ぼくの教育論
たびたび教師に恵まれなかった、みたいなことを書いているぼくですが、じゃあいったいどういう教育が良かったと思っているのか? ってことについて現時点でのぼくの考えを書いてみようと思います。
算数を例にとってみると、案外みなさんもそうだったかもしれませんけれども、ぼくが学生の頃は『出席番号』や『その日の先生の気分』で当てられて、黒板の前で、公式に数を代入して結果を出す過程を書かされるという授業が行われていました。
事前に宿題が出されてね。
ちなみにケアレスミスをすると『先生が面白おかしく、バーツ! と叫びながらでっかいバツをつけて、みんなに笑われる』という恐ろしいおまけ付きです。
こんなやり方じゃ、間違った子は傷つくし、失敗体験から苦手意識が植え付けられますよね。
緊張を強いられることで、勉強そのものが苦手になるかもしれません。
はっきりいって子供のためにならない。
実際、宿題をノートごと忘れちゃったり、あるいはやってなかった子などは『真っ赤になって泣き出しちゃう』とか、『しどろもどろになって大笑いされる』とか、そういう公開処刑が行なわれていました。
ぼくは宿題なんて一切やらず、その場で考えてバツをもらって返ってくる子でしたけど、なんでわざわざ見世物のように黒板の前の子の間違いを論うようなことをするんだろう? って常々思っていました。
『覚えた公式に代入して、四則演算できる』というだけのくだらない確認作業を、毎回毎回やって何になるの? ってそんなふうに思ってたんです。
そんな反発の気持ちもあって、ぼくは毎回宿題を一切やらずにその場で解いてました。
ぼくは小学生ぐらいの頃は、算数はわりと得意だったんですよ。
途中で大嫌いになって文系に行きましたが。
例えば、台形の面積を求める問題があったとしましょう。
上底5cm、下底7cm、高さ4cmのプリンみたいな形の台形を想像してください。
みなさんが公式を忘れていたとした場合、どうでしょう?
ひっくり返した台形を横にもう一つくっつけて公式を導きますかね?
一例として、こんな解き方があります。
(7-5)✕4÷2+4✕5=24(平方センチメートル)
何をやったかっていうと、プリンの左上端をぐいっと右に押して台形を三角形+四角形に変形しました。
台形の面積の公式を知らなくたって、四角形と三角形の面積の出し方を知ってればその場で考えて解けますよね。
ちなみに三角形の面積の公式さえもついでにド忘れしちゃうような、ポンコツな子(昔のぼく)の場合、図を書き書き、こんな解き方で解きました。
4÷2÷2✕2✕2+4✕5=24(平方センチメートル)
計算量が多そうですが、÷2と✕2を同じ回数掛けてるので、全部消えて実質4+4✕5ですね。
何をやったかお分かりになりますか?
こういうのをね。
黒板に書くと毎度毎度バツにされまして、ぼくは算数が大嫌いになりました。
ぼくはこういう『仕組だとか構造だとか』に、面白い部分がいっぱい詰まってるって思うんです。
こういう部分を教えることこそが『問題解決能力を育む』と思うんだけれど、実際に行われている教育は、公式を丸暗記させて代入させたりと、兎角ひたすらにトライアンドエラーです。
プログラミング的思考教育もそう。
内容を見てみましたが、網羅+トライアンドエラー的でマニュアル信仰の『構造や仕組み』を考えない子が育ちます。
多分教える先生方も知らないでしょ? 構造化定理とかさ。
プログラム自体は組めようになるのでしょうけど、言われたことだけをこなす下流限定のプログラマーになりますよ?
なんで本質から目を遠ざけるような教育を行うんでしょうか?
ぼくは、ぼく自身、学校で受けたトライアンドエラー教育で、苦手意識を持ったりしてずいぶん頭が悪くなったと思ってます。
実家がお金持ちだったら、学校なんて一切いかず、まともな家庭教師をつけてもらったほうが圧倒的に頭が良くなるでしょうね。
トライアンドエラーってね。人間がやるものじゃないですよ?
機械にやらせるものなんです。
機械が発達した今日日、考えられない歯車を量産してどうするつもりなんでしょう?
家庭教師をつけられるお金持ちの子だけが、お金持ち家庭を続けられるようにしたいんでしょうか?
個人的な怒りが湧いてきて、すげー辛辣になったけど今回はそんなお話。




