第25話 ズィータ戦域 ⑥
息が自然と荒くなり、心臓が早鐘を打つ。
頭よりも体が先に動いていた。
宙で硬直するベル・ラックベルに向けて、無我夢中で《夜のはじまり》を突き出していた。言わずもがな、目的は置換だ。【ディレクション】を構成する魔導効果のひとつ。【編集】の力で、彼女をぼくの足元にある瓦礫と入れ替えて緊急避難させる――瓦礫への光痕はすでに終えてある。
(頼む、間に合え――ッ!)
顔が火照っているのがわかる。目も血走っていたはずだ。
奥歯を食いしばる。目線をベル・ラックベルから逸らすことなく、銀色の人差し指と中指の腹を勢いよく擦り合わせる。
狙い通り、光の線が素早く花嫁の周囲を駆け、断絶空間を形成。
詠唱を口にしようとした刹那、それは起こった。
大きく鋭い、紅黒の閃光。
それが落雷のごとき勢いで、花嫁を呑み込もうとする魔導効果の嵐へと直撃したのだ。
猛烈な閃光で目が眩むも、構わずに指弾――両手に重みと人の温もりを感じた。
「わぁ!?」
「大丈夫か!?」
いきなりのことに困惑した声を上げる戦う花嫁を、ぼくは無我夢中で抱き留めた。さっきまで彼女が浮かんでいた宙点へ転送された瓦礫の石が、膨大な魔力効果の衝突余波を受けて粉微塵になっていくのと同時に、すさまじい轟音が大気を震わせた。振動する空気の奔流は、ぼくらの足元を通り過ぎ、いまや瓦礫と化した街並みの路地という路地に流れ込んでいった。でも、そこに破壊的な熱は感じない。むしろ、どこか頼もしさに近い温もりを覚えるほどで……ダエラさんも、エディもキレートも。その場にいた冒険者の多くが、その常軌を逸した力の波動を前に、驚きで動くことすらできずにいた。
なにが起こったか。すぐには理解が及ばなかった。
ただ、例えようのない安堵感は、みんな抱いたはずだ。
なぜなら、ベル・ラックベルを完全に圧殺する勢いだった《囀り》の魔導効果の嵐を、正体不明の紅黒い閃光が、完全に消し飛ばしたからだ。
あたりに漂う金色の霧状物質――結合崩壊を起こした大量の魔力粒子。再展開された魔導障壁の残滓だ。それを浴びる《囀り》の全身部から、悲鳴にも近い音が鳴り響いた。見ると、魔導排気筒のいくつかが根本から吹き飛んで、破片をまき散らしながら宙を舞っているのが目に飛び込んできた。
「おい、マジか……」建物の陰に避難していたエディが、驚きに声を上げて指を差す。「土手っ腹に亀裂が入ってんぞ!」
その言葉通り、《囀り》の右肩上部から左胴体下部にかけて、大きな斬撃痕が刻まれていた。あの紅黒い閃光は魔導効果を吹き飛ばしただけではなかったのだ。ぼくの目では捉えきれなかったけど、攻撃回数は一度ではなかったはずだ。おそらくは、あの数瞬のうちに赤黒い閃光は二度、三度とはしったに違いない。
冒険者たちが驚きに息を呑むのがわかった。《囀り》の破損した胴体部。裂け目の向こうは暗黒で、そこにきらきらと光るものがあった。なんだろう。ぱっと見はわからない。おそらくは魔核晶の一種だろうか。モンストルに共通の弱点。もしそうだとするなら、希望が見えた。ここにきてようやく。
それにしても、いったいどこの誰が《魔王の遺産》にこれほどまでの一撃を加えたというのか――そんなことを考えながら、倒壊した建物の陰へと落ち往く夕焼けの眩しさに、思わず目を眇めたときだった。
《囀り》のすぐ近くに、浮かぶ人影を認めた。
おもわず「あっ」と声が出た。
そう、人がいたのだ。
見知らぬ人物が、大剣片手に浮遊していた。
この目ではっきりと見た。
――クレイさん――ベル・ラックベルが喜びに声を上げた。
その鳶色の瞳が、さっきまでとは打って変わって、きらきらと希望の光に満ち溢れている。ぼくの腕に抱かれているのも忘れているかのように。
彼女の輝く相貌を見て、ぼくはすべてを悟った。そう、本当にすべてを悟った。
と同時に、こんな一大事にも関わらず、なにか言いようのない痛みを胸の奥に覚えた。
深手を負った《囀り》を前に、堂々とその身を晒す救世主。「クレイさん」と彼女が期待を込めて呼んだその人の後ろ姿を、ぼくはまじまじと見た。
長身の男だ。ぼくより上背がある。黒い襟足が風に揺れていた。燕尾服の上に着こんでいる冒険者装束は、共和国最高基準の撥魔加工が施された、堅牢なる白剛角鎧だ。跳舞靴で覆われた両足首には光環状の力場が形成されていて、意のままに宙を掴んでいる。
あとで聞いた話だと、これらの装備は駅前にある冒険者御用達の施設に収納していたらしい。いついかなる時も肌身離さず、不測の事態に対処するために。たとえそれが、自身の人生において最良の日であっても。常在戦場の心構えというやつだ。これこそが冒険者だと痛感した。ぼくがなりたかった冒険者の、あるべき姿がそこにあった。
超一級品の装備のなかでも、ひときわ目を惹いたのは、右手に持つ巨大で分厚い剣だった。刃は墨を流し込んだように黒く、黄昏時の光線すらも吸収しているように見えた。剣の柄には長くて丈夫そうな銀の鎖が留められていて、反対側には錘がついている。
クレイと呼ばれた男は、剣と錘の境を持ち構えると、遠心力を使って勢いよく得物をぶん回し始めた。あっという間に刃の先端が最高加速地点に到達するやいなや、クレイが右手からパッと鎖を離した。遠心力のなすがままに鎖を引き連れ、黒刃が迷うことなく、鋭く弧を描きながら《囀り》の周囲を奔る。
その軌道上のいくつかの宙点で、不意に空間が不可思議に歪んだ。半透明の異次元の孔がいくつも穿たれ、そこへ勢いよく空気が流れ込んでいく。
《嘲り》が、またもや全身から悲鳴にも近い音を上げた。ダエラさんが操る魔槍の一撃すら防いでみせたはずの頑強な装甲が、一枚一枚、まるで焼き菓子の皮のように薄く剥がれ、その多数展開する異次元の孔へと吸い込まれていく。
呆けていた冒険者たちが、弾かれたように声を上げた。驚きと興奮の熱量があった。
「あれは《空喰い》!」ベル・ラックベルも、そのうちのひとりだ。「さすがクレイさん!」
時空間に干渉する、第十三の魔導効果――対象の周囲に疑似的な真空状態を作って足止めするだけでなく、真空の孔と別次元の空間を接続させ、効果範囲内の対象物に持続的なダメージを与える――あとでそう耳にした。それだけで、どれだけ常軌を逸した魔道具の使い手であるか、わかるはずだ。
『みなさん』
呼々石から声。どこか余裕を感じさせる、落ち着き払った声だった。
『クレイ・オーガストです。僕の魔導効果で敵の動きを封じ込めています。いまのうちに態勢を整えてください。敵の脅威度から察するに、この魔導効果の持続時間は十分程度でしょう。その間に、負傷者は建物の陰や離れたところへ避難させてください』
言うと、彼は振り返った。ぼくと目が合う。黒縁の眼鏡をかけていた。薄いガラスの奥で、その目が安堵に揺らいだような気がした。彼は足元の光環状の力場を操作すると、瞬間移動の魔導効果でも使ったのかと錯覚するほどの機動力を駆使し、ぼくらの前に降り立った。
顔立ちが、よりはっきりと分かった。柔和な顔つき。年齢は、ぼくより少し下ぐらいだろうか。驚いたのは、冒険者の多くにありがちな、エネルギッシュな雰囲気を欠片も感じなかったことだ。どちらかといえば、魔石局で働く研究者という雰囲気のほうが強い。清潔感があって、誠実で真面目そう。有体な言い方になるが、そんな印象を抱いた。
ぼくは、ベル・ラックベルの肩から手を放し、距離をとった。そうしなければいけないと思ったからだ。
「ベル、大丈夫かい?」
クレイの声。大剣を背中の鞘にしまい込みながら、ぼくの手から離れたベルに駆け寄った。
「はい。クレイさんは?」
「平気さ。君のお姉さんのおかげでね」
「お姉ちゃんが?」
「そう。あたしがここまで案内した」
やおらに声がした。振り返ると、いつの間にそこにいたのか。白い水兵帽を被ったドレス姿の小柄な女性が、長杖を手に立っていた。目尻がやや垂れ下がって、それこそクレイと同様に大人しい印象を受けた。「お姉ちゃん」ということは、つまりそういうことだ。でも、顔はあまり似ていない。
「夫婦そろって方向音痴だからね。戦域の前線に連れていくのに、道案内が必要だと思って。でも、きみは無事にたどり着いたのね」
変わったしゃべり方だなと思った。
「いや、さすがにわかるでしょこんな大惨事なんだし……」
「ふむ。まぁそうか。ところで――」
ベル・ラックベルの姉は、ぼくのほうへ向き直ると、軽く会釈をした。
「自己紹介している場合じゃないのはわかってるんだけど、一応ね。はじめましてですね。私はナタリア。ナタリア・ラックベル。この子の姉です。あなたは、トム・バードウッドさんですよね?」
「どうしてぼくの名前を」
「よく妹から聞かされてましたから。とても優秀な影響紡ぎなんだそうですね。妹が仕事で大変お世話になったとか」
ふっと、ナタリアさんが笑った。「お姉ち……姉さん」と、ベル・ラックベルが少し気恥しそうに鼻の頭を搔きながら間に入る。
「いまバードウッドさんは、敵の魔導効果のせいで記憶を失くしてるの。だからそんな話をしても……」
「ふむ……? ん、ああ。そうだ。そうだったね」
「知ってたの?」
「その情報はすでに、僕たちにも共有されてる」
クレイがベル・ラックベルの肩に、大きな手を置いて言って、ぼくの方を向いた。
「バードウッドさん。妻からいろいろと話は伺っています。ここに来るまでのあいだ、呼々石 を通じて、一連の出来事の仔細は把握済みです……単刀直入に言いましょう。《魔王の遺産》を止めるには、あなたの力が必要だ」
「え?」「ぼくの力が?」
驚いたのは、ベル・ラックベルも同じだった。姉のナタリアさんが間髪入れずに続ける。
「私とクレイが所属しているギルド……《陽だまりの大樹》の分析士たち。結婚式に呼ばれていたメンバーは少数だけど、それでも後方待機しながら、得られた情報を逐次照らし合わせながら、対象の未詳侵攻機能体を解析した。結果わかったのは、あの《魔王の遺産》は瘴気を原動力に稼働しているわけじゃないってこと」
「正確には、瘴気を直接取り込んでいるわけではないということです」
二人の話と、共和国随一の情報収集チームの分析結果によれば、こうだ。
ぼくたち人間がご飯を食べて生きるように、モンストルや魔族たちは瘴気を摂取して生きている。奴らは肉体に取り込んだ瘴気を原料に体内で魔力を生成し、それを使って魔導効果を発現させる。
古代の文献によれば、懼れる貌のデルスウザーラは、その体内に莫大な量の瘴気を保持できる特殊な器官をいくつも宿していたとされている。魔王は侵略者であるのと同時に、歩く瘴気貯蔵庫だったというわけだ。だから、魔王の肉体から作り出された地下魔構には、大量の瘴気があふれているというわけだ。
でも、《魔王の遺産》は瘴気を原動力に稼働しているわけではないのだという。言われてみると不思議だけど、納得のいく話だった。もしほかのモンストルと同じく瘴気を活動の源にしているのなら、瘴気があふれる地下魔構の底で、百年近くも眠っていることの説明がつかない。仮にそうだとしても、なぜ、いま、このタイミングで起動したかを説明できる者は、この場にはいない。
偶然という名の必然というのは、やはり存在しない。すべては、ただの偶然が引き寄せた結果だ。
その最後のピースを埋めることになったのが、ぼくの奪われた記憶。
つまるところ、《魔王の遺産》――未詳侵攻機能体のひとつである《囀り》は、瘴気 ではなく、人間の記憶を糧に蘇る。
人の記憶。思念。わけても、最もエネルギーの高い「幸福に満たされた記憶」を取り込んで瘴気に変換する。そうして生成される瘴気 は通常のそれよりも活性状態が高く、ゆえに魔力への変換効率も高い。
「あれだけ巨大な構造体が平然と宙に浮かぶだけでも、莫大な魔力を消費するはずなのに、エネルギー切れを起こす気配はまるでない。情報体としての記憶と、エネルギーとしての瘴気を同列に語ることはできないけど、きわめて燃費のいい性能をしているのは間違いないねぇ」
でも、瘴気 の活性化状態は、極めてデリケートでもあるとナタリアさんは口にする。それは同時に、不安定な状態であることも意味していて、そのまま運用しているだけでは、外界への漏出が懸念される。だからこそ、それを防ぐための《蓋》が必要になる。
その《蓋》の役割を担ってしまっているのが、人の記憶のなかでも、最もエネルギーの低い「後ろ暗い過去の記憶」――
奪われたぼくの記憶。
《嘲り》の強欲さに、眩暈がする。
あの洞窟の奥底で、百年近くも人の幸福を貪り続けるだけでは飽き足らず、締めのデザートに要求してきたのがそれとは。奴のお眼鏡に叶ってしまったのがひどく口惜しいけど、逆に好機でもある。
「蓋を破壊するか、外すことができれば、活性化状態の瘴気は急激に劣化していく。《囀り》は消滅するしかない」
「それができるのは、バードウッドさん。あなたしかいません」
まっすぐにぼくを見つめて、クレイが微笑む。優しさを称えた笑みのように見えて、実はそうじゃない。こっちの度胸を試すようなまなざし。柔和な雰囲気の奥に、有無を言わせぬ迫力がある。
ベル・ラックベルの視線が突き刺さる。「後ろ暗い過去の記憶」と聞いて、まさかといった顔つきになっている。そんなものがあるのか。この人に。
ああ、きっとあるんだ。きっと。君が知らないだけで。
それは、ぼくも知らない、ぼくの過去。
「やってやるさ」それ以外の返事はなかった。「これ以上の被害を広めないためにも、ぼくの手でケリをつける」
「ありがとうございます」
感謝の言葉を告げるクレイのそばで、ナタリアがうなずく。
「道はすでに作ってあります」振り返って、クレイが指を差す。「さっき、僕の攻撃で傷をつけたところを見てください」
どこまでも続いていそうな、暗黒の空間。その奥で、きらきらと白く光るものがある。
「あれが蓋です。魔核晶のようにも見えますが、正確には、あなたの記憶情報が結晶化されて、あそこに漂っている。ベルが最初の魔導障壁を破ってくれなかったら、あそこまで大きな傷を与えることはできなかったでしょうね……僕の魔導効果で、一気にあそこまであなたを飛ばします」
「危険はないの?」ベル・ラックベルが、ぼくの身を案じるように言った。「もしなにかあったら、取り返しがつかない」
「分析士たちの調べでは、ある種の異空間というか、精神に干渉を及ぼす特殊領域になっているって話だよ」と、ナタリアが努めて冷静な口調で言う。「肉体的な損傷は被らない。ただし、精神的な負荷はかかる。想像している以上にね」
姉の意見を耳にして、ベル・ラックベルが口を閉ざした。ほかになにを口にしても、それしか方策がないことを頭の中では理解しているからなのだろう。
「気持ちの勝負ということですね」と、自分に言い聞かせるように、ぼくは口にする。
と、そこで《嘲り》の全身から再びの轟音。ただし、今度は悲鳴に近い音じゃない。逆襲に燃える、手負いのモンストルのような響き。全身を覆う装甲は、その四割近くが異空間に吸い込まれて剥ぎ取られて、見るも無残な姿になっているが、それでも覇気はなくしちゃいないらしい。
「まずい。そろそろ動き出す」
クレイが初めて焦るような口調で言った。ぼくの背中に手を当て、早口で問いかける。
「準備はいいですか?」
「ああ、大丈夫」
「いまから使うのは、任意の二つの地点を時空間ごと接続する、超躍移動の魔導効果です。詠唱を唱えたら、あなたは《嘲り》の内部に入り込むことになる」
「覚悟はできてる。ひと思いにやってくれ」
「おい、若僧」
声がした。土埃に汚れたエディと、気を失っているままのノヴィアを肩に担いだキレートが、こっちを見ている。
「気張っていけよ」エディが、年季を感じさせる親指を立てて、渋い笑みを浮かべて言った。
「こっちは任してくれ。思い切りやってこい」キレートの心からの声援が、どこかむず痒い。
「ありがとう、二人とも。ノヴィアさんに、よろしく伝えてくれ」
「バードウッドさん」
ベル・ラックベルの鳶色の瞳に見つめられると、なぜこんなにも胸が熱くなるのだろうか。
「伝えなきゃいけない事があるって、言ってましたよね……必ず、聞かせてください」
それを探すために、往くのだ。
「では、はじめます」
クレイの手が、静かに背中に触れるのがわかった。高速圧縮詠唱ではない、ノーマルの詠唱。その終わりの一節がぼくの脳に届いた刹那。
トム・バードウッドの、人生最後の冒険がはじまった。




