあったような足の鎖は虚に移動した。鎖は足に巻かれた鎖を最近見たことのある人達の記憶だけにとどまっている。逆にこの物を取り戻すには、戒で創造した門を解かないと二度と戻らないのだが、私の記憶が鎖を覚えている限りでしかこの鎖に近しいものを創ることができないという記憶と密接に関わった制約が、僕の戒には存在するので、早めに物質化する必要がある、また、備えあれば憂い無しということで、次ツクモが自分の部屋に上がって来る前には、元の体勢に戻っておこうと思う。自分が束縛されていたという事実とは長く苦しい戦いだったが、これでさらばだ。
・・・
というかヤバい。戒の発動に力を入れすぎたのか、全身がだるい。腹が痛い。腸が暴れ狂っている。息も次第に荒くなっていった。体温も測っていないけど多分急速に上がっている。というかそう思ってしまう。
「はぁ。はあぁ」
早くしなければと、弱っている身体を起こして、なんとかベッドから立ち上がり、小走りでトイレに向かった。その時、
「モーン。長い時間またせたな。ようやく終わった。ほらツクモよ。お前が錠をつけたんだろう。さっさと開放してやらんか」
スネイカーの声が聞こえた。が、いくらなんでもタイミングが悪すぎる。ドッキリかと疑いたくもなる、もうこれ新手の嫌がらせだろ。この後に一番きついとされる第二波が来るというのに、もう何とは明記はしないが、僕の穴のダムが決壊するまで、あと3分だぞ。カップラーメンをギリ作れるかどうかの時間なんだぞ。
幸い、今は比較的身体が安定している。ただもうじき来る第二波に体全体が恐怖で怖気づいている。もし、このような体中の震えが生涯続くとされるペークンソ病などを煩ってしまったらなどと考えたら、末恐ろしい。そういう症状自体は身体が病気に適応してしまうからさほど問題ではない。ゆっくり死を全うするだけなのだ。
今は違う、精神的に「普通」とは違う感情に駆られている。それは慣れというより、むしろ考えれば考えるだけ鬱になっている。
一体何考えてんだ全く!あぁああ。もう!尻に力を入れろ!
・・・
ツクモに自分が錠を断ち切り、歩いて部屋に戻っているという一連の光景を見られるとだいぶ困るので、自分のベッドでさっきと同じような体制をとりながら
「虚の門解除、鎖はあるべきところに」
と自分の戒を解除した。大丈夫だ。今のところ、僕が創った鎖は、ツクモが僕の足首にかけていたものと遠目で見ても遜色がないし、ましてや彼女のことだから気づくはずがない。
僕が必死にもがいている中、ツクモは悠々たる笑顔でこの部屋に来た。
「ごめんね〜。ドラマの最終回が10分拡大放送で、絶対オンタイムで見なきゃいけなかったからさ。来るのが遅れた。まあボクにとってはモーンのことなど微塵も興味ないんだけど。いや〜ぁ。まさかあいつが犯人とはねぇ。あの監督の作品、構成としてはすごいベタなんだけど毎回最後にあるどんでん返しがいいんだよなぁ。」
憎いことに、僕が自分の腸と一進一退の防衛戦を繰り広げている時に、このアマは一階で優雅にラテなんかを飲みながら、昨日録画していたであろうミステリー物の深夜ドラマを見ていたという。僕は幸福の格差というものを痛感した。
さっきとは違い、上機嫌な彼女は足の錠を見て、
「次はもっと派手に。例えば。。。短剣じゃなくてチェンソーとか斧で切ったほうがいいかな?」
と冗談交じりに、笑顔でいった。
「いや。お気遣い感謝します。が、結構です。さっきの短剣で頼みます。丈が短剣より長かったら僕の足が。。。わかってて言ってますよね?冗談ですよね?歩けるようになってまだ2日なんですよ。お願いしますよ。」
流石にジョークだったようで、彼女は左手を先ほどの短剣に変化させて「バツっと」鎖を切った。よく見ると最初かけられていた錠とはだいぶ違う位置に僕が創った錠があり、しかも記憶を具現化したものに過ぎなかったから、長さも今思うと若干違うので普通の人だったら、僕が戒を使ったことすぐさまバレると思うのだが、こいつの場合そんなことは気にもとめない様子なので助かった。
「じゃじゃーん。これで歩けるようになりましたよ。係属くん。」
鎖が外れた瞬間、病人である僕にとってすべての事象が一時的に蚊帳の外になる。改めて自らの足を使える事実。それだけが、それだけで僕の器は満たされた。まあ、満たされたのは器だけだったのだが。
兎にも角にも僕は浮かれていた。僕は錠が取れた瞬間にトイレに駆け込むべきだった。
ウッ。
隙を見せたら最後と言わんばかりに第二波が来たのである。さっきは凝り固まった硬い便だけだったから痛みに耐えるだけだったから良かった。しかし今度は液体と固体の中間、ドロドロとした「うん」になりきれてないやつがすぐそこまで来ている。せっかく足が動かせるのに。トイレはもうそこだ。ちょっと耐えればいいだけ。耐えられるか。ここまで生きてきたんだ。耐えられないわけがないよな。再度体中の筋肉を臀部に集中させる。そんな時に!ツクモは僕が必死に悶えている様子を見ている(セーフ)と言わんばかりの安心した様子で、
「ほら良かったじゃん。ボクたち運がいいね。ナイスタイミングだよ。ほら漏らしたらボクが困るから。急ぐ急ぐ。」
うん。多分悪気はないと思うんだが無性にむかつく。煽りに聞こえる。というか、何手拍子してんだこいつは。第一波だったらまだかろうじて耐えれて、そのお前の冷やかしに笑顔で対応できたんだ。いやそれ以前にもうトイレに行き着いていた。な!の!に! 俺が便を出せるまでにあとちょっとだったのに。お前は優雅にドラマを楽しんだあと、スキップしながら階段を登っていたな。いいか。運がいいのは能天気なお前だけだ。僕は今年完全なる厄年なんだよ。後でこの地域の魔除けの方法を調べることにしよう。
ヴィッ
屁もこいてしまった。しかし、今が絶好機である。「うん」が少し引っ込んだからだ。匂いは最悪だ。後で香草でも詰めておくことにしよう。走っている途中、自身の鼻を潰れんばかりに抑えているツクモの不機嫌そうな顔がちらりと見えた。後でめちゃんこに殴られるという暗い未来しか見えていない。今、命綱を渡っている僕に取ってそのようなことは、微塵も興味がなかった。「トイレ」。「トイレ」だ。その場所こそが、唯一この苦しみから抜け出す方法!まさにサンクチュアリ。肛門の閉まり具合が限界値を超えている。ただトイレのドアに向かって猪突猛進。一瞬、僕の戒を発動してドア自体をなくすことも考えはしたものの、さっきのツクモのように、迂闊に戒をだすような愚劣な行いをすることは僕の良心が許さなかった。思いっきり身体を前に傾け、ドアノブというなのゴール線に手をかけた。勢いそのままにドアを開け、白い蓋を取り、なぜか知らぬ間に装備しているベルトに戸惑いながらも服から下半身を開放し準備は整った。パンツにその匂いが鼻につく液体が染み付いていたが、茶色いものを漏らさなかったので、まあ軽症であろう。僕の尻を便座につけ、肛門のロックを解除すると
ドバーッ
比較的きれいな水道水が茶色一色になるほど、多くの糞が出た。それと同時に溢れ出てくるドーパミン。これほど素晴らしい体験は生まれてから一度もしたことがない。人は自分の限界を越えた時こんなに気持ちが良いのか。まったく、人間ってのは罪深い生き物だぜ。
・・・
大部分を出し終わった後、なんかむず痒くなって10分ぐらい便座に座っていた。通称いつトイレから身を離すべきなのか状態である。たしかに大部分を出し切ったのだが、なんかまだ出しきれてないやつがいるような、いないような。自分ではもう出ないことがわかっていながらも、まだここにいたいという気持ちに連れられてトイレから出てこれない状態なのだ。スネイカーも待たせているので早く彼のもとに駆けつけるべきだと思うのだが。スッキリと終わらせることができなかった。「どうしよう」と思い、トイレの天井の染みを数えていた時。一階から声が聞こえたのでトイレのドアを少し開けて、話を聞いてみることにした。
「モーン。大変だったな。まあ、許してくれんか。あいつはちょっと融通が利かないところがあるから、こっちとしてもすまんしか言えん。別に急ぎではない。自分が行きたいときに一階に起きてくれれば良い」
スネイカーの声だった。この拠点のオーナーであり、二人の中で優しさを持っている側である白髪の彼は、世界情勢をひっくり返す研究をしたただの天才なのと同時に薬中でもあり、大麻や葉巻タバコはもちろん、その場の状況次第ではMDMAにも手を出すような人だった。(ちなみにコークだけは人間性がぶっ壊れるという観点から、35年は使っていないという。)なんで彼が52歳まで健康体で生きれるのかが不思議でしょうがない。しかし、あの「ポン」よりは遥かに理解力があり話しやすい。そして、僕の機能するはずもなかった左足を治して、住むところも無償で与えてくれた彼は命の恩人だ。そのような人が、僕に声をかけてくれるのにも関わらず、僕はいつまでもトイレから来るべきか否かについて格闘したままでいいのだろうか?否。今すぐ彼のところに行くべきだ。そう決心した僕はパンツについていた液体と尻の穴をトイレットペーパーでさっと拭き、それと糞をまとめてトイレに流した。つけてしまったベルトを再度締めたあと、勢いよくドアを開け階段を急いでかけていった。
僕がリビングのドアを開けると、座椅子に座っていたスネイカーは「来たか」と立ち上がり、持っていた物をポケットにいれ、自分の座椅子とは机を挟んで向かい側にある座椅子に座るよう言った。
「おはようさん。この拠点はどうかな?もう慣れてきたかな?」
僕はスネイカーが僕がする前に挨拶をしたことが意外だった。
「おはようございます。お陰様ですこぶる元気です」
「そうか。それなら良かった。今日は昨日より本題が長くなりそうだからな。どうだ。コーヒーでもいるか?CBD入りだぞ。最近、HHCP規制されちまったからが表で規制されちまったから、市販のものを早く使っちまわないとな。」
「あっそうですか。ところで焙煎方法は?」
「俺にそれを聞くか?もちろん深煎りだ。」
非常に残念だ。彼は人に対して配慮ができる人だが、自分のライフスタイルに強いこだわりを持つ人でもある。ここは素直に手を引いておこう。
「ならやめておきます」
飲めばいいじゃんと思う人もいるかも知れないが、この人の深煎り砂糖50杯くらい入れる必要があるくらいは苦い。ようは「ガチ」なのだ。昨日初めて飲まされたのだが泥水を飲まされた気分になった。
彼は自分のコーヒーを持ってきて、一口、口に含んでこう口火を切った。
「そうか。じゃあ本題に入らせてもらう。…君は己が何か。いや違う。戒がなにか知っているか?」
失礼だが、彼が何を聞きたいのかが分からなかった。一日前、彼は僕に僕の戒についての説明をこれでもかとしてきたばかりじゃないか。しかも、聞かれていることが、自分のことなんだからわからないはずがない。もっと難しい事を尋ねられるのかと思った。こんなの拍子抜けだ。
「恐れ入りますがそれは愚問だと。確かに僕は自分の戒を完璧に制御できるわけではありません。しかし、詠唱方法や。周囲に与える影響。どういうふうに発動できるか。自分のことなのでおおよそ知っていると思うのですが?」
すると彼は驚いた様子で僕の顔を見て、
「ほお。随分強気じゃないか。じゃあお前が知っている「おおよそ」を説明してみるが良い。」
と笑いながら聞いてきた。なんか挑発されている気分だ。僕はなんだか自分が試されている気がした。たしかに彼は笑っているが、彼の目は僕が困惑している心を見透かしているのだと察した。こうなったらもう後には引けない。覚悟を決めるしかない。緩んでいた表情筋がグワッと引き締まった。
「えーと。自分が今見ている空間を有とする。そこに「有る」ものと考えるのなら、今そこから見ることはできない空間は「無い」もの。つまりは無になりますよね。ただし、有の空間で見えないものを見た場合、そこには「有りそうで無い」ものを私達は無意識的に知覚します。つまりは「虚ろ」な空間である虚が出来上がるのです。ここまではただの仮定の話ですが、僕の戒を使えば、それらの空間に干渉する事ができます。例えば、虚の空間にある可能性があるもの、つまりは僕自身のみが知覚できる、記憶や空想を有の空間創ったり、有の空間にある「物」を無の空間に移動してそのもの自体を消失したり、我ながら物凄い汎用性に富んだ戒です。ただ、その代わりどの僕が一時的に知覚しているということになる「キンキ」なので多量のマを消費しますが」
懇切丁寧に話したつもりだが、完璧な説明ではなかったと思う。もっとなにか話せた気がするのだ。話を加速させるたびに自分が何を思ってここで話しているのかがわからなくなる。僕が発した言葉は塊ではなかった。ふわふわっと宙に浮いたあと、そのまま空中分解して消えるシャボン玉と同じだ。スネイカーは僕がこうなることが想定どおりだったのか、僕の説明が想像以上に陳腐なことを嘲笑しているのか、薄気味悪い笑いを浮かべていた。HHCPのせいでハイな状態なだけかもしれないが、僕の目線からは彼が心底楽しんでいるように見えた。
「なるほど。なかなか芯が通った良い意見ではないか。ではなんで私達は自身に与えられた力を「戒」と呼称しているんだ?まあ旧人類はそもそも能力すら持っていないが。私達以外の新人類はみなの能力を数値化して等級で振り分けているんだろう?」
なんで私達は私達の能力を「戒」と呼ぶのか。それについては考えたことがなかった。デタウムに書いてある「戒」の意味を見て、それだけで知った気になっていた。スネイカーが今聞いているのは、辞書的な「戒め」の意ではない。私なりの「戒」という言葉の意味を問うている。そんなの、時間をかけて自分なりの答えを出すことができるはずがないと思った。
「うっ。う〜ん。わかりそうでわかんないんです...」
どうやって返答すればいいのかわからない。自分の経験のなさを素直に認めるのか。それとも(もう少し時間をください。もう少しで掴めるかもしれない。ですから・・・)と懇願して長考するか?それとも…
「そんな自分が今まで考えていなかったものを、首を傾げながら深く考えるものではない。言われて、パッと思いついたものでいい。そんな論文のように、、無闇矢鱈に言語化する必要はない。漠然とした蜃気楼のような、ふわんとしたものでいい。私が共和国で科学者として働いていた時、私自身の研究で世界情勢を変えた。幾度となくマスコミの質問攻めに会い、頭が自分は何を考えていたのだろうと真っ白になった。どうしてか?いつか?なぜか?人は常に本質や真実を求めたがる。飢えたオオカミのように追求して回る。自分がやったことに関しては何も考えてなかった。と、記憶にないと答えるくせに。ありもしない人の本質を集めるために奔走する。私はこれに嫌気が差しているんだ。だから、今聞いてるのはあくまでも感触だ。ありもしない本質ではない。」
全てお見通しってわけだ。これは正直に自分の感触を伝えるしかない。
「時間を食ってしまいすみません。実のところ、よくわからないです。ただ良いか悪いかで判断すると悪いもの。というか、あってはならないもの。ツクモがよく口にしている通り、この世の「キンキ」だと、もしくはそれに限りなく近しいものだと思う。」
するとスネイカーは僕の意見に同意した様子で、2回頷いた。
「ほほう。なるほど。それでいいと思うぞ。では、質問を変えるとするか。私は君の戒を知っている。この目で見たこともある。では、君は私の戒を知っているか?」
質問だが今回は、自分の考え(スネイカーに言わせてみれば感触)を聞いてきたが、今回はYesかNoを聞いているし、迷わなくて済みそうだ。とにかく。正直に答えること。
「わからないです。でも今やっていることと少なからず関係はあると睨んでいるので、医療系かなとか思ったり。」
彼は新しめの葉巻に火をつけ、2,3秒吸った後、息をゆっくり吐きながら、そのシケモクを机において、こう言った。
「残念!違うんだな。でも奇跡を見れたから良しとするか。ツクモも初めてあった時、君と同じ回答をして間違えていたんだよ。」
僕は、あってられなかったことよりツクモと同じ回答をして間違えたというのが非常にショックだった。スネイカーはそんな僕の様子に目もくれず、話を続けた。
「まあ聞いといて失礼なんだが、ここで君とかツクモに答えたくはないんだ。どうしても知りたかったら、私が死ぬ直前にでも聞くのが良い。なぜここまでして、私が自分の戒を教えたくわかるか。私はこの世界を100%信頼していないからだ。ああもちろん、「今」は大丈夫なことくらいわかっている。それでも、社会がいつ私を裏切るかはわからん。私達の能力は他とは比べ物にならないくらい危険だ。それを公共の場で開示でもしたら、少なくとも私は「戒」の所有者として見られてしまう。いくら善行を行ったとて、持っているものが「悪しき物」と捉えられてしまったらそいつは「悪」だし、いくら悪行を行ったとしても、持っているものが良き物として捉えられていたら、そいつは「善」になる。我々は他人に対するステレオタイプを持っており、他人をそれぞれの都合の良いようにに当てはめて、考えてしまう。そして、お前は知らないと思うが、今、我々ゼイデンの能力は「悪」どころではない「憎悪」と捉えられている。私達の能力は「キンキ」だからだ。人智が及ぶ領域を超えているからだ。昔は希少な物を持っている者は「神」に限りなく近かった。今となっては、希少性が与えるのは嫉妬と憎悪だけだ。畏敬の念なんてありゃしない。私達は禁断で許されないものなのだ。だから自分自身の能力を戒めるために「戒」という。それが本質であり、事実なんだよ。こうやって少しずつ世界に興味を持ってくれたら嬉しい。」
幸いにも、世の中的には似た者同士しかいないこの拠点では、苛ついたり、ムカついてたりすることはあれど、生きづらさは感じないだろう。この拠点を作った私もそう思っている。ただし外の世界はたまらなく窮屈だ。それを今からでも、少しずつ理解してもらいたい。今理解しないと、外に出た時、、君はテロリストとしての道を歩むことになってしまう。」
どうやら自分が退屈に思っていた砂漠は僕らの箱庭にすぎないようで、外の世界は僕が思っている以上に悍ましく、窮屈らしい。スネイカーがそれをいち早く経験して、ツクモや僕を匿ったのだとすると、そこに身をおいている僕という存在がいつまでも、存在しないような気がして哀れで悔しかった。僕が持っていたはずの何かを失った気がした。過去でも、今でも未来でも僕の目が見えている先は変わらないはずだ。しかし、今は視界が薄いグレーでぼやけている気がした。こんな世界だったのか。ならば神はもう多様性なんかとうに諦めているはずだ。人は、暗黙の了解に最も忠実な生き物なのだから。
「はぁ」
彼は机の上のシケモクをゴミ箱に払い、また新しい葉巻を取り出して、人差し指と中指ではさみながらこういった。
「まあこれを今、理解できるかと言ったら無理な話だ。だから、自らの経験なども踏まえて、少しずつわかってくれ。」
葉巻につけた火が少しずつ消え始めている。スネイカーはそれに気づかぬ様子で、
「しかし、前置きというか授業が長すぎたな。これは私の反省点だ。君にここに来てもらったのは、ここで補修をするためではない。君に渡したいものがあるのさ。」
と言いながら、左ポケットからスネイカーは、小瓶を取り出した。今まで見たことない小瓶だった。香水などを入れるような少し洒落ている黒の小瓶。というか小瓶というよりは薬瓶のような形だった。栓の縁には2対の蛇が掘られている。
「これは...戒具ですか?」
スネイカーは右手で持っていた葉巻の火が消えかけていることにようやく気がついたのか、それを机に置いて、自分が入れたコーヒーをまた一口、口に含んだ。
「いや違う。ほら、ツクモの戒とかは汎用性が効くから、一応外でもごまかしが効く。しかし君の戒は君が発動した時の効果範囲が広く、とても強力なものだ。そこで本来は、自分の能力を偽装するなど、良い行為ではないが、私は三日三晩かけて造ったのだよ。君の戒の代用品となる武器を。」
なぜか深夜テンションのスネイカーは小瓶に向かって、デコピンをした。そして、ニヤけながら、
「ほら。ご主人さまとご対面だぞ。」
と圧をかける感じで言った。するとなぜか小瓶が勝手に起き上がって、
「なんで、共和国の息がかかっている奴と手を組まなければいけないんですか。俺の魂、奪ったような奴とセカンドキャリアを過ごせってこと?たまったもんじゃないぜ。ちょっとはこちらの事情ってやつも考えろよ。」
と声を荒げて喋ったのである。「小瓶」が喋ったのである。ただ、僕が驚いたのはそこではない。小瓶の中から出てくる声が、僕の左足を地雷で塵にし、僕が魂を奪った最初の「ヒト」。帝国のジスク卿だったのだ。
これは本当に真実????
・・・・
初投稿です。
学生なので更新は1ヶ月に一回程度です。
わからないことがあったり、誤字ったりしていたら教えてください。




