最終話 お気持ちの表明(相関による共感とは)
前に共感には相関を使うという話をしたことがあるのだけれど、今回はそれに関する補足のお話。
まず、相関による共感とはなにか?
話し相手のエピソードに近い物事を想起して共感するのが相関による共感。
ぼくは普段これを主に自動的に使っている。
文学的な素養のある人はみんな持ってる感覚だと思うんだよね。
桜の散りざまを見てしみじみしたり。川の流れを見て無常を感じたり。そういうやつ。
人に対していうのなら、泣いている人の感情を考えていっしょにしょぼんとしちゃうような。そういうやつ。
こういうのとは違って、自他境界が曖昧な人がする「共感」があり、それができる人はすごく情の篤い人のように称賛されたりするじゃない。
純粋な共感とか、ホンモノノ共感とか、無垢なる感情とかさ。
そんで、ぼくみたいな人は感情の薄い冷徹な人と思われたりしてさ。
ひとこと言いたいんだ。それって間違ってないか? って。
自他境界が曖昧な人の共感は、実は多分に錯覚を含む。泣いていても自分のために泣いているっていうかさ。カタルシスを得るために泣いている。みたいな。
あるでしょ。泣きたいから映画を見に行くとか、泣きたいから感動する話を見にいくみたいな。これって相手に共感してるんじゃなくて、自分のために泣いてるんだよ。
ぼくは、そういうのはない。
はっきり言っていい? あれのどこが情に篤いのか。
こういうのって、自他境界の曖昧な人、つまりはおこちゃまに多いパターンだと思うんだけどね。
ぼくはそれを情に篤いだのと評価するのは、正直どうかと思う。
といっても、別に批判したいわけじゃないんだ。
いわゆるホンモノノ共感や自他境界が曖昧な人の共感によって共感される相手が救われるのなら、それはそれでいい、と思ってるんだよね。
何がいいたいかというと、人が感情を分かち合うとき、それは完全に他者に向けられたものではなく自分自身へ向けた感情も同時に含まれているってこと。
そして、それが「寄り添っている、あなたはひとりじゃない」と、たとえ錯覚でも相手に伝わるメッセージとなるのなら、別にそれでいいのかなぁって。
感情が薄いとか冷徹とかそんなふうにおもわれている、ぼくはそう思ってます。
じゃあね。
読んでくれた皆さんに幸あれ。
またいつか会いましょう。




