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虚無の記憶  作者: 妻子
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8月9日という日について

彼は彼の事を見ようとしなかった。しかし、ようやく彼の殻にヒビが入る時が来た。

僕は彼女に手を繋がれて空を翔んでいる。眼下には林や住宅街、車や学校等が点々と見える。大分空高くを僕は翔んでいるみたいだ。気が付いて横を見ると彼女はゆっくりときちんとした微笑みを作る。とてもきちんとした微笑みを。なれた様子で答案用紙にコンパスの針を立てて、歪みの無い円を素早く書くように、もしくは都会の一流のホテルマンがいつでも整えられた眉と口の端を的確な角度に持ち上げているように。孵化したばかりとは思えないほど洗練された優美な笑顔を彼女は瞬時に完成させる。


そして僕と彼女は徐々に高度を下げて飛行をする。見覚えの無い高校や病院、そして駄菓子屋の上を僕らは通過する。違和感の波はもう襲ってこない。全身を吹き抜ける風の冷たさと彼女の柔い手の温もりを感じながら、僕は気持ちよく空を翔ぶ。



ぱっと目が覚めた。意識は驚くほどにクリアで、体は100%まで充電された携帯電話のように満ち足りている気がする。

何度か瞬きをしてみる。白い天井がまず視界に入り、そのあと天井から右へ目を滑らさせるとぶら下がった笠のついた電球が写りこんだ。反対に左へ首を動かすと網戸とその奥の眩しい青空が見えた。じわりと汗が額から流れる。蝉の声が徐々に大きくなって聞こえてくる。現実が、僕の身体に溶け込んで行く。そして僕は考える。


ここは、僕の部屋だった、だろうか――――?


妙な疑問が浮かんでくる。しわくちゃになった白いタオルケットは足元へ押しやられており、体を起こして僕はその部屋を見渡す。その部屋は上から見ると、北側にステンレス製の机と椅子、その横に同じくステンレス製の書棚があり、東側に縦70センチぐらいの大窓と布団があった。壁の色や布団の色、机や書棚等の家具は、レモン色と白の格子柄のカーテンと茶色のフローリングを除いて全て白かった。無機質で、殺風景。書棚には参考書や問題集、幾つかの推理小説がキレイに並べてあったがどれもあまり使われていないようだ。


それらを見渡し僕は僕に言い聞かせる。


''ここは僕の部屋だ。"


そして、何となく机上のカレンダーと時計を確認する。

2002年 8月 9日 A.M.6時 01分


今日は随分と早く目覚めたものだ。だって、昨日は正午まで僕は寝ていて…その後は適当に朝食を食べて部活に行ってそして家に帰って――――――………違う。それは違う。


そこまで思って僕はようやく思い出す。ザラリとしていて不気味に冷えた重たい卵。白い肌。フローリングに映る僕だけの影。藤谷君の母親。古びた駄菓子屋とその横の道路。

最後に虚しいリビングで軽薄な笑いを響かせるテレビと固いソファの感触を思い出して、僕は身震いする。


そうとなると、何故僕は二階にいるのだろう。


部屋のドアは開け放されている。夏だから当然かもしれないが、なんだかそれも不気味だった。恐る恐るドアから廊下へ出る。階段の横の壁にはめられた窓からは嘘みたいに真っ青な空が見えた。 ヒヤリとする木製の階段を一段ずつ降りていく。ヒタヒタと歩く僕の足はとても白く爪は綺麗な桃色をしている。階段の筋状の板目の存在やなめらかな手すりの存在を新鮮に感じながら、僕は一階へと降りていく。降りると直ぐ右横にはドアがあり、それもまた開いていた。軟らかな木製のドアの奥には何があるのか。知っている気がするけど、やはり分からない。というよりは、分かりたくないのかもしれない。


心臓が僕の体から逃げ出したがっている。体から流れる冷や汗が何かに対する危険信号を出している。何故だろう?あの彼女がそこに居ると僕は思っているのだろうか?


僕の家だ。怯える必用などはないと僕はリビングへと入る。そして、僕はそれを後悔する。 リビングには朝の情報番組の音が空虚に響き、締め切った部屋の中で見知らぬ女の人がこちらに背を向けてテレビを見ていた。もう一歩と踏み出してみるとむわあっとした空気が僕にまとわりつく。形容しがたい嫌悪感だ。


……誰だ――――――…?何でここに居る?まさか強盗?それにしてはやけに家に馴染んでいる。親戚?


その人はちゃぶ台を挟んでテレビを見ている。白髪混じりの黒髪は肩の辺りまで伸びていて少々乱れている。着ているベージュのシャツとジーンズは使い古されているように見える。その人は背を丸めて胡座をかいている。…本当にここは僕の家だろうか?どこか違和感のあるリビングを見渡す。

その人の背中は、全ての気力が失われたようで、存在が渇ききって見えた。なんだか可哀想だとさえ思ってしまった。


「……っはあぁぁ~~~……何でこうなんのよ…」


突然、その人はスイッチを押された機械のように動きだした。それに僕はびくついたがその人は気づいていないようだ。

何かの書類と財布、携帯電話を手近にあったバッグに詰め込んでその人は立ち上がった。そしてその人がこちらを振り向こうとしたので急いで階段の陰に隠れる。階段に左足のくるぶしがガツンと当たって痛かったが、そこには音がなかった。周りがうるさい訳ではない。物理の決まりに反して、そこから生まれるべき音がうまれなかったのだ。


「ガチャン」


その人はもう鍵をかけて出ていったようだ。僕のことになどまるで気付かずに。 ――――どういうことだろう。

ゆっくりと目をフローリングに落とす。そこに僕の影はなかった。


「…………えっ…」


おそらく僕にしか聞こえない僕の声だ。でも、まるで他人の声のようにそれは耳に響いた。上擦ったのか、女の子みたいに高くておどおどしている。自分から出た声だと思うと気持ちが悪い。


黄土色の短パンから伸びる白い足を軽く上げる。痣らしきものはできていない。


これでは、まるで僕は「彼女」みたいじゃないか――――。


何かがやはり確実に崩れてしまった。昨日を境に。


渇ききった女の人は何処へ行ったのか?僕の知らない世界へだろうか。というよりは、僕の知っている世界が、この玄関の扉の向こう側に果たして今日も在ると言えようか?


藤谷君や頼子、先生やいつも僕に見惚れている女の子達は今日も世界の何処かに居るだろうか。 それとも、僕だけがこの世界から消えてしまったんだろうか――――。


今日も動き出そうとしているその世界の中で、僕はただ一人、殻の中に閉じ込められているようだった。

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