流動性知能
知能の話を書くと、傷つく人が出るのは本当に遺憾だ。
この齟齬は、多くの人が知能を「固定的なものだ」と考えているのに対し、ぼくは知能を「流動的なものだと思っている」ところからきている。
個人的に、ぼくは「馬鹿な人」と思わずに、行いについて「馬鹿な行為だ」と思うことにしている。
ただ、馬鹿な行為ばっかりしている人とは距離を置くのみだ。
ぼくが「大衆」というときは、常に統計的な釣鐘状のグラフの真ん中らへんをイメージしている。「ボリューム層」と言いかえたりしているのはそのためだ。
一番多くの人が当てはまるのが「大衆」なので、いうなれば誰だって当たり前にボリューム層的な思考を取りうる。
お酒を飲みながら、ざまぁや勧善懲悪もののなろう小説を読んだりするのは、実のところぼくは大好きだ。
そういう考え方を「普段はしない」、というだけで。
つまり、「この層がこういう考え方をするのは、こういう理由からだろう」というシステムの話で、ぼくは終始システムの話しかしていない。
成功率が常時半々かそれを切れば、ぼくだってそういう思考を取りうるだろう、ということだ。
前話はそのシステムにトランプ氏の扇動ワードがフィットするという主張であって、誰かにマウントを取りたいわけでも、傷つけたいわけでもない。
お酒を飲んだり、風邪薬を飲んでたり、熱があったりするならば誰だってボリューム層どころか下位層にだって、入りうるものなのだ。
要するに誰か特定の人のことを言っているわけではないので、傷つかないでほしい。
知能が固定されているなんて単なる思い込みである。
「テストでは常にいい点取らないといけない」なんて決めつけや、そんな前提に基づく「紙切れごときで知能がわかるなんて教育者の驕り」は、糞食らえだ。




