「死生観」と「生死観」
みなさんは「死生観」とか「生死観」について、考えたことはありますか?
これらは、「死」と「生」に対する考え方です。
「死」と「生」、みなさんは、どちらに重きを置きますか?
あえて両方俎上にのせたのは、双方を包括的にみてみようと、そう思ったからです。
はじめに、「死生観」からいってみましょう。
ぼくは、みなさん、こっち(死生観)側派だと思うんですよね。
誰しも、あたりまえに生きてますから、死を「特異点」的に捉えて、「死んだらどうなっちゃうんだろう?」を起点として考えますよね。
例えば、死後も強い思いは残るとか、霊魂が残るとか、転生して異世界にとか、天国にとか、悪いことをすると地獄にとか、最後の審判がとか、輪廻がとか、さ。
死生観とは、そういった考え方のことです。
中身には、自ずと宗教が絡んできますよね。
反対に、生死観では、死というのは非常にありふれた「あたりまえ」の状態です。
肉を放置しておけば、当然に食われたり虫が卵を生んだり腐敗したりしますよね。
命(生)があるからこそ、その状態を免れている。
死は自然な状態であり、生こそをありがたい「特異点」といった感じに捉えます。
生を特異点的に捉えると、『博愛主義』になります。
「命(生)のあるものは等しく貴重ですし、死ぬのは別に普通のことなのだから、貴重な生を謳歌しましょう。あらゆる生を祝福しましょう」というわけです。
だからこそ『博愛』になります。
死生観なのに博愛主義をうたってる、なんてのは、ペラい嘘っぱちです。
死生観の方々は、優生思想と戦わないといけません。
いずれにしても、社会とは妥協点が必要で、いろんな国でいろんな妥協点が見出されてます。
例えば、ある国では無謬性や社会的合意を担保にとって、死刑の許容とか中絶の認容とかがなされている。戦争なんかは割り切れない部分が出てきますよね。
どこかしらに矛盾や歪が出てくる。だから、『妥協』。
この「妥協」にはローカルコミュニティーに根付く低次元(レイヤーが低いという意味で悪い意味ではないです)の宗教的あるいは社会的合意が絡むから、死刑廃止だの、中絶禁止だのと、むりくり生死観側の価値観をグローバルに押し付けるのは違うよなぁって、ぼくは思います。
今回はそんなお話。




