『啓蒙』の意味
今回は『啓蒙』のお話。
基本的に人間は自由意志によってのみ、現在行っている行動を変えます。
つまり、『他人の行為を変えさせよう』という場面においては『啓蒙』は、意味のない行為です。
頑固な子(おっさんニート含む)に理を説いても、『なんの意味もない』のはみなさん、なんらかのご経験がおありかと。
本人が自分で意志を変えない限り、周りが『どんなに素晴らしいことを言おうと』、『なろうに啓蒙エッセイを書こうと』どうせやり続けます。
行動を変えさせたいなら、本人が行動を変えたくなるように、例えば賞罰を与える必要がある、ということです。
だけれども、頑固な子(おっさんニート含む)が新しく何かを始めようとしたときには『啓蒙』は意味を持ちます。
人は新しく何かを決定するとき、(集団浅慮なんかの例を見れば分かる通り)、他者の意見の入り込む余地が生じます。
「くどくど周りがうるせーから、今度はこうするかな?」と、『自由意志でする』本人の決定に介入できる余地が生じるんです。
『啓蒙』は一見すると無駄な行為ですが、ここまで考慮してやっているという前提で、ぼくはやってる方たちを尊敬してます。
こういうことって、実は多くあって例えば『マナー』や『言葉遣い』なんかでも同じことが言えたりします。
『ら抜き言葉』なんかに対して、『言葉は変わるものだから』と個人的に思うのはいいのですけれど、殊更それを強調するようなご意見を仮に影響力のある方がいうのなら、それは『言葉の変化の速度を加速する』結果をもたらすかもしれない、とそんなふうに思いました。
今回はそんなお話。




