イケメン無罪! ルッキズムの根深さ
今回は、みんな大好きルッキズムのお話。
見た目のいい人が優遇されて、見た目の悪い人が冷遇されることをルッキズムといいます。
これがすごーく根深くてね。
語弊を含むことを承知のうえでわかりやすく言うと、人間って、過去に出会った人たちの平均を美しいと思うようにできているんですって。
聞いたことありません? 最も美しい顔は人類の平均値だ、みたいな。
逆に平均値であるがゆえに、多くの人が美しいと思う、みたいな理屈。
これが『正しい』と仮定してのお話なんだけどさ。
例えば、見たことのない人種の平均顔なんてわかりようがないですよね?
つまり、ご自分の記憶の中の平均値から乖離したものを、人はぶさいく(キモい)と思うように出来ている、と。
そうしてみると、白人に囲まれて育った人は白人を美しいと思うかもしれないし、黒人に囲まれて育った人は黒人を美しいと思うかもしれない。
虐待されて育った人は、『優しくしてくれた人たちの平均』を美しいと思うかもしれないし、……とまぁ人種に限らず評価は人の数だけあるんだけどね。
そうして、見た目だけじゃなく、美しいと思うものには、声とか仕草とかそんなのもあるかもしれない。
で、この現象は、パターン認識から生じている。
動物やAIすらも同様のメカニズムをもっててね。
これって、生得的に得る仕組みなのだ。
例えば、歌のうまさで人を採用しようとしているときに、歌を聞くことなく顔で不採用にしたら、それはルッキズム(差別)以外の何物でもないんだけど、同じぐらい歌が上手い人のどちらを採用するかとなったら、記憶の中の平均値に近い方(顔でも歌声でもどうでもいいが本人にとってキレイな方)を選びがちになるという部分については、生得的な機能といえる。
人種差別と言われるもののなかにも、実は『パターン認識の結果』で本人には差別意識がないものもあるかもしれない。というのがまず一つ。
もうひとつは、このパターン認識が『公平さ』などのモノサシの形成にも関わっているという恐ろしい事実。
白人に囲まれて育った人が、白人が檻に囚われて虐待されているのを見たときは『公正感』(過去の記憶によりパターン認識で構築されたモノサシ)が働いて、強く憤るかもしれないけれど、ぼくのような黄色人種が囚われてるのを見たならば、『公正感』が機能せず、大笑いをしながら眼を横に引き伸ばすジェスチャーをするかもしれない、って話。
本人には差別意識がないから、客観的に物事を見るメタ認知能力が『一定』より低いと治らなかったりする。
そして、その『一定』って実はかなりハードルが高いのかもしれない。
恐ろしいでしょ?
逆に、動物の他種間の友情みたいなものにも、この機能が働いてるんじゃないのかな?
記憶の中で他種の動物に触れ合ってきたから、他種の動物に対しても『公正感』が機能する、みたいな。
餌を他種の動物とシェアしたりしてね。
少し前のエッセイで書いた、多様性のサイズが大きい場所にいると、グローバルスタンダードに対する情報感度が高く、小さい場所にいると、記憶パターンが更新されず、古く保守的な価値観をもっていがちである、みたいな話もここからきてる。
つまり、おそらくルッキズムとは、認知システム上のパターン認識に依存していて、その大半が本人に差別意識がないケースだから、『相当メタ認知能力が高くないと修正が効かない』んじゃないかってこと。
今回はそんなお話。




