表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
290/292

知能は環境か遺伝か

 知能を考えるとき、環境か遺伝か、なんて話をよく聞くことがあります。


 普段、ぼくはみんながノリやすいようなトレンドの前提を持ち出して、「環境半分・遺伝半分」といったところを前提に話を始めます。でも、正直に言うと、こんなことを考えている時点でどうかと思っています。


 なぜかというと、あらゆる確率分布が環境と要素群とで成り立っているからです。知能もそう。


 遺伝子が発現するには環境が必要ですし、発現した遺伝子が生かされるかどうかも環境次第です。環境と遺伝は複雑に絡み合っていて不可分です。


 病気にしてもそうですよ? 環境と遺伝子(などの要素群)とで発生確率が変わってくる。なぜなら確率分布は環境と要素群とで成り立っているからです。


 最近遺伝的な病について、「環境と遺伝子」の両方が影響しているみたいな言説を目にするようになりました。ぼくに言わせれば、「確率分布がそれで構成されてる」んだから自明だろって話です。


 そんなものが再発見されるレベルなんですよ。知能を誇る連中の知能って。


 さらにいえば、個人の知能なんてものは、どこまでいっても個人を構成する一要素に過ぎませんし、その一要素でさえも流動的で、常に同じパフォーマンスが出るわけではありません。


 ぼくはそう考えてるけれど、話のネタとして、多くの人が思考を開始するであろうポイントを前提としてエッセイを書いている。


 なんでかというと、ぼくが個人的なものの見方にそった前提を立てた場合、話が難解になりすぎるからです。ところが、まぁ、こうして一般的なところに前提を置くとぼくの主張がそうであるかのように内容を曲解されるんですよね。


 個人的な楽しさで言えば、こうした本音が曲解されるエッセイを書くよりも、高難易度のゲームで遊んでたり、未知の物事の構造を考えて関数をモデル化している方がずっと楽しい。


 もうやめようかなって割とまじで思ってます。そんな話。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ