8月9日という日について 続
朝私は決まって5時に起きる。今日もまたそうだった。
静かな暗闇の広がる頭の中に、ピーッ ピーッ と周波数の高い電子音が空気を伝って響いてくる。その音が徐々に大きくなって、私は瞼を開ける。窓から差し込む光で白い天上がほんのり淡い水色に染まって見えた。右足をシーツに滑らせながら少し冷えたフローリングに踵を落とす。もう片方の踵も落として、タオルケットを剥ぐ。スマートフォンを開き、アラームを止めて今一度時刻も確認した。
2005年 8月 9日 A.M.5時 00分
開ききらない瞼をこすりながら私は一階の洗面所へ向かう。顔を洗って汗ばんだTシャツとショートパンツを洗濯機へ放り込み、少し大きめのブラを着ける。私は胸が大きいのもあって、就寝時にはブラを着けない人間だ。そして、髪を一つに束ね、アディダスのジャージを上下とも着込むと家を出た。
軽く準備運動をした後、息を深く吸ってすーっと夏の空気で頭を埋めていく。まだ辺りは明るくなりきらないが、なるべくはやく戻って来ねば。この、一日の始まりを予感させる空気の中で私は走りたいのだ。お気に入りのスニーカーでまだ冷めたままの道路を蹴っていく。住宅街を通って、橋を渡って、公園なんかも横切ると、私はもと来た道をまた走って帰る。
そして、家に戻って深呼吸をすると、私は 十八娘 双葉という私になることが出来た。
シャワーを浴びた後、私はほんの少しだけコロンをつけ、ありふれた青と水色のチェック柄のスカートを巻き付け、ブラウス、ネクタイを順に着ていく。頑丈な、飾り気の無いリュックサックに必用な教科書とお弁当、水筒があるのを確認すると私は 行ってきます と家を出る。
今日は夏期講習のために学校へ行く。今は夏休み中なので高校へ行くのは久しぶりだったが、昨日も学校へ行っていたような気になる。
―――全部いつも通り―――。 いつも通り人の多い地下鉄に揺られながら私は本を読み、いつも通り律儀に高校へのバスは停まり、いつも通り同じ高校へ向かう女の子達は、スカートの裾を太股まで押し上げて片手にお弁当用のポーチ、片手にガラパゴスケイタイというのを持って笑っていた。
私の通う高校は道内でも偏差値がなかなか高い方に分類される。それもあってその高校の設備はなかなか充実したものであった。それに制服だって可愛い方だ。そういう訳で私はこの高校に真面目に勉強して入学した訳だが、直ぐに高校が嫌になった。
何かにつけて周りの生徒同志で円陣を組んで叫びたがる生徒が嫌いだ。可愛い、カッコイイ、ウザイ、ブスばかり言う同級生が嫌いだ。お粗末な膝を恥ずかしげもなく披露できる上級生の女の子が嫌いだ。自分等は委員会で下らない会話を永遠としているだけなのに、その中に居るノリが悪い人を「真面目係」と位置づけて仕事を頼る女の子が嫌いだ。自分達がイケていると思って疑わない、その学校にいる人間が嫌いだ!
私は、入学してから1年半が経つと人との壁を次第に強固で機能的なものにしていった。それは透明で分厚い水族館のアクリル板みたいな壁だ。周りの事はちゃんと見えている。見えるよう手入れもしている。でも、ただ一人を除いて、彼らとは決して深く関わらないようにしてある。たまに壁の向こうから何か言う彼らに、私はただ愛想よく笑って短く言葉を返すだけだ。彼らとはそれだけの仲だ。
私から見れば、彼らがアクリル板の中に居る魚たちに見えたが、彼らからすればその逆なのだろう。
席について本を読む。
授業が始まるとポイントを押さえてノートをとる。
テストが返ってきて悪くない点数であるのを確認して短く頷く。
放課後、美術部の前を通るが今日は行かない事にした。
そしてバスと地下鉄に揺られて、私は病院へと赴く。
その美しい人の居る病院へと。その病院へ行く間、私は私の彼氏について考えていた。正確に言えば、一昨日の彼氏との性的行為について考えていた。sexまでした訳ではなかった。ただ、私はされるがままに彼の事を受け入れていた。
彼とは、木戸 涼太のことだった。同じ高校の、唯一私がアクリル板の壁を無しに触れ合う人間だった。
彼と私は美術部で出逢った。彼は勉強が出来て、顔もまあ格好いい方で、女の子からも密かに人気があった。
そして、彼はありふれたものを、魅了的に美しく描いた。私は大抵、ありふれた美しい物を暗く、毒を含んで描いた。
「前から思ってたけどさ、なんか、ネゴロサンの絵って虚しいよな。」
そう彼は私に声をかけた。失礼だとかとは思わなかった。
「なんでそう思うの?」
「人に感動を与えるつもりで描いてない、と思うからかな。」
「……」
「私は綺麗なもののこんな暗くて黒い一面が在るのを知ってるのよ、って上から伝えてるだけな気がする。」
何と無く、的を射られたような気がした。初めて声をかける相手にそこまで容赦なく踏み居るかとも思ったが、別に嫌ではなかった。そんな風な言葉を言われるのは、あの人以来のような気がしたからかもしれない。
「そうだね。私のおこがましさとか性格の悪さがきっと絵に出てるのね。」
「あぁ、何も俺は、性格自体を批判したかったんじゃなくて、えーっと…」
「そうとしか聞こえなかったけど?…今思ったけど、あなたの性格はあまりあの綺麗な絵には写されていないようね。」
「えっ?どういう意味だよ」
ぎこちなく彼は笑った。
絵と同様に、彼の笑顔は素敵だった。
そして絵や学校のことを話すようになり、木戸が私の彼氏だったらいいのかななどと思いはじめた矢先、木戸に私はコクられた。
木戸と出会って2か月半。私がまだ1年の頃だった。
性格も顔も、お世辞にも可愛いとは言えない私なのに。もっとも、彼の澄んだ瞳ではそんな私も魅了的に映しだせるのかもしれないが。
心理的に自分の傍にいつも居る人間ができるというのは、どういう事なのか、異性経験の全く無い私には想像出来なかった。何よりも、同学年だけでなく他学年の女の子からも好かれている木戸と付き合うとどうなるか、私は少し面倒に思った。
「……私も木戸君が人として好き。でも、付き合うのに条件をつけてもいいかな」
二人以外誰もまだ来ていない帰りのバス停で、背中合わせで私たちはベンチに座っていた。辺りは暗く、外灯の安っぽい光が灯っていた。
「…?うん。何」
「デートみたいなことはあまりしたくない。学校でもこれまでとは大きく変わらないでいてもらいたい。……それと、私のことが嫌になったら直ぐに別れてもらいたい。」
最後の条件の意図。それは私が想っている人間が木戸以外に居ることにあった。木戸と付き合いたいと思ったのも、木戸がその人にどこか似ていると思ったからかもしれなかった。だから、もしそれを示すような言動が私にあったとしたら、木戸にとても申し訳ないと思った。
「……あのさ、双葉は俺の事ほんとに好きなの?」
私の言い方を聞く限り、普通でとても何気無い質問。でもその質問は私の核心に触れていた。
きっと木戸は体をこちらに反らして聞いた。けれど、私は同じように体を反らさずにそう言った。顔を見て、言えなかった。
「木戸君のことが好きだよ。」
例え今はそうでなくても、私はあなたを一番好きになると決めた。
だからだろう。突然抱き締めてきた木戸を私は拒まなかった。
一昨日、図書館で偶然会った私と木戸は午後になると二人で帰ることにした。二人とも自転車だった。そして私は道に転がっていた大きめの石にタイヤをぶつけ、バランスを崩して転んだ。咄嗟についた片膝は擦りむいて血が溢れていた。ショートパンツをはいてきたからだ。木戸は私を気遣い、家が近いからと手当てしていくよう言ってくれた。
その後私は木戸の一軒家に寄り、リビングのソファに座らされた。親はいなかった。
「…っ」
「痛む?」
「いや…」
「足、綺麗だな。」
白く長い脚をまじまじと見つめて言う彼を、私は初めて恐ろしいと思った。
「な、何言うの。襲う気じゃ、無いでしょうね」
冗談のつもりだったが彼は手を止めて真剣な顔で言った。
「襲っちゃだめだった?」
見えない矢を胸に突き刺すような声だった。
「…妊娠以外なら、木戸君には何されてもいいよ」
殆ど意地と勢いでそう言った。でも、それが私の本心だった。そうだと決めていたはずだ。
躊躇いながら、木戸はソファに乗って両膝をつく。体を包み込むしっかりとした両腕と木戸の体温は、私の心を満たしていった。この感覚はいつ以来だろう?多分、あの人にされて以来だ。瞼をとじると甦るその日。薄暗く涼しい夕暮れに、私はあなたに満たされていた。木戸みたいに優しくはなかったが、その時私は拒みもしたが、今でも思い出すのはあなたの温度だ。
「双葉…俺のこと、ほんとに好きだと思ったことある?」
ふいをつかれて驚いた。それがきっと木戸には伝わってしまったのだろう。自嘲気味に笑いながら木戸は私にゆっくりと触れていった。
そんな木戸の笑顔は初めてだった。
木戸の大きな手からは悲しい優しさが受け取れたし、それが分かって私は途中で本能的にいやらしい声も出してしまった。
しかし、私が最後まで思っていたのはあなただった。
地下鉄を降り、駅構内にある花屋で私はビタミンカラーの小さな花束を買った。膝まである折り目正しいスカートを揺らしながら、病院へと私は入る。あなたの病室ならとっくに覚えていた。
広い病室の片隅のベッド。横にある、桃色のカーテンが風に揺られている。
「佐野」と書かれたプレートの下で、夏の暑い日だというのにあなたは涼しげな顔で眠っている。長い艶やかな髪に、形の良い薄い唇。完璧なカーブを描くつんとした鼻。良い匂いのする白い肌。
「久し振りだね。調子はどう?」
鞄からスケッチブックと鉛筆を取り出しながら私はあなたに言う。スケッチブックのページの人物画は全てあなただった。あなたの、この世の全ての悪をまだ知らないような無垢な表情がそこにはあった。
「…もうそろそろ、あなたを諦めなくちゃね」
眠り続ける美しいあなたに、静かに私はそう呟いた。




