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教養の客体

 たまには、文系っぽい話を。


 最近、『えっくせず』と『なろう』で立て続けに『教養』に関する話題をみたんだけどね。


 どちらも教養がマウントの道具として使われていて、残念な気分になった。


 曰く『あの人は教養がない』だとか、曰く『教養がない人はこう』だとか。


 教養を自分の得意なフィールドに好き勝手設定して、相手は劣っていると決めつけているわけだ。


 すげぇくだらないな、ってぼくは思う。


 教養の本質ってさ、客体にあると思うんだよね。


 例えば、哲学やら世界史やら人権意識やらを学んで、どんな考え方を身に着けたか? とかさ。


 マウントの道具に使うよか、そっちのほうが重要なんじゃないの? って。


 みんなが大嫌いな作者の心情を聞く国語の問題なんかもそうじゃない?


 作者の心情なんてわかるわけ無いって思うじゃん?


 まぁ、実際作者の心情なんてホントのところはわかんないし、そんなもんに点つけられるの? って思うんだけど、文系向けのやつだと、作者が置かれていた時代背景、作者特有の個人的思想、作者の経済状況、当時の国内情勢と国際社会との関わり、当時主流の考え方なんかを教養として前提に使ってね、その客体として作者の心情を読み解くようにできている。


 そんな感じでさ。


 つまりは、教養ってほんとは他者理解に使うものなんじゃないの? って今回はそんなお話。

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