知能は環境か遺伝か
知能を考えるとき、環境か遺伝か、なんて話をよく聞くことがあります。
普段、ぼくはみんながノリやすいようなトレンドの前提を持ち出して、「環境半分・遺伝半分」といったところを前提に話を始めます。でも、正直に言うと、こんなことを考えている時点でどうかと思っています。
なぜかというと、あらゆる確率分布が環境と要素群とで成り立っているからです。知能もそう。
遺伝子が発現するには環境が必要ですし、発現した遺伝子が生かされるかどうかも環境次第です。環境と遺伝は複雑に絡み合っていて不可分です。
病気にしてもそうですよ? 環境と遺伝子(などの要素群)とで発生確率が変わってくる。なぜなら確率分布は環境と要素群とで成り立っているからです。
最近遺伝的な病について、「環境と遺伝子」の両方が影響しているみたいな言説を目にするようになりました。ぼくに言わせれば、「確率分布がそれで構成されてる」んだから自明だろって話です。
そんなものが再発見されるレベルなんですよ。知能を誇る連中の知能って。
さらにいえば、個人の知能なんてものは、どこまでいっても個人を構成する一要素に過ぎませんし、その一要素でさえも流動的で、常に同じパフォーマンスが出るわけではありません。
ぼくはそう考えてるけれど、話のネタとして、多くの人が思考を開始するであろうポイントを前提としてエッセイを書いている。
なんでかというと、ぼくが個人的なものの見方にそった前提を立てた場合、話が難解になりすぎるからです。ところが、まぁ、こうして一般的なところに前提を置くとぼくの主張がそうであるかのように内容を曲解されるんですよね。
個人的な楽しさで言えば、こうした本音が曲解されるエッセイを書くよりも、高難易度のゲームで遊んでたり、未知の物事の構造を考えて関数をモデル化している方がずっと楽しい。
もうやめようかなって割とまじで思ってます。そんな話。




