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『萌え』と『推し』

 今回はゆる~いよ。


 ツイッターで、『萌え』は対象が客体的で、『推し』は対象が主体的という言説を見て、おおっと思ったので、今回は萌えと推しについて考えてみる。


 お話の前提として、今の状況は『萌え文化から推し文化へとシフトしている真っ只中』とする。


 ここまでに同意していただくとして。


 なんで、こんな事が起こるんでしょうねぇ。


『萌え』と『推し』は対象の『主客』という性質差以外にも、自己完結するか?(萌え)、布教活動するか?(推し)みたいな差があると思われます。


『萌え』の対象は不特定多数でもいいのに対し、『推し』はグループの中の特定の数人とかであったりする。


『推し』のほうが限定的といいますか。


 箱推しとかもあるよね?


 複数の箱から一つの箱を、みたいな。


 いずれにしても、『萌え』と比べて『推し』にはより強い競争原理が働いているのが見てとれる。


 グループの中から特定のだれかを、とか。


 似たようなグループたちの中から特定のグループを、とか。


 アイドルの売り出し方がグループ化していくこととも、無関係じゃないんだろうなぁ。


 オタクがメジャー化し、社会的不安や孤立感を紛らわせるツールとしてSNSなんかが発達した結果、対象や『同じ推し』同士の距離が縮まった。


 つまり、布教活動しやすいインフラが整った。


 そうした上で、市場の飽和による競争原理が働いているのかなぁ?


 この前提で考えを進めると『同担拒否』思想は、生きた化石みたいになるんだよね。


 考えるとちょっと面白いかもしれない。


 今回はそんなお話。

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