表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
262/292

『啓蒙』の意味

 今回は『啓蒙』のお話。


 基本的に人間は自由意志によってのみ、現在行っている行動を変えます。


 つまり、『他人の行為を変えさせよう』という場面においては『啓蒙』は、意味のない行為です。


 頑固な子(おっさんニート含む)に理を説いても、『なんの意味もない』のはみなさん、なんらかのご経験がおありかと。


 本人が自分で意志を変えない限り、周りが『どんなに素晴らしいことを言おうと』、『なろうに啓蒙エッセイを書こうと』どうせやり続けます。


 行動を変えさせたいなら、本人が行動を変えたくなるように、例えば賞罰を与える必要がある、ということです。


 だけれども、頑固な子(おっさんニート含む)が新しく何かを始めようとしたときには『啓蒙』は意味を持ちます。


 人は新しく何かを決定するとき、(()()()()なんかの例を見れば分かる通り)、他者の意見の入り込む余地が生じます。


「くどくど周りがうるせーから、今度はこうするかな?」と、『自由意志でする』本人の決定に介入できる余地が生じるんです。


『啓蒙』は一見すると無駄な行為ですが、ここまで考慮してやっているという前提で、ぼくはやってる方たちを尊敬してます。


 こういうことって、実は多くあって例えば『マナー』や『言葉遣い』なんかでも同じことが言えたりします。


『ら抜き言葉』なんかに対して、『言葉は変わるものだから』と個人的に思うのはいいのですけれど、殊更それを強調するようなご意見を仮に影響力のある方がいうのなら、それは『言葉の変化の速度を加速する』結果をもたらすかもしれない、とそんなふうに思いました。


 今回はそんなお話。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ