選択と集中は結果であるべき(大学の数について)
国内じゃ少子化による受験者数の減少と大学の数との間でミスマッチがおきていて、いわゆる「全入」というか、入学試験がまともに機能しなくなってきている。
えっくせずでは、大学の数を減らしたほうがいいとか、いや維持するべきだとか、そんな話題が度々TLにのぼってくる。
大学の数が多すぎるのは「結果」であるので、そこに「選択と集中」みたいなアプローチをしても仕方がない。
既得権益の大学教員が、それ(結果)に対し「研究の裾野が」みたいに反論するのも馬鹿げている。
根本的な原因は、日本の大学の卒業試験(卒論含む)が簡単すぎるからで、「誰もが卒業できる」ことを前提にみんながお気楽に大学に行くからこそ、無駄な大学が増えてリソースが食われている。
奨学金の問題もそう。
大学卒業資格に相応の価値がないから、返済が問題になる。
学歴フィルターがあるなし云々じゃなく、ぶっちゃけ採用する側はフィルターの精度に期待してるんだから、全入は企業も困る。
これらの状況を好転させるのは簡単で、卒業試験(卒論含む)を学校の格に相応しいレベルに難しくすることだ。
1校でやるんじゃなしに、教育システムとしてやる。
これでまともな大学はブランド力を取り戻すし、自動的に大学の数が調整されて有象無象は消える。
いろんな人に、いろんなメリットが生まれるよ。
卒業する意味も価値も増し、大卒者のお給料もあがって奨学金を返済するのも簡単になるでしょう。
さらに高卒で働く人が増えて、労働力増加も期待できるだろうね。
日本の大学が「システムとして」もっと厳格な卒業試験(卒論含む)を導入することで、それに対応するための質の高い大学教育が提供されて、結果として自然と「選択と集中」がなされる。
企業も求めるスキルを持つ人材を適切に集められ、高いお金をかけても採用をする価値が生じる。
まっとうな大学に金銭的あるいは学力的リソースが集約されて、海外の大学とも競争できるようになるし、「院」にも潤沢な予算が回るようになるでしょう。
今回はそんなお話。




